二宮〔壹粟神社/久刀神社/菟上神社/長田神社〕(真庭市社)

二宮。

式内社四社五座が一つの境内に並んで祀られており、かつそれぞれの神社が独立している(二宮という神社ではなく、壹粟神社、久刀神社、菟上神社、長田神社が別個の宗教法人として登録されている)という珍しい形式の神社。

式内社 壹粟神社二座、久刀神社、菟上神社、長田神社の比定社、論社。

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境内

社頭

 

鳥居

 

社号標

 

手水鉢

 

境内にはブランコ・滑り台があります

 

拝殿後ろに狛犬

拝殿

拝殿

四社五座の本殿に対して一つの拝殿という形式。

本殿

左から長田神社、菟上神社、壹粟神社・大笹神社(相殿)、久刀神社と並んでいます。

 

長田神社

 

菟上神社

 

壹粟神社・大笹神社(相殿)

 

久刀神社

境内社等

境内社

扁額によれば、左から下兔上神社、上兔上神社、谷奥神社、公文神、谷奥大神、大神峪大神。

 

愛宕神社、荒神社

 

山神碑

 

渡唐天神碑

 

社頭の地神碑

 

真庭市指定文化財史跡 式内社神座 標柱

神集場

当社の西150mほどのところに、神集場(かんなつば)という場所があります。

社地区の式内社八社が合同で行う、4月5日の春祭、10月9日の大祭、11月30日の霜月祭の年3度の例祭を「八社祭礼」「八社神行」「神集まり」というそうで、神集場はその名の通り、8社の神々が集まり神事が行われる場所。

春祭と霜月祭は神主と総代10名程で、大祭は地域をあげて行うそう。

 

場所はここ(位置

 

社前の県道56号を西に150mほど行くとお堂

このお堂は大御堂といいます。

 

塞㘴大神(?)

 

大御堂外観

 

大御堂内部

 

大御堂

大御堂が創建されたのは、寿永4年(1185)と伝わりますが、定かではありません。堂は現在、「堂ノワキ」という場所に位置し、北側に「堂ノモト」という地名があることから、本来は現在地のやや北へ建てられていた可能性があります。建築された当初は、柱には、かつて板戸で仕切られていたことを示す跡が残されており、幾度かの再建・修復を繰り返しているものの、部材には室町時代以前に遡る古材も多く残されています。

社地域の式内八社でも、江戸時代までは、神を仏として祀る「神仏習合」が行われており、この大御堂もかつては「神宮寺」とも呼ばれていました。今もその名残として、堂の西側に「神集場」という御旅所があり、秋祭りには8社の神々が集まって神事が行われます。また、毎年7月中旬には、地域住民が堂に集まって大きな数珠を廻し、五穀豊穣や虫除けを祈願する「百万遍」も行われています。

 

大御堂の左手に社コミュニティハウスという集会所があり、そのさらに左手に回ると…

 

奥に建物が

こちらが神集場。

 

神集場外観

 

神集場内部

祭祀の時の御旅所なので、普段は何もありません。

 

神集場

『祭礼(秋祭)の際に、「式内社」の八神が一堂に集まる御旅所。』

由緒

由緒板

二宮

社字二宮にあることから通称二宮と呼び延喜式による式内八社のうち五社が祀られている。

一.久刀神社(祭神、久那止神)

清和天皇貞観六年従五位上に叙せられ、社殿は康和三年、正嘉元年に再建。

二.長田神社(祭神、事代主命)

貞観六年従五位上に叙せられ、康和三年、保延四年、正嘉元年、文明十一年、嘉永六年に再建。

三.菟上神社(祭神、弟彦王=和気清麻呂公十二世の祖)

永禄二年(棟札)、梁に正一位とあり、貞観六年従五位上に叙せられ、康和二年、保延四年、貞治五年に再建

四.壱粟神社(祭神は神大市姫命)大笹神社(祭神は大佐々神)の二社相殿である。貞観五年大佐々神社従五位上、同六年壱粟神社従五位下に叙せられ、康和二年、建長六年、貞治五年に再建

右五社はいずれも式内村社であった。

 

二宮

この場所には、社地域にある「式内社」のうち、久刀神社、長田神社、兎上神社、壱粟神社、大笹神社の5社が集まっており、「大社」の佐波良神社・形部神社に次ぐことから、「二宮」と呼ばれています。

