土佐神社(高知市一宮しなね)

土佐神社。

土佐一宮駅の真北1.5kmほど、一宮しなねに鎮座。

式内大社 都佐坐神社に比定される神社で、土佐唯一の式内大社。

参道

楼門(神光門)。かなり立派で目立つので、県道を走っていても見落とさないでしょう。

 

扁額。読めない…

 

社号標

 

これも社号標。この石は、かつて周辺に存在していた「一宮古墳群」の2号墳(一宮大塚古墳)の天井石の一つだそうです。明治期に国道を開設のため古墳を解体し、5つあった天井石を転用したうちの1つ。

この他、当社楼門前の橋として1つを利用。また、県道384号を西に行ったところにある久安川にかかる太古橋に3つを利用。現在は架け替えられ、天井石の一部が橋の四隅に飾られています。

気になるのは、楼門前の橋に使われた1つ。現在は当然ながら舗装されているのですが、天井石はどこへ行ったのか…

橋を鉄筋コンクリート製に架け替えられる際に廃石となっていたものを後年社号標に転用した、という情報をネットで見かけましたが、そうすると元々天井石が4つしかなかったことに。謎です。

2号墳の石室は県下最大の小蓮古墳の石室とほぼ同等と考えられるそうで、破壊されてしまったのが惜しまれます。なお2号墳があったからには1号墳も当然あったのですが、こちらは破壊された時期すら不明とのこと。

 

参道

 

鳥居

 

扁額。土佐一ノ宮の文字は近衛文麿の書。

 

社号標

 

手水舎

 

説明板

当神社の社殿は、元亀元年(一五七〇年)、長宗我部元親公によって再興造営されたものです。


当神社の社殿は、永禄六年(一五六三年)に戦火によって焼失しましたが、長宗我部元親公が四国平定を祈願し、元亀元年(一五七〇年)に再興造営されました。

社殿の特徴は入りトンボ様式といわれ、トンボが羽根を広げ、尾を突き出したような拝殿に幣殿が頭部のようにつながり、本殿に入るという独特の形式を持ち、参道入り口の楼門(昔の仁王門)、社殿前の鼓楼(昔の鐘楼)を合わせて、重量文化財に指定されています。

 

境内右手の鼓楼

 

案内板

輪抜け祓所

この杉の切株は、本殿西北方の御神木(樹齢八百年程の杉の大木が倒木の恐れ)を伐採。その杉の木霊を忍び根元の部分を奉斎したものです。

輪をくぐることにより心身が清められ、大木の長寿やたくましさを授かる御神徳がございます。

左記の図のようにお抜け下さい。

社殿

拝殿正面

 

手前の賽銭箱を置いてあるところは拝所

 

拝殿左手に伸びているレール。気になったけど社務所で聞き損ねたので後ほどググってみたら、拝所を動かすためのレールだそうです。

確かに画像検索でお祭り時の写真を見ると、拝所が動かされてテントが置かれてるのがわかります。

 

扁額

 

拝殿内の狛犬。こちらの狛犬については、神社探訪・狛犬見聞録さんの土佐神社のページにて詳しく紹介されています。元は慶応2年に作られた阿形(下)しか存在せず、平成23年に吽形(上)が作られ、奉納されたとのことです。

 

拝殿 左右翼殿

 

手前部分を拝出、中央の高い部分を高屋根というそうです

 

本殿

 

「入蜻蛉形式」については、土佐神社公式サイトTOPの鳥瞰写真を見た方がわかりやすいかも。本殿に向かってトンボが飛び込む形は、凱旋報告をする社という意味があるそうです。

ちなみに高知市長浜の若宮八幡宮の社殿は当社と対をなす「出蜻蛉形式」で、戦勝祈願を行う社だったそうです。出蜻蛉は拝殿手前が頭で、幣殿が尾みたいですね。

境内社等

鳥居横の秋葉神社

 

絵馬殿

 

厳島神社と放生池

 

社殿左に境内社が三社

 

西御前神社

 

西御前神社の後方左右に事代主神社(上)と大国主神社(下)

志那祢の森

境内社脇から本殿裏をぐるっと回れる道があり、志那祢の森めぐりと銘打たれています。

 

御神木の大杉。本殿の真後ろ辺り。

 

