志賀理和氣神社(紫波町桜町字本町川原)

志賀理和氣神社。

紫波中央駅の南東約1.5km、北上川沿いに鎮座。

式内社 志賀理和氣神社に比定される神社で、延喜式神名帳成立当時における最北の式内社。

境内

社頭

 

社号標

 

社号標2

 

立看板

志賀理和気の神の心にかなひなば家に、宝に富さかえなむ

毎朝参拝を致しましょう 一年に百度の参拝を致しましょう

(お百度まいり信仰帳を差し上げます)

 

一の鳥居

 

狛犬

 

南面の桜

この桜には、いつのころからか次のような物語が伝えられている。

元弘のころ、都からこの地に下った藤原頼之は、河東の領主河村少将の娘、桃香と相思相愛の仲となった。ある日二人はこの社頭に桜を植えて、やがてくるであろう爛漫の春をひそかに夢見た。ところがその二人に悲しい日が訪ずれた。頼之が急に都に上ることになったのである。

二人は再会を固く誓って別れた。

才月は流れ、かつて植えた桜はもののみごとに咲き、不思議にも花は南面に向って咲いていた。

やるせない桃香の心が桜に宿ったものであろうか。

一首

南面(みなおも)の桜の花は咲きにけり都の麻呂(ひと)にかくとつげばや

桃香

 

南面のサクラ

このサクラはアズマヒガンの集団で約三十本からなるサクラ科に属する高木である。

このうちの最大木は根元周六メートル八十センチ(根元径二メートル十六センチ)目通周四メートル五十センチ樹高十一メートル五センチ、枝張十メートルであり、樹令は約五百年生と推定されている。

全般的に老令のため枯枝が目立ち、ことに上枝の枯死が顕著であるけれども、なお樹勢はかなり良好である。

県下のヒガンザクラ系の集団としては最古のもののようである。

 

南面の桜、これかな?

 

南面の櫻碑

 

参道

 

社号標

 

参道の桜(だと思う)

 

 

二の鳥居

 

手水舎

社殿

拝殿

 

扁額

 

本殿

 

本殿の扁額

 

本殿脇の狛犬

赤石

境内には、当地方名「紫波」の字の由来となったとも言われる霊石「赤石」が祀られています。

 

「赤石」の由来

天正(一五七三)一五九一)の昔、郡下六十六郷の領主斯波孫三郎詮直公が北上川で遊覧の折川底に赤石の大石を見て紫色の水波に漂ようその美しさに感有って一首を詠じたという

けふよりは紫波と名づけんこの川の石にうつ波紫に似て

この地方はこれまで子波、斯波、斯和、又は志和と地名の変遷をみているが、以来「紫波」と改まり当社もまた通称赤石大明神赤石神社・赤石さんと親しまれ今日に至った。

詮直公によって引き揚げられた「赤石」は爾来御本殿の後方に奉安され、霊妙あらたかなる霊石として崇拝されて来た。

昭和五十九年十一月当社御創建壱千壱百八拾年記念事業で現地に奉遷されたものである。

 

鳥居

 

扁額

 

手水鉢

 

赤石

境内社等

赤石天満宮

 

坂下稲荷社

 

御輿石

 

藤稲荷社(小野藤稲荷神社)

 

お狐さん

 

石碑群。左から山神碑、湯殿三山・金華山・鳥海山碑、猿田彦大神碑、八坂神社碑、山神碑。

 

 

境内社

 

馬頭観世音碑

 

金比羅〇〇(読めず)碑

 

左は読めず、中央は金毘羅碑、右は庚申碑および石祠

 

かわいい

 

御神木の根?

 

境内社

 

薬師神社

 

土俵

 

神楽殿

 

忠魂碑

 

自動車御祓所

 

大杉もしくは雷神杉(どちらか不明)

 

御創建壱千壱百八拾年記念事業竣功之碑

 

御創建壱千壱百八拾年記念事業竣功之碑

抑我が志賀理和氣神社は、延喜式内社日本最北陸奥鎮護の国幣社で、朝野の崇敬を集めること夥しく。

然るが故に、この地に創建の源を尋ねれば、延暦二十三年坂上田村麻呂に依り勧請奉斎する。爾来一、一八〇年、社運は隆々として瑞氣みなぎり今日に至る。

昭和五十九年創建一、一八〇年記念奉祝大祭を奉行し、これを慶祝し記念事業を興す。兹に氏子崇敬者の赤誠を結集奉賛を図り、本殿大修理。幣殿建築。拝殿屋根銅板葺。斎館屋根瓦取替え事業が竣功したことは、広大無辺の御神威の輝と深く尊崇の真心を捧げ奉謝するもの也。

