儛草神社(一関市舞川字大平)

儛草神社。

一関市と平泉町の境にそびえる観音山の頂上付近に鎮座。

日本刀の原型とされる舞草刀を生み出した舞草鍛冶が活動していたのがこの辺りだとされます。

式内社 儛草神社に比定される神社。

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境内

表参道入口

駐車場は上の境内にあるため、ここまでは500mほど下ってこなければいけません。この参道が以下に挙げる通り荒れ気味な登山道なので、上り下りがつらいです。

 

黒門というようですが、昔は門があったのでしょうか。

 

社号標

 

参道両脇の黒い柱(片方は倒れている)

黒門と何か関係があるもの?

 

庚申塔

 

参道

途中に古びた石段があったりはしますが、ほとんど山道です。しかし石が転がっていたり倒木があったりで歩きづらい…

 

道の脇には巨石がごろごろしています

 

しばらく上ると林道に出ます

渡って、さらに登ります。

 

林道より上は(最初に申し訳程度に石段がありますが)草に覆われた道になります

 

誰かが積んだ石

 

道の脇にはやはり巨石

 

鳥居

ここまで来ればもうすぐ境内。

 

鳥居と随神門

 

随神門

 

随神像

 

狛犬

 

手水鉢

 

左は石塔?右は燈籠だと思いますが…

 

御神木

 

市指定天然記念物 モミ

モミは岩手県南部から九州・四国の山地などに自生する常緑針葉の高木であり、現在は庭園樹や公園樹としても植栽されています。

市内では、自生と見られるモミが日当たりのよい斜面などに他の樹種と混生しているものが確認されます。モミとしては配志和神社に群生するモミ林とともに当地方を代表する巨木となっており、現在でも地元の人々から御神木として崇められています。

指定当時の樹高は約三二メートル、幹周約四.三メートルであり、樹齢は二五〇年と推定されます。

社殿

階段と拝殿

 

拝殿

 

扁額

 

本殿

 

随神門と拝殿

境内社等

社殿脇の建物

境内社だと思いますが、蔵かもしれません。

 

鐘楼

 

神饌殿+御札所

 

神馬舎

 

お不動さん?

観音堂

観音堂

神社から少し下ったところにあります。

 

扁額

 

一関市指定有形文化財(彫刻) 金剛力士仁王像

所在地 一関市舞草字大平

年代 江戸時代

指定年月日 昭和51年(1976)6月1日

金剛力士仁王像は、かつて、吉祥山東城寺(現在の儛草神社)の仁王門(儛草神社の随神門)に、本尊である聖観音像の守護仏として安置されていた二体の仁王像です。明治初年の廃仏毀釈により小戸屋敷の別当千葉氏宅敷地内に仮観音堂を建て、本尊聖観音像と共に移され、大切にされてきました。

岩座に立つ本像は、木造、寄木造り、身体朱漆で像高は両像ともに227.0cmです。頭部は宝髻、上半身は裸体、下半身は裳をまとい、後頭部から前面に回して天衣を垂れ、左手に金剛杵を持っています。像はやや肥満の感があり、特に腹部の出過ぎなどは、江戸時代末期の特徴を呈しています。向かって左が阿形像、左が吽形像です。

作者芦正太郎は宝暦10年(1760)、渋民村深芦(現一関市大東町渋民)に父吉三郎、母鶴の長男として生まれました(諱は胤恭)。祖父と父は渋民村の肝入職で儒学者芦東山は大叔父にあたります。

正太郎は天明7年(1787)、京都に上り、当代著名な仏師(一説には、北斉門下とも慶派の仏師の門下とも)について修行し、仏師となりました。仁王像を得意としたため師のもとで寺社の普請に従事し、帰郷後郷土の各地に作品を残したと伝えられています。

文化8年(1811)、舞草村の有志の熱心な願いを聞き入れ、金剛力士仁王像の製作にあたりました。また時を同じくして、仁王門の上部彫刻の木鼻に唐獅子・龍、前側面の虹梁木鼻に籠彫の牡丹、虹梁表面浮彫には牡丹菊・ブドウ唐草のほかに波もみじなど数多くの彫刻も施しました。天保3年(1823)11月18日、享年73歳の生涯を閉じました。

金剛力士仁王像は、当地方の各地に残された正太郎の作品の中でも屈指の力作であり、この地にゆかりのある人物が製作した美術品としてだけでなく、当地方の信仰を知るうえでも貴重な彫刻作品です。

 

反射で見えづらいですが、こういう仁王像が中に安置されています

中を見たい場合には、お隣にあるお宅で管理されているそうなので、お願いしてみるのがよさそうです。

大部ヶ岩

社殿向かって左手に進んで行くと、大部ヶ岩があります。

 