「式内社」とは、醍醐天皇の命令により、平安時代中期に編さんされた「延喜式」という法令集に記載されている神社のことです。現在の社地域には、この式内社が8社あることから、通称「式内八社」と呼ばれています。

壱粟神社と大笹神社がひとつの社殿に合祀されているため、社殿は4つとなっています。祭神はそれぞれ、「久那止神」、「事代主神」、「弟彦王」、「神大市比売命」・「大佐々神」といわれています。

北側の山林や畑は、「オノカミ」という地名で、そこから祭祀用と思われる土器が出土したことがありました。そのことから、本来、別々の場所にそれぞれの神が祀ってあったものを、現在地に集めたのではないかとも推測されますが、定かではありません。

 

冒頭で述べた通り、当社は4つの独立した神社の本殿が1つの境内地に並び、1つの拝殿を共有しているという特殊な形式になっています。

便宜上「二宮」と通称されますが、正式な社名ではなく、法人登録は4社個別になされている模様(「二宮神社」として紹介しているサイトが多いのですが、『式内社調査報告』では「二タ宮(フタミヤ)」、岡山県神社庁真庭支部や社地域振興協議会のサイトでは「二宮」としており、境内の案内板も「二宮」。したがって「神社」を付けないのが本来の形かと考え当記事では「二宮」としました。ただ、社地域振興協議会のイベント案内や真庭市指定文化財一覧表などでは「二宮神社」の表記も見られました。そもそも通称なのでどちらでもいいのかもしれませんが)。

菟上神社以外は大庭郡の各郷にあったのを、ある時期に意図的に集めたものと考えられています(社地区の他の場所に鎮座する形部神社、佐波良神社、横見神社も同様)。

 

当地の4社および同じ社地区の形部神社、佐波良神社、横見神社の計8社(壹粟神社が2座のため)は、合同で八社祭礼を行います。上述の通り、当社の西150mほどのところに、八社が集まる「神集場」があります。

 

 

以下各社毎の由緒。

壹粟神社(相殿:大笹神社)

創建時期は不詳。

 

三代実録 貞観5年(863)5月28日庚寅条に見える「美作国従五位下…大佐々神…授従五位上」の大佐々神を相殿大笹神社に、同6年(864)8月15日己巳条に見える「美作国従五位下…壹粟神…授従五位上」の壹粟神を壹粟神社にあてる説があります。

延喜式神名帳では「美作国大庭郡 壹粟神社二座」。元より一社二座だったのか、延喜式編纂までにそうなったのかは不明。

三代実録の大佐々神については他に津山市大篠の大佐々神社をあてる説もあり、延喜式でいう二座のうちの一座が大佐々神であるという確証はありません。

なお上記の三代実録 貞観6年8月15日己巳条に「美作国従五位下…前社神…授従五位上」ともみえています。この前社神を、壹粟神社二座のうちの一神とする説もあると、『日本歴史地名大系』は述べています。

 

『作陽誌』に「一座為壹粟、一座為大佐々、相殿祭之」、『大日本史』に「祀壹粟大佐々二神、神名拠土人伝説」とあり、現在の祭神はこれらの説によると思われます。

『大日本史』に、元は久世郷(現在の真庭市久世あたり)に鎮座していたとする説が挙げられています。

 

旧社格は村社。

久刀神社

創建時期は不詳。

 

三代実録 貞観6年(864)8月15日己巳条に見える「美作国従五位下…久止神…授従五位上」の久止神を当社にあてる説があります。

延喜式神名帳では「美作国大庭郡 久刀神社」

 

祭神は久那止神。『美作国神社資料』『特選神名牒』に由来する模様。

『大日本史』に、元は横田郷に鎮座していたとする説が挙げられていますが、和名抄の大庭郡に横田郷の名は見えず、その場所は不明(田原郷の誤記でしょうか…)。

『岡山県通史』は「今按明細帳下和村久那止神社あり。是式の久刀神社にて社村なるは後に移し祭れる社なりと云り。何れが是ならん今決めがたし」し、下和村久那止神社=中和神社(より厳密にはその旧地の久那止荒魂神社)が式内社で、当社はそこから勧請されたとする説を挙げています。

 

旧社格は村社。

 

