飯豊森。
北上市と花巻市の境目にある、飯豊に鎮座(?)。
式内社 和我叡登挙神社の鎮座地説のある小さな山。
山道
森の入口
入口脇の池
飯豊森は、今から約六百万年前に火山噴火した岩に永い間の土砂が堆積して出来た山といわれております。崇高な雰囲気を漂わせている飯豊森は「農耕の神」として祭られ、昔から地元民に信仰されている森です。
標高 131.6m
祭神(旧暦)春、4月1日
秋、8月1日
権現岩、庚申塔、弁慶足跡は探しましたがそれらしきものが見当たりませんでした。
採石岩穴と龍神宮は登山道とは別方向にあるので降りてから見ようと思っていたら忘れました。
登山道
月山三山碑
山神碑
山頂より少し下にありますが、実はこの山神こそがこの飯豊森の神=和我叡登挙神社の祭神…だったりはしないでしょうか。考えすぎか。
山頂
山頂
十一面観音堂
観世音碑
石碑
十一面観音堂の後ろに道が続いて奥まで行けそうです
実際にこの奥、女山に行った方のブログ記事を見ましたが、石碑が建っているようです。
由緒
由緒は不詳。
『北上市史』『水沢市史』等が当地を延喜式神名帳にみえる「陸奥国膽澤郡 和我叡登挙神社」の鎮座地に比定しています。
それらの書によれば、和我叡登挙神社の「和我」は郡名(和賀郡)であり、また「挙」は「誉」の誤記(『水沢市史』は誤記と明言していないが途中から「和我叡登誉神社」と複数回書いているためその認識でいると見てよいと思われる)とし、「和我郡、叡登誉神社」というのが本来の形であるとします。
なぜ和我叡登挙神社が延喜式において和賀郡ではなく胆沢郡とされているかについては、延喜式編纂者が弘仁以前に朝集使が持ってきた資料を使ったためとか、過去の地名との混乱があったためと『北上市史』『水沢市史』では推測しています(胆沢郡は当初、後の胆沢・江刺・和賀の3郡を含んでおり、江刺は大同頃、和賀は弘仁頃に分郡したとされる)。
そして、叡登誉→エトヨ→飯豊と繋げ、和賀郡にあたる地域の中から飯豊の地名を持つ場所として当地をその叡登誉神社の比定地としています(実は和賀郡地域には飯豊が他にもあるそうですが、北上市史では、地名が村名になるほど大きく、また周辺に遺跡も多いことから当地を推しています)。
飯豊神について、『北上市史』では越君の祖神、『水沢市史』では物部氏の導入した神(飯豊比売神社の記事も参照。飯豊青尊が物部臣を遣わし御幣を奉ったという話が伝わる)としています。
詳しくは北上市史1巻、水沢市史2巻もご参照ください。
御朱印
十一面観音堂の御朱印の有無は不明。
どこで管理しているかも不明。
その他
南東方面から見た飯豊森
森の入口手前に建つ碑
「千代かけて飯豊森の峯高く里の守り神ぞまします」
アクセス
北上江釣子ICを北上市街方面に降り、1kmほど先の有田交差点(位置)から国道4号を北へ。
5kmほど先の北上工業団地口交差点(位置)で左折して、県道252号を北西へ。
3km先の十字路(位置)を右折。450m先の十字路(位置)を左折し200m弱行くと左手に森へ続く道があります(位置)。
奥に見える車止めの先が森です
駐車場はありません。迷惑にならないような位置に駐車するしかないです。
神社概要
社名 | 飯豊森(いいとよもり) |
---|---|
通称 | – |
旧称 | – |
住所 | 岩手県北上市飯豊9地割 |
祭神 | 荒覇吐神(?) |
社格等 | 式内社 陸奥国膽澤郡 和我叡登挙神社 |
札所等 | – |
御朱印 | 不明 |
御朱印帳 | – |
駐車場 | なし |
公式Webサイト | – |
備考 | – |
参考文献
- 「飯豊村」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 岩手県北上市編『北上市史 第1巻 原始・古代(1)』北上市史刊行会, 1968
- 式内社研究会編『式内社調査報告 第十四巻 東山道3』皇學館大学出版部, 1987
- 水沢市史編纂委員会編『水沢市史 2 中世』水沢市史刊行会, 1976