八幡神社。
JR三加茂駅の北隣に鎮座。
旧称および通称は金丸八幡神社。
式内社 田寸神社の論社。
境内
社頭
手水舎
狛犬
鳥居
阿形しかいなかった狛犬
社殿
拝殿
扁額
本殿
境内社
境内社
『式内社調査報告』にある金丸神社ほかを祀った末社殿か。
境内社前の狛犬
社日塔
裏手、国道側にあった境内社
地神祠?
磐境
境内後方、国道沿いの列石
神籠石・皇護石とも呼ばれる立石。
これは磐境であるとか、あるいは単に神域を区切る境界(玉垣的なもの)とする説があります。
下掲の配置図を見ると、全てが昔のまま残っているわけではなく、移動させられたり現存しない部分もあるようです。
国鉄徳島本線三加茂駅に接する八幡神社の境域をめぐり、二重に板石を建てめぐらしていることは古くから知られ、かつて、これを古代の神籬石であろうと発表したものを見た記憶がある。その後、一度実地について見たが、いわゆる神籬石というような古いものでなく、境域を限り、神域を郭する二重の列石に過ぎないことを確めた。
近年この種の遺構を注目するようになり、施設は精粗さまざまであるが、これを結果石と名づけ、その範疇に属せしめることにし、若干資料を紹介した一文をまとめ”歴史考古”(日本歴史考古学会発行)に投稿しているので、近刊の同誌に掲載される予定である。
こんな機会であったから、最後に神社を訪れ田中猪之助氏の案内で、列石を改めて見たがやはり、いわゆる神籬でなく、わたくしのいう結界石の範疇に属せしめるべきものであることを再確認したので、いちおう所見をのべて参考に供しよう。
ここで、まず神籬石の定義を明らかにしておかなければならない。神籬石が最初に学問の対象として取りあげられたのは、肥後久留米市の高良山である。山頂から中腹をめぐって麓に達する切り石は背を揃えて透き間なく建ち並び、麓の入口に門跡の遺構がある。つまり、山頂を神座とする聖地説にもとづき、神籬石と名づけたのである。その後、同式の遺構が北九州の各地へかけて(周防でも)発見せられ朝鮮における山城との比較検討から、だいたいにおいて、古墳時代末期の山城説が唱えられるようになったのである。つまり祭祀遺構として名づけた神籬石であったが実は軍事遺構だったのである。それにもかかわらず、なお神籬石と呼んでいるところに問題があり、定義を明らかにする必要が、研究の前提条件になるとわたくしがたびたびの機会に強調しているゆえんである。
さて、神籬石をこのように定義すると、八幡神社の列石が、それに該当するといえるだろうか。これを神籬石と名づけたのは聖地をめぐる表標としての本義からであろう。果して然らば、この列石が神籬石とよばれるにふさわしい古代の遺構といえるということが次の課題であろう。
聖地を中心に立石をめぐらす例は、古代祭祀遺構に往々見られるが、多くは環状で、八幡神社のように規矩整然としたものはない。おそらく境域を限り神殿を郭するためのもので、いわゆる玉垣にあたり適当な石材がえがたいところから地元産の緑泥片岩の板石を用いたまでで、とびとびに建て並べたものであろう。つまり玉垣の代用と解してもよく、玉垣の造立に中世にさかのぼる例がないのであるから、損傷は甚しいがいちおう近世に入ってからの造立と見るのが穏当であろう。
気づいている人は少ないと思うが、伊勢神宮の内宮にせよ、外宮にせよ、高い板塀を四重にめぐらし、正殿を囲うている。そして、外側から板塀、外玉垣、内玉垣、瑞籬と呼んでいる。一般の人々は板垣を入り外玉垣から拝するのである。玉や瑞は美称にすぎず呼名はちがっていても、すべて垣であり、神厳のために四重にしたまでで、本義は一重に変りがない。とにかく、これより内は神聖な地であり、みだりに人の入ることを許さぬ標識であり、古語にいうユイ、シメの進化であること、疑をいれる余地がない。
これを要するに、塀や垣は占地の標識であり、木造では腐朽しやすいので石造にかえて恒久化を図るようになるのは、自然の理であろう。このような移り変りにも一定の時点がありわが国では鎌倉中期が著な交替期であったと、わたくしは確信している。それには適当な木材がえがたくなってきたのと同時に、石造化の負担にたえられるまでに、経済的自立化が進んだことを反映していることを見のがしてはならないと思う。そして、このような石造りの遺構が、このころからぼつぼつ見えはじめるのであるが、なお遺例の知見にあるものは少なく、すべて、神社や仏寺など、信仰の対象となる聖地に限っている。神仏混淆の世であるから、仏教用語ではあるがこれらを総称して、私は結界石と呼ぶのである。あえて八幡神社の列石を、その範疇に入れんとするゆえんである。それにしても、いわゆる神籬石式に建て並べたこの列石は立地条件にもとづく必然性とはいえ、珍しい遺構として保存管理に値することは改めていうまでもない。(三加茂町史より抜粋)