神明宮

禊岩

案内板

禊岩

瀬織津比咩神 速開津比咩神 気吹戸主神 速佐須良比咩神

境内西方のしなね川は、禊川とも称し、身心を清める禊の神事がおこなわれていました。

この岩は禊神事を行う齋場に古くから祀られていましたが、平成十一年川河改修工事により、やむなくこの場所にお遷ししました。

祭祀上、貴重な石であり、祓所の神として、人々の身心を清める御神徳があります。

礫石

礫石

鳴無神社から祭神が投げた石だという伝説があります。

案内板

礫石の謂れ

古伝に土佐大神の土佐に移り給し時、御船を先づ高岡郡浦の内に寄せ給ひ宮を建て加茂の大神として崇奉る。或時神体顕はさせ給ひ、此所は神慮に叶はすとて石を取りて投げさせ給ひ此の石の落止る所に宮を建てよと有りしが十四里を距てたる此の地に落止れりと是即ちその石で所謂この社地を決定せしめた大切な石で古来之をつぶて石と称す。浦の内と当神社との関係斯の如くで往時御神幸の行はれた所以である。この地は蛇紋岩の地層なるにこのつぶて石は珪石で全然その性質を異にしており学会では此の石を転石と称し学問上特殊の資料とされている。

 

境内の巨木

境外

瀧宮

礫石のそばから道路に出られます。

道を北の方へ進んでいくと左手に老人ホームが見えてきます。

そして右手に鳥居

 

瀧宮。祭神未詳だそうです。

 

社殿

 

後ろの大きな岩に木の根が絡んでいます。磐座でしょうか。

齋籠岩

老人ホーム脇の道を進んでいくと高架下の十字路に出ます。

高知自動車道の高架を潜って北へ進みます。

 

道端に案内が出ています。

案内板

齋籠岩

土佐神社では、毎年三月十一日の夕刻より十三日の早朝まで、社殿にて齋籠祭が行われていますが、古くはこの上部の岩にて祭祀が行われていました。正確な位置や祭祀の様子、この場所より社殿に移った年代等は、不明ですが、古文書に記される重要な岩です。

齋籠祭は、早春田植前に山に「おいごもり」をし、忌み謹むという古い習慣のなごりで、現在でも祭日には、境内への参入を禁じ、地域の人々も鳴物を謹みひっそりと過ごします。

 

その上の方に大きな岩があったのでこれが齋籠岩かなと思い撮影。ただ、土佐神社のWebサイトに掲載されている写真を見るに別の岩。YouTubeに動画があったので確認したところ、この岩の脇(写真ブルーシートのあたり)を登って右手に齋籠岩があるようです。

 

再訪し登ってみたところ、奥に巨岩がありました。

これこそ齋籠岩だと思い、社務所で伺ってみたのですが、記録などの確たる証拠はないとのこと。

現在は特にここで祭事は行われていないそうです。

御手洗池

先の十字路まで戻り、今度は南へ。少し進むと、右手に木の茂った場所があります。

そこが御手洗池。

 

案内が出ていますが、木に隠れて若干見つけづらい。

案内板

御手洗池

御手洗池は、各地の神社で見られますが、土佐神社に於いても古くはこの池で手を洗い身心を清めてお参りしたものと考えられています。

また、この池では、日照の続く旱魃の時、雨乞神事が行われたことが伝えられており、神宝とする鯰尾鉾を池に浸すと鯰と雷の関係にて雨が降るとされています。

現在、池の水は河川改修工事等によって、溜ることが少なくなりました。

 

案内にあるように現在は水がほとんど溜まらないようで、この日も完全に干上がっていました。窪地から、往時は池だったであろうことを想像するしかありません。

 

境内西側を細い川が流れているのですが、これがしなね川でしょうか。

由緒

社頭案内板

土佐神社

御祭神 味鋤高彦根神(一言主神)

雄略天皇(五世紀後半)時代の創建で土佐の総鎮守である。

現在の社殿は元亀元年(一五七〇)に長宗我部元親が再建したものであり、鼓楼、楼門は山内忠義(二代藩主)が建立、再建したものである。

本殿・幣殿・拝殿は明治三十七年(一九〇四)に、鼓楼は昭和九年(一九三四)に、楼門は昭和五十七(一九八二)に国の重要文化財に指定されている。

大祭である「しなね祭」は、毎年八月二十四、二十五日に行なわれ、多くの参詣人で賑わっている。

創建時期は不詳ですが、一説には雄略天皇4年(460)。

これは後述するように、一言主神あるいは高鴨神が土佐に流されたとされる時期に基づくと思われます。

 

釈日本紀では、流された一言主神が当初祀られた場所を「賀茂之地」としていますが、この地については幡多郡黒潮町入野の賀茂神社(式内比定社)、須崎市多ノ郷の賀茂神社、須崎市浦ノ内の鳴無神社等、いくつか説があります。礫石の横にあった説明板には「土佐大神の土佐に移り給し時、御船を先づ高岡郡浦の内に寄せ給ひ宮を建て…」とあるので、神社公式では鳴無神社説を取っているのかもしれません。

『高知県神社誌』も鳴無神社説が妥当なように思われるとの見解を示します(志那禰祭で鳴無神社へ御神幸があったことから)。

 

三代実録 貞観元年(859)正月27日甲申条に「土佐国従五位下都佐坐神従五位上」とみえ、延喜式神名帳では「土佐国土佐郡 都佐坐神社 大」として土佐国唯一の大社に列しています。

