山崎忌部神社(吉野川市山川町忌部山)

山崎忌部神社。

吉野川市山川町忌部山、山の中腹に鎮座。

式内名神大社 忌部神社の論社。

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境内

手水舎

当社、駐車場側から入ってくると鳥居がありません。拝殿右手に階段があり、そちらが正式な参道。

 

拝殿右手の狛犬

この狛犬の間から下に本来の参道の階段が伸びています。

 

忌部神社正蹟の石碑

 

少し下った場所に鳥居

 

更に下ると両脇に石柱

何か意味を持つ石柱なのか、あるいは昔の鳥居の跡か何かか。

2015年参拝時はご覧の通り草ぼうぼうでしたが…

 

2019年に再訪時はきれいに整備されていました

 

平成二年大嘗祭麁服製織記念碑

 

社殿奥に進むと廃屋があります

かつての社務所か社家の住宅でしょうか。

社殿

拝殿

鉄筋コンクリート造。昭和43年に建てられたようです。

 

扁額

 

本殿

由緒

由緒板

忌部神社

当社の祭神は天日鷲命・后神言筥女命・天太玉命・后神比理能賣命・津咋見命・長白羽命・由布洲主命・衣織比女命である。住時は黒岩と呼ばれる處にあったが応永2年(1396年)秋の地震で社地が崩れ現地に祀られる様になったと言われる。忌部神社に就いては延喜神名帳にも記載されて居り、明治4年(1871年)には国幣中社として列せられているが、その正蹟に就いては神社間に種々争いやもめごともあったが、忌部神社正蹟考の研究資料に基く各方面からの考察に依って見ても忌部神社の正蹟は山崎の地であることは先ず正しいと考えられる。大正、昭和、平成大嘗祭にはこの境内に織殿を設け荒妙を織り貢進した事績や裏山の忌部山一帯には古墳を初め数多くの歴史的事蹟を蔵している。

創建時期については不明。

神社明細帳では皇紀2年(BC659)2月25日の創建としているそう。

 

かつては少し高い場所にある「黒岩」と呼ばれる地に鎮座していました。

応永2年(1395)の大地震にて社地崩落、現在の社地にあった王子権現のそばに小祠として祀られたとのこと。

 

 

続日本後紀 嘉祥2年(849)4月乙酉(2日)条に「奉授阿波国天日鷲神従五位下」三代実録 貞観元年(859)正月27日甲申条に「阿波国従五位下…忌部天日鷲神…従五位上」元慶2年(878)4月14日己卯条に「授阿波国…従五位上天日鷲神正五位下」、元慶7年(883)12月28日庚申条に「阿波国正五位上天日鷲神従四位下」と昇叙の記録がみえています。

延喜式神名帳にみえる「阿波国麻殖郡 忌部神社 名神大 月次新嘗」の論社とされています。なお、「或号麻殖神 或号天日鷲神」と注記がなされています。

 

忌部氏が大嘗祭に木綿や麻の御衣を献上した関係から、当社も国中第二位の神階に昇りましたが、いつの頃からか八幡社となっていたようです。

社記によれば文治元年(1185)に伊予国河野四郎通信が長光の太刀を奉納、同年屋島合戦の際に源義経が御祓神供を献じ太刀一振を奉納したとされます。

以降も度々の寄進があったようですが、天正年間(1573~92)に長宗我部元親が御供料を廃絶。

相次ぐ兵乱によって衰退し、江戸時代にはその所在すら不明に。一説には蜂須賀氏が当社社領を復旧させなかったためだとも。

 

享保12年(1727)、種穂神社(現在の吉野川市山川町川田忌部山の種穂忌部神社)の神職早雲民部が当社を押領せんとして、当社神職を放逐。元文年間(1736~41)には種穂神社を忌部神社として祀ることとなり、民部の子式部は争論を恐れて当社を焼き払ってしまいます。

その後祟りが相次いだので寛政13年(1801)式部は更迭され、元神職の村雲勝太夫の孫娘の養子が引き継ぐことに。

 

明治3年村社列格。

明治5年、式内 忌部神社に比定され、国幣中社に昇格。

その後、忌部神社の所在については他に美馬郡貞光説などがあったため、詳しい調査が行われた結果、当社の正当性が立証されたので明治8年あらためて国幣中社に再列格。

しかしなおも正蹟争いは絶えなかったため、それを治めるための太政官の妥協策により、明治18年に忌部神社は徳島市へ遷座。

これが現在の徳島市二軒屋町鎮座の忌部神社となります。

 