菟上神社

創建時期は不詳。

 

三代実録 貞観6年(864)8月15日己巳条に見える「美作国従五位下…菟上神…授従五位上」の菟上神を当社にあてる説があります。

延喜式神名帳では「美作国大庭郡 菟上神社」

 

祭神は岐神、弟彦王命。『美作国神社資料』『特選神名牒』では岐神のみを挙げ、昭和27年の神社明細書に弟彦王命が挙げられています。

弟彦王は垂仁天皇皇子・鐸石別命の曾孫で、三韓征伐の帰路に謀反を起こした忍熊王を討った功績から藤野(磐梨)県(後の和気郡)を与えられた人物。この人物の12代後裔が和気清麻呂です。

当社は当初よりこの地に鎮座していたとされます。

 

旧社格は村社。

長田神社

創建は不詳。

 

三代実録 貞観6年(864)8月15日己巳条に見える「美作国従五位下長田神…授従五位上」の長田神を当社にあてる説があります。

延喜式神名帳では「美作国大庭郡 長田神社」

 

祭神は事代主命。『美作国神社資料』『特選神名牒』にて挙げられています。

『大日本史』に、元は布勢郷下長田村(現在の真庭市蒜山下長田)に鎮座していたとする説が挙げられています。

『岡山県通史』は「今按明細帳一説に社村にありとみえたれども、長田神社の下長田村にます事いと由あるが、上に本郡八座の官社すべて社村にありと云へるは、各村の社を同村内に移し祭れるものにて、真の式社は下長田村と云る確証と云べし。故今之に従ふ」とし、蒜山下長田の長田神社が本来の式内社だとしています。

 

旧社格は村社。

 

御朱印

御朱印の有無は四社いずれも不明。

アクセス

米子自動車道の湯原ICを降り倉吉・湯原方面(右手)へ。350mほど先(位置)で右折し橋を渡ります。

1.4kmほど先(位置)で右折。あとは県道56号を1.3kmほど走ると神社。

駐車場はありません。拝殿左手あたりから境内に進入は可能。

神社概要

社名

壹粟神社(いちあわじんじゃ)

久刀神社(くど/くとじんじゃ)

菟上神社(うのがみ/うなかみ/うかむ/おのかみじんじゃ)

長田神社(ながたじんじゃ)

通称二宮(ふたみや)
旧称
住所岡山県真庭市社654
祭神

神大市姫命

壹粟神社

大佐々神

壹粟神社相殿大笹神社

久那止神

久刀神社

岐神

弟彦王命

菟上神社

事代主命

長田神社
社格等

式内社 美作国大庭郡 壹粟神社 二座

日本三代実録 貞観六年八月十五日己巳 壹粟神 従五位上

日本三代実録 貞観五年五月廿八日庚寅 大佐々神 従五位上

日本三代実録 貞観六年八月十五日己巳 前社神 従五位上

美作国六宮/七宮(二座のどちらがどちらに相当するかは不詳)

旧村社

壹粟神社

並びに

相殿 大笹神社

式内社 美作国大庭郡 久刀神社

日本三代実録 貞観六年八月十五日己巳 久止神 従五位上

美作国八宮

旧村社

久刀神社

式内社 美作国大庭郡 菟上神社

日本三代実録 貞観六年八月十五日己巳 兎上神 従五位上

美作国三宮

旧村社

菟上神社

式内社 美作国大庭郡 長田神社

日本三代実録 貞観六年八月十五日己巳 長田神 従五位上

美作国九宮

旧村社

長田神社
札所等
御朱印不明(4社とも)
御朱印帳
駐車場なし(境内駐車可)
公式Webサイト
備考

西150mほどに神集場(御旅所)あり

往古、壹粟神社は久世郷(真庭市久世辺り)、久刀神社は横田郷(所在不明)、長田神社は布勢郷下長田村(真庭市蒜山下長田)に鎮座との説あり

参考文献

  • 「社八社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
  • 「壹粟神社」「久刀神社」「莵上神社」「長田神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
  • 岡山県神社庁編『岡山県神社誌』岡山県神社庁, 1981
  • 式内社研究会編『式内社調査報告 第二十二巻 山陽道』皇學館大学出版部, 1980
  • 谷川健一編『日本の神々 神社と聖地 第二巻 山陽・四国』白水社, 1984