この案内板の方に向かいます

 

途中に大きな塔があります

 

塔の近くにまた案内があるので、その方向へ

 

少し歩くと巨岩があります

これが大部ヶ岩。登ることができ、上からは北上川と一関・平泉が見渡せます。柵とかはないので、お気をつけて。

 

壮観です

舞草鍛冶遺跡

東参道の途中に、舞草鍛冶遺跡があります。

 

道の脇にこんな案内標が建っています

 

現在は草に覆われて何も見えません

 

鉱山跡を示す標も建っています

「磁鉄鉱・渇鉄鉱が産出したという(戦時中も産出)」とあるので、戦時中までは採掘していたのでしょうか。

 

やっぱり何も見えません…

このあたりは白山岳というようで、もとはこの白山岳の山頂に儛草神社が鎮座していたという伝承もあります。

 

舞草鍛冶遺跡

日本刀の完成にあたって、欠くことができなかった奥州の刀剣、それが舞草刀です。鉄落山と別称される白山岳を有するここ舞草はそのふる里と考えられています。

舞草鍛冶の活躍は、京都・観智院に伝わった現存最古の銘尽をはじめとする数多くの刀剣書、また、説話集や物語など、古くは平安時代から語りついでいます。

この鍛冶遺跡の確定を目指し、岩手大学や一関市教育委員会は地元と一体になって発掘調査を実施し、これまでタタラ跡や鞴の羽口、鏃、おびただしい鉄滓の発見など数々の成果をあげています。今後はより一層の解明が進むものと期待されています。

 

舞草古鍛冶発祥之地碑

ここは刀剣ファンのいわゆる聖地ともなっているそうです。しかし道がわかりづらいここまでよく来るものだなと思います…

舞草刀そのものを見たいのであれば、一関市博物館に展示があります。

由緒

儛草神社 来歴

養老二年 七一八 羽場白山岳に白山妙利社勧請 祭神菊理姫命 陸奥県守多治見直人建立と伝える

延暦一八年 七九九 吉祥山に馬頭観音勧請 坂上田村麻呂東夷征伐の祈り祈願の為 吉祥山東城寺を建立する

嘉祥三年 八五〇 慈覚大師東北巡陽の祈り吉祥山に錫杖を止め多羅葉の木にて四尺二寸の聖観音像を彫刻安置すと伝う

仁寿二年 八五二 往時東山 舞草 小字穴の倉に鎮座する稲倉明神社 舞草神に従五位下を授かる

延長五年 九二七 既に延喜式神名帳に登載の舞草神社である

承平 九三一 白山社跡近くに金鋳神社跡がある 舞草安房以来二神を深く信仰してその守護により無双の名剣を代々約三百年間に亘り作り続けたと伝えている

天正二年 一五七四 吉祥山東城寺野火の為に堂塔社炎上す

文禄元年 一五九二 吉祥山一山の堂社宇僧坊同年三月十二日野火為炎上する 神社直属の三枝祢宜これを深く嘆き御霊を穴の倉に鎮座する稲倉神社に遷座して稲倉明神と称える

寛永一九年 一六四二 往時吉祥山は羽場村なるもお村直しの令により羽場村の一部を合併して舞草村と相成る

寛保三年 一七四三 御上より稲倉明神に舞草神社稲倉大明神の神号を賜る

明治二年 一八六九 神仏混淆禁止令により吉祥山東城寺より聖観音像並びに仁王像を別当宅地内の大悲閣内に安置する

明治四年 一八七一 同村穴ノ倉鎮座の稲倉大明神社より十月二十六日御霊を当観音堂地に遷座延喜式内舞草神社と称える

明治九年 一八七六 当年九月十七日舞草神社三問四面の堂炎上 随身門を残し炎上する

明治三九年 一九〇六 舞草神社本殿拝殿落成

大正二年 一九一三 同村川岸鎮座の熊野神社を合祀

昭和一二年 一九三七 本拝殿改築する

社伝によれば坂上田村麻呂の勧請により大同2年(807)の創建。

かつては白山岳の山頂に鎮座していたともいいます。

ただし、岩手県神社庁のページや境内由緒書によれば、養老2年(718)に白山妙理権現(白山妙利社)が創建(勧請)されたのが始まりとしています。岩手県神社庁のページには、その後大同2年(807)に坂上田村麻呂が東夷征伐の祈願成就の礼として境内の一角に観音建立、奥州藤原氏が吉祥山東城寺を構築したとあります。

境内由緒には、延暦18年(799)に馬頭観音が勧請され、坂上田村麻呂が祈願の為吉祥山東城寺を建立したとあります。この吉祥山東城寺は最盛期には24坊を数える大寺院であったそうです。

 