 

『徳島県神社誌』によれば当社は明治25年以降明細帳から削除されていましたが、大正8年に天日鷲神社と称し明細帳に再編入。昭和42年に氏子の熱望により山崎忌部神社と改称し今に至るそうです。

現在では、当社裏山の忌部山古墳群の発掘調査の結果から、当社が式内忌部神社であったこと、当地が忌部の勢力圏の中心であったことが裏付けられています。

 

境内には「麁服織殿跡」があるそうなのですが、どこにあるのか不明。

大正・昭和の大嘗祭のときに忌部氏の後裔とされる木屋平村(美馬郡)の三木家が荒妙を織って貢納したときの跡だというのですが。

 

また、当社には摂社として、岩戸神社(位置)、建美神社(岩戸神社境内)、牟羅久毛神社、淤騰夜末神社(位置)、志良夜末比売神社(位置)、稚宮神社(位置)、玖奴師神社(位置)の7社があり、古来「七社参り」と称して毎年正月十五日の未明全村あげて巡拝し正月送りを行う風習があったそう。

いずれも当社近辺に鎮座しています。

 

現祭神は天日鷲翔矢尊、后神言筥女命、天太玉尊、后神此理能賣命、津咋見命、長白羽命、由布洲主命、衣織比女命。

天日鷲翔矢尊は天日鷲命のことで、阿波忌部の祖神。

后神言筥女命(いいらめのみこと)は天日鷲命の后神。

天太玉尊は忌部氏の祖神。

后神此理能賣命(ひりのめのみこと)は天太玉尊の后神。

津咋見命は『古語拾遺』にみえる神で、天照大神の岩戸隠れの際、天日鷲命とともに殻の木を植え白和幣(木綿=ゆう)を作ったとされる神。安房国下立松原神社に伝わる忌部氏系図においては、天日鷲命の子・大麻比古命の別名とも。

長白羽命も『古語拾遺』にみえる神で、天照大神の岩戸隠れの際、麻を植えて青和幣を作ったとされる神。

由布洲主命は、安房国下立松原神社に伝わる忌部氏系図にみえる神で、大麻比古神の子。

衣織比女命については不明。ただ『古語拾遺』にみえる天棚機姫神の別名を天衣織女命というそうなので、その神を指すのかもしれません。

御朱印

御朱印の有無は不明。(ネット上の情報によればなしとのことですが、実際に確認したわけではないので)

現在は、山川町八幡にある八幡神社の兼務社のようです。

アクセス

国道192号沿い(位置)に、忌部神社の案内看板が立っています。

ここを南に入り、道なりに進みます。

突き当りまで行くとまた看板がありますので、案内通りに山の中へ坂道を上ります。少し上ると右手に社殿が見えます。

社地から道路を挟んで東に駐車場があります(位置)。トイレもあります。

神社概要

社名山崎忌部神社(やまさきいんべじんじゃ)
通称
旧称天日鷲神社
住所徳島県吉野川市山川町忌部山14
祭神

天日鷲翔矢尊

后神言筥女命

天太玉尊

后神此理能賣命

津咋見命

長白羽命

由布洲主命

衣織比女命

社格等

式内社 阿波国麻殖郡 忌部神社 名神大 月次新嘗 或号麻殖神 或号天日鷲神

続日本後紀 嘉祥二年四月乙酉(二) 天日鷲神 従五位下

日本三代実録 貞観元年正月廿七日甲申 忌部天日鷲神 従五位上

日本三代実録 元慶二年四月十四日己卯 天日鷲神 正五位下

日本三代実録 元慶七年十二月廿八日庚申 天日鷲神 従四位下

旧村社(一時 国幣中社)

札所等
御朱印不明
御朱印帳
駐車場あり(境内から道路挟んで東)
公式Webサイト
備考かつては少し南の「黒岩」の地に鎮座、応永2年(1384)の大地震にて社地崩落し現地に移転

参考文献

  • 「山崎村」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
  • 「山崎忌部神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
  • 式内社研究会編『式内社調査報告 第二十三巻 南海道』皇學館大学出版部, 1987
  • 徳島県神社庁教化委員会編『改訂 徳島県神社誌』徳島県神社庁, 2019