高知坐神社(宿毛市平田町戸内)

高知坐神社。

宿毛市平田町戸内に鎮座。

式内社 高知坐神社に比定される神社。

境内

鳥居

 

手水鉢

 

参道石段

 

手水舎

 

境内の入り口には斎竹

社殿

拝殿

 

扁額

 

本殿は覆われており見えず

中の本殿は高知県保護有形文化財で、明和5年(1768)に山内氏篤・氏益により修復されたもの。

元の造営は江戸初期だとみられています。天文13年(1544)に一条房基が造営した際の棟札が残っているようですが、それが明和に修復された本殿と同一であるかは不明。

境内社等

本殿左手の左宮

左から聖神社、皇太子宮、曽我神社、天満宮

 

本殿右手の右宮

左から柴折神社、仁井田神社、大船神社、飛龍神社、鷣高神社

 

大船神社の左右に像がありました。随神像でしょうか。

 

イチイガシ。御神木だと思われます。

 

イチイガシ根元の祠

 

「高知座神社のイチイガシ」

1.樹種 イチイガシ

2.樹齢 400年(推定)

3.胸高直径 135cm

4.樹高 29.0m

昭和38年7月24日・宿毛市天然記念物に指定

高知座(たかちにいます)神社は、波多の国造(くにのみやつこ)が祀った社で、祭神は賀茂系の神とされる。本殿は高知県有形文化財の指定を受けており、一条房基の造営を示す1544年(天文13)の棟札がある古い社であり、地区民は農作物の豊作祈願の祭りを行なう等、親しまれている。

このイチイガシは社叢内で最大級の木であり、神社林の主木的存在である。

 

波多国像朝千八百年前創立 県指定歴史文化財 高知坐神社複合遺跡碑 

 

駐車場向かいのスペースにある祠

由緒

由緒史碑文

この社の創祀鎮㘴については土佐古代史式内社考証及国造本記高知県の考古学神社史料により皇紀十代崇神天皇波多国造主天韓襲命の頃と云はれる今の幡多の守護神として奉祀せると云う神道考古学の研究では彌生初期当地方の原始水田稲つくり集落の始まる頃であり境内よりすでに多くの石器須恵器土師器を枚集しているいづれも大和朝より平安初代に至る年代を物語る今日姿を失った曽我山古墳の主は波多国造主とも考証されている当社と深いつながりを有している千九百余年の前藤原の時平は勅命により延喜式神名帳を選定して土佐の二十一社を定め幡多三社を選んでいる入野加茂神社下ノ加江伊豆田神社この社を示している奈良朝后期より国司領主の崇敬厚く社の修復宝物の献奉など文献史料示されている宝永三年谷泰山重遠は土佐式内社考を刊行している土佐幽考及和名抄光仁天皇宝亀九年に幡多五郷在り枚田郷戸内村に高知㘴大明神有高持の者の社也都味歯八重事代主神は大和国高市の社又波多神社と同神也と云う幡多地方の最古の社と云う現在の本殿下には磐㘴有上古の神体と云はれている本殿は明和五年十一月江戸中期の桃山式を残すとして昭和三十年二月県の有形文化財である昭和二十六、七年神社の合併の議有により神社本庁の承認により曽我神社外七社をこの社の境内神社としている又昭和二十一年より国家神道の中止宗教法人法の施行により神社法人となり前宮司篠田善吉より現任宮司となりているこの神奈備の森が古代を語る国造主の遺跡であることすでに土佐古代史により考証されている今后国の重要文化財指定を念ずると共に前宮司の残せし功績を示針として益々神明奉仕保存管理を期すものである現在土佐の神道考古学の上から論証されている上古の社は高知市一宮土佐神社 朝倉神社 南国市朝峯神社が上古の神奈備森と云はれている昭和三十年初より念願の石文を誌す也 幡多五郷は現在の入野郷大方町不破郷中村市鯨野郷土佐清水市山田郷今の山奈を呼んでいる、土佐古代史考古学の研究では波多国造主と都佐国造主の二つが大和朝十三代成務天皇の頃一つとなると云う小立足尼と呼んでいる延喜式内社の鎮㘴せる近くには古代の遺跡古墳を有していることを語るべき也この社の北西方には聖武天皇神亀元年開山と云う三十九番延光寺在り南東方には治承初年と云う平田太郎俊遠の二重山城跡有又西方に天文初年開山と云う一条初代房家二代房冬公土佐一条国司の墓藤林寺在り又年代未詳の兼松城布本城跡在り北方に彌生初期と云う高岡山古墳を有すこの社との深い関係有りと云う土佐国年記事略古城略史寺院誌歴史年表を参考とするこの社の古式大祭日は旧九月二十二日とされている、昭和二十年一月内務省より県社の内示有るも神道指令にて中止される天文初代より宮林藤原の臣幡多郡和田村住の神主の奉仕により大正初期迠十四代と有しが松平藤佐神職辞任により大正十年十月より前篠田善吉宮司就任となる旧幡多郡奥屋内村より現代に至る篠田源八郎藤原朝臣重里の子孫也温故知新の言葉がある古きを尋ねて現代に照せと解する平田郷土に生れ育つ我々は遠い祖先の歩み行いしことがらを思考し今日あるを静かに省みる時自然の理を神々の恩頼加護を受けているを痛感するものである昭和四十年五月宮司就任より神の命示として朝夕に奉仕し古典に則り神道国学本義の理念を有しつゝ今后共古代史郷土史研究に歩む者である