○てこの千載一遇無上の栄光を後世に伝えんがためこの碑を建立する。

※○…読めず

 

紫波郡郷土芸能碑

境外社

参道入口から北へ70mほど行った場所に鳥居と石祠があります。

 

全景

 

鳥居

 

石祠

 

木の根と赤い石

由緒

社伝によれば、創建は延暦23年(804)。

坂上田村麻呂が東北開拓の守護神として、経津主命と武甕槌命を斯波加里ノ郷鳰ヶ磯野(現在地とされる)に勧請したのが始まりとされます。

 

文徳実録仁寿2年(852)8月7日条に陸奥国志賀理和氣神に正五位下を加えたという記述が見えます。

前九年の役における源義家による堂宇建立、また藤原秀衡の時代に藤原氏支族の樋爪太郎俊衡・同五郎季衡らが崇敬したとの伝えもあります。

しかし、その後中世を通じて資料はなく、律令制の崩壊とともに荒廃したと見られています。

ただ、室町時代には足利氏の支族斯波氏が領主となり、社殿再興したとの伝えもあります。

 

その後斯波詮直が当社背後の北上川で遊覧の際、河底に赤色の大石があり、波が紫色に輝くのを見て、

「けふよりは紫波と名づけんこの川の石に打つ波紫に似て」

と詠じ、地名の文字は「紫波」となり、当社も赤石大明神と称されるようになったとされます。

 

天正年間(1573-92)に南部氏が斯波氏を滅ぼし、当地は南部氏の所領となります。

荒廃して忘れ去られていた当社を探索、再建した時期を『日本の神々』では明暦年間(1655-58)と推定しています。

『篤焉家訓』に、明暦3年(1657)帰国途中の盛岡藩主南部重直とその供の山田某なる神道者が、三尺四方の古社棟札に志賀理和気神社とあるのを発見した旨の記述があるそうで、上記推定はこれに基づくのかもしれません。

南部氏は「南部一の宮」の号を献じて崇敬、社殿の修造や、光林寺を別当に定めて社僧を置くなど保護に努めました。

また18世紀中頃になると、藩主や郡山日詰町の豪商たちの崇敬を背景に、式内社の由緒が復活。祭典も盛大に行われるようになりました。

 

天明5年(1785)に当地を旅した菅江真澄は、「路のかたはらの石ぶみに志賀理和気神社とかき、裏に赤石明神とえりたり。しかりわけの神は、斯波郡にひとつのかんがきといふは、此おほん神なればまうで奉る」(けふのせば布)と書き記しています。

しかし、当社は明治にかけ度々火災に遭い、神器・記録類を焼失したため、詳細は不明というのが実態だそうです。

 

明治元年現社名に改称。

明治4年郷社列格。

明治41年、大正2年には帝国議会に国幣社に昇格の請願。大正13年、県社昇格運動の結果県社に昇格。

当社は、古くは城山の本宮に鎮座したとか、水分に鎮座したとかといった説もあります。

城山の本宮は城山公園の高水寺城址あたり?

水分は小屋敷の水分神社あたりですね。

 

当社は延喜式神名帳成立当時でいえば最北の式内社です。

しかし、出羽の副川神社が江戸期に北へ動いたゆえに、現在の鎮座地という意味では最北の座を譲ってしまっています。

 

御朱印

御朱印はあります。

社務所で拝受可。

アクセス

国道4号を北上・花巻からなら北へ、盛岡からなら南へ進みます。

 

紫波警察署前交差点を東に曲がり、突き当りを南に100mほど行くと参道が東側に伸びています。

参道を奥まで進み、社務所脇に駐車可。

なお、宮司さん曰く北上川の護岸工事に伴い移転の話があるそうで、現在より西に動く予定とのことです。時期は不明。

神社概要

社名志賀理和氣神社(しがりわけじんじゃ)
通称赤石神社
旧称

赤石大明神

赤石七社大明神

浮島明神

志賀理和氣船霊神社

住所岩手県紫波郡紫波町桜町字本町川原1
祭神

経津主命

武甕槌命

配祀

猿田彦命

保食命

少彦名命

大己貴命

船霊命

社格等

式内社 陸奥国斯波郡 志賀理和氣神社

日本文徳天皇実録 仁寿二年八月辛丑(七) 志賀理和氣神 正五位下

旧県社

御朱印あり
駐車場あり

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