配置図
宵宮の神事
金丸八幡神社の宵宮神事は、中国伝来の陰陽五行説を題材とし、この世の最初の神様である盤古(ばんこ)大王の物語を組み合わせた創作話の神楽です。
秋祭りの前夜、10月14日の夜境内で行われます。まず拝殿の前に一本の長い青竹を渡し、これに温石(オンジャク)(円形の御霊代)を下げます。庭では火(庭燈)をたいて、そのあかりで神が「オンジャク」に天下るのを迎えるという、降神の儀式があり、この儀式の後、神楽に入り、刀を扇を持って北・東・南・西・中と5回まわる『剣の舞』を舞い(五方固め)、お招きした諸々の星神の名前を述べ、神々の力を呼び起こし、このあと、天地開山の盤古大王の末の子である乙子五郎は、兄の四帝竜王を訪問して『乙子五郎王子の舞』を舞います。
こうした古い形で秋祭りが残っているのは県下でも珍しく、県指定無形民俗文化財に指定されています。
由緒
大昔この地に神が祀られその神域の境界を示すものとして磐境が残っている。
萬治三年(一六六〇年)に八幡宮として新しく建てられ、その後何回となく再興・修理が加えられ維持されてきた。
明治四年神仏分離後、八幡神社と改称し神殿を造営し、明治十三年幣殿・拝殿を新造し現在の神社となった。
明治四十二年、地域の小宮を集めて境内神社として社殿を作った。
平成八年、社殿全体の老朽化に伴い、氏子の発意で大規模改修工事を行った。
祭礼は、毎年四月十五日・十月十五日の例大祭、十月十四日の夜は徳島県指定無形文化財「宵宮の神事」の神楽舞いが奉納される。
これらの諸行事は、山路山畑、中井、西光角の四部落の当屋持ち回り制で行われている。
創建時期は不詳。
『式内社調査報告』に「社記によると、往古建石神社と称し大己貴命を祀った。中古、金丸山腹に鎮座していた八幡神社を合祀して金丸八幡神社とよばれた」とあります。
この建石神社が延喜式神名帳にみえる「阿波国美馬郡 田寸神社」の論社とされています。
境内周囲の立石は阿波で取れる板状の青石(緑泥結晶片岩)が自然石のまま用いられており、いずれも直立しています。玉垣だとの見方もありますが、祭場として聖域を画した磐境ともいわれており、そうだとすると上代の祭祀遺跡として貴重なもの。皇護石とも言うそうです。
天正年間(1573~92)に長宗我部の兵火に罹り社殿・古記録を焼失。
慶長11年(1606)遷宮の棟札を有しているそうですが、境内由緒碑には万治3年(1660)八幡宮として新しく建てたとあり詳細不明。慶長に八幡宮を当地に遷し万治に社殿再建ということでしょうか。
祭神について、『徳島県神社誌』では応神天皇、神功皇后、仁徳天皇、天津加佐比古命、竹内宿禰命。
『平成祭データ』では大己貴命、応神天皇、武内宿禰、神功皇后。
『式内社調査報告』では、天津加佐比古命は天都賀佐比古神社の神名であるため、社記にある大己貴神が正しいのではないか、としています。
御朱印
御朱印の有無は不明。
アクセス
国道192号沿い、三加茂駅というとても小さな駅の真ん前にあります。
駐車場はありませんが、すぐ隣に東みよし町立歴史民俗資料館という施設(位置)があるので、ここの駐車場をお借りするのがいいかと思います(建物の北、県道沿いに駐車可能)。
こちらは入館無料ですので、神社参拝と合わせて見学するのもよさそうです。
神社概要
社名 | 八幡神社(はちまんじんじゃ) | |
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通称 | 金丸八幡神社(かなまるはちまんじんじゃ) | |
旧称 | 同上 | |
住所 | 徳島県三好郡東みよし町中庄1187 | |
祭神 | 応神天皇 神功皇后 仁徳天皇 天津加佐比古命 竹内宿禰命 | 『徳島県神社誌』 |
大己貴命 応神天皇 武内宿禰 神功皇后 | 『平成祭データ』 | |
社格等 | 式内社 阿波国美馬郡 田寸神社 旧村社 | |
札所等 | – | |
御朱印 | 不明 | |
御朱印帳 | – | |
駐車場 | なし(神社用の駐車場はないが、隣の歴史民俗資料館に駐車場あり) | |
公式Webサイト | – | |
備考 | – |
参考文献
- 「八幡神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 「八幡神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
- 式内社研究会編『式内社調査報告 第二十三巻 南海道』皇學館大学出版部, 1987
- 谷川健一編『日本の神々 神社と聖地 第二巻 山陽・四国』白水社, 1984
- 徳島県神社庁教化委員会編『改訂 徳島県神社誌』徳島県神社庁, 2019