文徳実録 仁寿2年(852)8月7日条に「陸奥国…舞草神…授従五位下」と、従五位下を授けられたことがみえます。

延喜式神名帳には「陸奥国磐井郡 儛草神社」とみえます。

 

天正2年(1574)野火のため炎上。

『日本歴史地名大系』によれば、この時社地に天台宗東城寺の後身の観音堂が再建されたため東方の穴倉に遷座され稲倉明神となった、とあります。(『安永風土記』では麻祓明神社)

境内由緒によれば、この後文禄元年(1592)に再度野火で炎上し、禰宜がこれを嘆いて穴の倉の稲倉神社に遷座し稲倉明神と称したとされます。

現在の舞草字穴倉の地名は残っていますが、どのあたりにこの稲倉明神があったのかは不詳。

 

慶長6年(1601)吉祥山東城寺再建。

文化8年(1811)仁王門(現在の随神門)建立。

 

明治4年穴倉より旧社地に戻り、舞草神社と復称。

明治8年村社列格。

御朱印

御朱印の有無は不明。

アクセス

一関と平泉の境に鎮座しているのですが、非常に道がわかりづらいです。

平泉駅の東、国道4号線の柳之御所交差点(位置、道の駅平泉の前)から東へ進み橋を渡ります。2kmほど行くと信号があるので(位置、右手に郵便局のあるところ)、右手に曲がります。

4kmほど先の交差点(位置)を左折。200mほど先(位置)でまた左折。

1.4kmほど先、路肩に「延喜式内儛草神社参道」の碑が立っています(位置)ので、ここの分岐を左折します。

 

参道の石碑

 

650mほど行くと、舞草鍛冶の解説板が立っています(位置)。ここでも道が分岐するので、右手の上り坂を進みます。

 

舞草鍛冶の解説板

舞草鍛冶

この舞草の地は平安時代より刀鍛冶が集団で住まいした所と伝えられ、舞草刀は日本刀が直刀から湾刀へと移り変わる時期の初めの頃とされています。

刀剣に関する代表的な古伝書に鎌倉時代に書かれた観智院本銘尽がありますが、この中でも舞草鍛冶の刀工が数多く記述されており、その場所は、ここから直線距離で北西約700mの白山岳周辺にあったと伝えられております。舞草鍛冶は往時の陸奥国にあって武器づくりの集団として欠くことのできない存在でした。

 

解説板のところの分岐

 

上記分かれ道のところはボロボロですが参道標が建っています

その後ろに案内も出ているのでわかりやすいかと。

 

登ってすぐのところに鳥居があります

 

鳥居横に石碑が並んでいます

 

鳥居の横を過ぎ650mほど行くと分岐がある(位置)ので、左の道へ行きます。

ここから500mほどGooglemapに道の掲載なし。というか他の地図サイトで見ると左の道は記載がなく、右に続く道しか載っていません。しかし航空写真だと右の道は途中で途切れています…

地理院地図には左の道もちゃんと載っていますし、私もそちらから行ったと記憶しているので大丈夫。

500mほどで分岐(位置)にでますが、そのまま正面方向に進んでいけばOK。700mほど行くと駐車スペースがあります(位置)。

 

上記の道は東参道で、表参道は社殿から南へ伸びています。表参道は車通行不可(参道の写真を見ていただければわかると思いますが…)。

 

東参道は上記の通り途中に地図に記載がない道があるので、ナビを使うと別の道を案内される可能性があります。

道の駅平泉を出発点とする場合、NAVITIMEだと北上川遊水池展望台の辺り(位置)で左折、舞草観音堂入口(位置)を入って観音堂脇から神社まで上るルート。観音堂入口から観音堂への道はGooglemapだと記載がないのですが、以前は存在していたので大丈夫だと思います。地理院地図にもあるし…

Yahooカーナビだと道の悪い林道を走らされるのでやめておいたほうがいいです(表参道の途中を跨いでいる道。未舗装)。

神社概要

社名儛草神社(まいくさじんじゃ/もくさじんじゃ)
通称
旧称
住所岩手県一関市舞川字大平5
祭神

稲倉魂命

伊弉册命

神社明細帳

倉稲之魂命

伊邪那岐尊

熊野大神

白山比咩神

岩手県神社庁
社格等

式内社 陸奥国磐井郡 儛草神社

日本文徳天皇実録 仁寿二年八月辛丑(七) 儛草神 従五位下

旧村社

札所等旧奥州三十三観音27番札所(明治以前、吉祥山東城寺の頃)
御朱印不明
御朱印帳
駐車場あり
公式Webサイト
備考

参考文献

  • 「舞草村」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
  • 「儛草神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
  • 式内社研究会編『式内社調査報告 第十四巻 東山道3』皇學館大学出版部, 1987