殖田神社(南国市植田)

殖田神社。

南国市植田、香美市との境目付近に鎮座。

式内社 殖田神社に比定される神社。

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境内

一の鳥居

 

扁額

 

社号標

 

狛犬

 

二の鳥居

 

扁額

 

参道

 

三の鳥居

 

扁額

 

参道

 

石段

 

四の鳥居

 

扁額

 

手水舎

 

井戸

 

社殿側から参道

 

脇参道鳥居

社殿

拝殿

 

扁額

 

本殿

 

社殿全景

境内社等

本殿左の境内社

 

この境内社の左手から後ろの森の中に入る道があります

森の中には多数の祠があります。

 

石祠

 

岡林神社

 

門脇神社

 

境内社

 

 

境内右手に大きな池があります

神池とかではなく貯水池だと思いますが…

 

池の南に降りていくと小さな池があります

 

土俵

 

宝物殿

由緒

殖田神社の由来

社格 延喜式内社

祭神 阿遅鉏高日子根命

鎮座地 南国市植田字東野1267

殖田神社即ち、高賀茂大明神は、東西に連亘する北山の峯巒を仰ぎ城ヶ谷古墳群を背に幽閑静寂なる仙境の地に鎮座する。

殖田神社は、賀茂氏の神社であり、祭神は、阿遅鉏高日子根命と申し、大国主命と多紀理毘売の御子である。阿遅鉏高日子根命は、別名、迦毛大神といわれ、賀茂氏の祖であり、人間、国土を支配し護る神、即ち国津神と古事記には記されている。

賀茂一族は、壬申の乱(672)の活躍にて、天武十三年(684)に八色の姓の制定により、朝臣の姓を賜はる。この姓の制定は八階級の氏族の身分制度で従来の姓制を廃し、皇室中心の律令制を整えるため再編成をした姓の序列で、天皇の対氏族政策の一つである。真人 朝臣 宿祢 忌寸 道師 臣 連 稲置の八階級で、皇族出身より地方有力豪族まで、それぞれあたへている。朝臣の姓は皇族出身、真人の次位の姓、この高貴な姓を賜はるは、賀茂一族が「大国主命の後代」であることの所以である。

続日本紀に基づくと、「雄略天皇(478)奈良、葛城山にて御狩猟し給へるに、高賀茂の神、老夫に姿を変へて表れ給い、天皇と獲物を相追いて、争い給いしにより、天皇これを大いに怒りて、老夫を土佐国に流し給う」。『この事を憂ひて』賀茂朝臣田守が、天平宝字八年(764)称徳天皇に奏請するに、天皇大いに心をいため、急ぎ土佐国より、大和の国の本拠に複し祠らんとする。然るに其の、和御魂は土佐国より離れ給はざるに、猶この国に留め奉り、奉斎の成れる事と定まる。其の四年後、賀茂朝臣田守は、高賀茂の姓を賜はり、高賀茂朝臣田守と呼ばれている。更に三代実録によれば、貞観八年(866)には、土佐国従五位下、殖田の神、従五位上、を清和天皇より授かり、古代殖田神社の存在が、記録によって見える。

さて、高賀茂朝臣田守が、天皇に奏請せし天平宝字八年は、今を遡ること、千二百四十三年に及び、奈良時代に高賀茂朝臣田守は此の地を殖田神社と定め祖先高賀茂の神、阿遅鉏高日子根命を祭神と鎮座奉り給い、御身は高賀茂大明神と崇められ静寂な此の地に静まり給うなり。

奈良時代より日本固有の神祇信仰と、外来仏教とが融合した神仏習合が起こり、神社に付属した寺(神宮寺)が建設され、平安時代になると神前読経がなされ、日本の神は仏の衆生救済のためにとった其の姿を変えてこの世に現れたものとする(本地垂迹説)仏教の立場からの説が教理づけられる。

殖田神社にも東福坊が建設され神社の実務も寺が司った傾向が、長宗我部地検帳によって見える。室町時代より、江戸時代になると、神道勢力が増大し、反本地垂迹説が唱えられ、儒者や国学者などが神道の純粋性を論じて、廃仏思想を高唱し、明治維新政府は神仏分離策をとる。第二次大戦後、神社は国家管理を離れ、信教の自由の見地により神社本庁に包括される宗教法人となり、神祇恩徳を奉体し、崇敬者の輪が広がり、神社・住民一体となって発展している。

神社新築、改築の歴史

延宝以前の棟札は無く、戦国の乱世に焼失したと思われる。延宝三乙卯年十一月の棟札によると、本殿・拝殿共小枌葺の新築に建替えられている。寛政八年丙辰六月二十五日、本殿、幣殿、拝殿一棟造、共に改築にて屋根は枌葺であったものを、文政九年二月幣殿、拝殿を瓦葺とした。

平成十九年四月より、本殿、幣殿、拝殿一棟造で改修を始め、拝殿の前に向拝場所を造り、本殿のみ銅板葺で、幣殿・拝殿・向拝場所は瓦葺とし、同年十二月に完成する。

創建時期は不詳。

賀茂氏による創建とみられ、祭神は土佐神社と同じく阿遅鋤高日子根神。

 

三代実録 貞観8年5月22日乙丑条に「授土左国従五位下殖田神従五位上」延喜式神名帳に「土佐国長岡郡 殖田神社」とみえます。

なお三代実録の同条には「正六位上殖田上神…従五位下」ともあり、この「殖田上神」は当社背後の山中にある若宮社に比定されています(『土佐国式社考』)。当社の北西にある上神社(位置)がこれにあたるのではないかと思われますが、不詳。

 

中世には東福坊という寺が別当だったようで、また長宗我部一族の比江山氏の崇敬があったようです。

 

明治5年郷社列格。

御朱印

御朱印の有無は不明。

アクセス

高知市街地から国道32号を東へ。なんこく南ICの北あたりでR32は北に折れるのでそちらに。

南国ICに入る交差点の次の信号(位置)で右に折れ、県道31号に入り東へ。

2kmほど先(位置)で左手の道に入ります(狭い)。

そのまま直進すると、突当り右手に脇参道鳥居があり、鳥居横に駐車スペースがあります。

神社概要

社名殖田神社(うえたじんじゃ)
通称
旧称

高賀茂大明神

賀茂大明神

高鴨社

住所高知県南国市植田1267
祭神阿遅鉏高日子根命
社格等

式内社 土佐国長岡郡 殖田神社

日本三代実録 貞観八年五月廿二日乙丑 殖田神 従五位上

旧郷社

札所等
御朱印不明
御朱印帳
駐車場あり
公式Webサイト
備考

参考文献

  • 「殖田神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
  • 「殖田神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
  • 式内社研究会編『式内社調査報告 第二十三巻 南海道』皇學館大学出版部, 1987
  • 明治神社誌料編纂所編『府県郷社明治神社誌料 下巻』明治神社誌料編纂所, 1912(国会図書館デジタルコレクション 517コマ