『長寛勘文』には天慶3年(940)に正一位に叙されたことがみえます。

 

土佐国一宮とされていますが、いつ頃からそう称されたかは明らかでなく、伝承によると雄略天皇4年頃から(創建当時から?)一宮といわれていたとも。

 

永禄6年(1563)に兵火により焼失。

長宗我部元親は再興を計画、元亀元年(1571)に完成。これが現在の入蜻蛉形式の社殿であり、国指定の重要文化財となっています。

 

江戸時代、二代藩主山内忠義は当社を厚く崇敬し、寛永8年(1631)に楼門、慶安3年(1650)に鼓楼を建立。

 

明治4年、高鴨大明神から土佐神社へ改称、国幣中社に列格。

 

本来の祭神は、日本書紀 天武天皇4年(675)3月丙午(2日)条に「土左大神以神刀一口進于天皇」(土左大神、神刀一口を以て、天皇に進る)、朱鳥元年8月辛巳(13日)条に「遣秦忌寸石勝奉幣於土左大神」(秦忌寸石勝を遣して、幣を土左大神に奉る)と見える「土左大神」であり、都佐国造家により祀られたと考えられています。

 

土佐国風土記逸文に「土左郡。郡家の西に去ること四里に土左の高賀茂大社あり。其の神のみ名を一言主尊と為す。其の祖は詳かならず。一説に曰へらく、大穴六道尊の子、味鉏高彦根尊なりといへり。」とあり、既に祭神に一言主神と味鋤高彦根神の両説があったことがわかります。

 

釈日本紀 巻12雄略天皇の項に、雄略天皇が狩りの最中に一言主神と会うが、天皇は不遜のあった一言主神を土佐に流す。後、天平宝字8年に賀茂氏の奏言で大和国葛城に遷祀したが、一言主神の和魂は土佐にとどまり祀られた、という内容の記述があります。

また、続日本紀 天平宝字8年11月7日条に、老夫(高鴨神)が雄略天皇と葛城山で猟を争って土佐に流されたが、賀茂氏の祖神であることがわかり大和葛上郡に迎え祀られたという一節があります。

雄略天皇と一言主神の話は古事記・日本書紀にもあるものの、土佐配流のくだりはありません。これについて、記紀の方が原初の形で、配流の部分は後世付加されたものであり、賀茂氏が土佐に進出し、当社の祭祀を掌握するにあたり土左大神の鎮座譚に一言主神の説話を取り入れたものと考えられるようです。また、説話が一言主神と賀茂氏祖神(味鋤高彦根神)の両方についてあるために祭神に両説ができたとする説も。成務天皇の時代に都佐国造に任ぜられた小立足尼が賀茂氏の一族とされる三嶋溝杭命の9世の孫とされていることもこの背景となっていると考えられるそうです。

 

いずれにせよ当社は賀茂氏の祖先神を祀った神社、ということになります。

現在、祭神は味鋤高彦根神と一言主神の二柱とされています。

 

鎮座地の地名ともなっている「しなね」は、風神 志那都比古神に由来する説、新稲が縮まったとする説、味鋤高彦根神を金属神と考え鍛冶と風とに基づく説等諸説あり。

8月24、25日に行われる志那禰祭は最も重要な大祭とされています。かつては7月3日に行われていました。

かつては「御船遊び」と言って須崎市浦ノ内の鳴無神社まで海上神幸が行われていましたが、海難や赤木山(青龍寺)の麓で狼に襲われるといったことがあったため、当社南方、五台山の北麓に御旅所を建て小一宮と名付け、ここまでの船渡御へと変更。

その後明治13年に一本松の御旅所が建てられ、そこまで徒歩神幸となりました。

御朱印

御朱印はあります。

境内左手の社務所で拝受可。

2016年よりオリジナル御朱印帳(木製)が登場しました。

アクセス

高知自動車道高知ICを降り、県道384号を北東に少し進むと左手に楼門が見えます。楼門左脇の道を300mほど入ると土佐神社と善楽寺の駐車場です。

 

この辺。

神社概要

社名土佐神社(とさじんじゃ)
旧称高賀茂大明神
通称しなね様
住所高知県高知市一宮しなね2-16-1
祭神

味鋤高彦根神

一言主神

社格等

式内社 土佐国土佐郡 都佐坐神社 大

日本書紀 天武天皇四年三月丙午(二) 土左大神

日本書紀 朱鳥元年八月辛巳(十三) 土左大神

日本三代実録 貞観元年正月廿七日甲申 都佐坐神 従五位上

土佐国一宮

旧国幣中社

別表神社

御朱印あり
御朱印帳オリジナル御朱印帳あり
駐車場あり
公式Webサイトhttp://www.tosajinja.i-tosa.com/

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