 

高知坐神社修復記念碑

神社の創立は土佐古代考古学神社史料により皇紀十代崇神天皇波多国造朝といわれる平安時代初期藤原時平の勅撰した延喜式神名帖にのる土佐二十一坐幡多三社の一であり国司領主の崇敬厚くいくたびかの社殿の造営あり元久初年より天文十三年四月土佐一条三代房基氏より現本殿明和五年十一月宿毛領主山内源蔵橘氏篤の修復により江戸中期二百十余年を圣ている昭和三十年二月十五日県有形文化財指定を受く明治四十二年十一月及昭和十二年十一月旧平田村氏子中前宮司篠田善吉等により修理せるも年月の老朽白蟻の損害多くして県市の修理費広く町内氏子有志の募金により総工費四百八十八万二千余円により昭和五十二年十月廿三日本殿幣殿を修復したものである平田郷土の歴史の森であり幡多地方の古代を語る古社として永く石碑に誌し永遠に守り伝えるものである

創建時期は不詳。崇神天皇の時代、波多国造に天韓襲命が着任した頃とする説もあります。

波多国造は都佐国造よりも早い時期に置かれたとされています。当時の南海道は紀伊→淡路→阿波→讃岐→伊予→波多→都佐という経路だったようで、波多は都佐よりも栄えていたと言われています。

 

当社北西約500mにある平田曽我山古墳は、初代波多国造である天韓襲命の墓だとも言われます。

この古墳は全長100mあるいは60mあるいは50mといわれ、5世紀前半の築造とみられていますが、昭和23年(1948)に曽我山が平田中学校校舎建築地に選ばれたため工事によりほぼ消滅(現在は工場の脇に小さく森が残るのみ)。そもそも古墳の発見自体が、工事の際に銅鏡等の遺物が出土したためなのですが。

 

延喜式神名帳では「土佐国幡多郡 高知坐神社」とみえます。

境内からは平安時代の祭祀遺物として土師器・須恵器・甕が出土しています。

 

元久2年(1205)に社殿修理、天文13年(1544)に社殿造営、明和5年(1768)に本殿修復の記録が残ります。前述の通り本殿は明和5年修復のものが現存しています。

 

明治期に郷社列格。

 

現在の祭神は都味歯八重事代主神なのですが、式内社調査報告によると『昭和52年12月号高知県神社庁報「神道考古学上重要なる遺跡」』に、「当社を波多国造主自ら守り神として祭祠した」ことが明らかにされているそうです。

 

なお社名の「高知」は現在の高知県、高知市とは無関係(読みも「たかち」)。

式内社調査報告では、鎮座地が川の合流する曲の地形=河内なので、高知と呼んだかと推測していますが、『土佐国式社考』は「高持者、音之訛也、度会氏曰旧事紀云、都味歯八重事代主神坐和国高市郡高市社、蓋高知坐神事代主命歟、高知・高市相通」とし、大和国高市郡の高市御縣坐鴨事代主神社との関連を示唆しています。

御朱印

御朱印はありません。

アクセス

宇和島方面から、あるいは高知方面から国道56号で宿毛へ向かいます。

宿毛線平田駅の北にある平田交差点で南に入り、県道21号を700mほど進みます。

平田小学校南東の十字路で左折(東へ)。

70mほど先の分岐を右に折れ、両側ガードレールの細い橋を渡ります。

橋を渡るとすぐ左に橋があり、その橋の先に鳥居が見えます。

2つ目の橋を渡った先、右手に駐車場あり。

神社概要

社名高知坐神社(たかちにますじんじゃ/たかちにいますじんじゃ)
旧称

高地之大明神

高持者社

住所高知県宿毛市平田町戸内4233
祭神都味歯八重事代主神
配祀

大国主尊(右殿)

素盞嗚尊(左殿)

社格等

式内社 土佐国幡多郡 高知坐神社

旧郷社

御朱印なし
駐車場あり

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