杉山神社。
横浜市緑区西八朔町に鎮座。
式内社 杉山神社の論社で、武蔵国六宮とされる神社。
境内
社前の県道を渡った南側にある社号標
上部が壊れているのは経年劣化なのか、意図的に社格部分を取り除いたのか不明。
社号標
参道
社頭
鳥居
手水舎
石段
狛犬
社殿
拝殿
扁額
本殿
境内社等
稲荷社
境内社
『新編武蔵風土記稿』に「末社八幡社、本社ニ向テ左ノ方ニ祠ヲ立」とあるので、それに当たるかと思われますが不明。
地神塔と庚申塔?
力石
此の力石は江戸時代中頃より明治にかけて当神社氏子の若者が境内で担ぎ力を競い合ったと伝えられている
その風習は関東のみならず西国にもあり石を担ぐことにより力を競うのみならず神の霊験をも占った
当神社に伝わる此の石は明記されていないが相模の国大山阿夫利神社へ五穀豊穣の祈願に詣でた折に相模川の河原より担いで奉納されたものと伝えられている
此の石に滲み込んだ往時の若者の心意気を茲に碑を建て顕彰する
重量二十五貫目(九三・七五キログラム)
神輿庫
社頭に展示されている昔の消防ポンプと台車
由緒
一、祭神 五十猛命、配祀 大日霊命 素盞嗚命 太田命
一、由緒
当神社は武蔵国の総社、大国魂神社の六宮である。続日本後紀承和五年(八三八)二月庚戌の条に武蔵国都筑郡杉山神社預之官幣以霊験也。とあるさらに同書承和十五年(八四八)五月庚辰の条にも奉授武蔵国无位杉山名神従五位下とある
六所宮武蔵国の総社、大国魂神社の成立は人皇十二代景行天皇四十一年、都筑郡杉山神社は六の宮として西殿に祭られた。
「武蔵総社誌」上巻に六所宮東西の御殿に鎮座す六所大神等は東御殿に一の宮小野大神、二の宮小河大神、三の宮氷川大神、以上三所鎮座す。西御殿に四の宮秩父大神、五の宮金佐奈ノ大神、六の宮杉山ノ大神以上三所鎮座す。件の六所を総称して六所宮と称す。この六ノ宮に該当する神社が西八朔鎮座の杉山神社である。「風土記稿」に「慶安年中社領の御朱印を賜う。其の文左にのす」武蔵国都筑郡西八朔村、極楽寺杉山明神社領、同村之内、五石六斗事、任先規寄附之訖全可収納、並境内山林竹木諸役等、免除如有来永不可有相違者也。慶安二年(一六四九)八月二十四日、御朱印。以上の事実によって当神社こそ式内社の由緒深きものである。
一、社格
明治六年十二月被列郷社との辞令神奈川県庁より御下附あり。
大正九年九月十日神奈川県告示第三六二号を以て神饌幣帛料供進すべき旨同県知事より指定あり。
昭和二十八年八月一日神奈川県指令第三九九〇号を以って宗教法人杉山神社として同県知事より認証された。
一、社殿・境内地
昭和五十七年十一月三日改築遷宮祭執行。境内地千四百六十三坪
創建時期は不詳。
続日本後紀 承和5年(838)2月庚戌(22日)条にみえる「武蔵国都筑郡枌山神社預之官幣。以霊験也」、同承和15年(848)5月庚辰(22日)条にみえる「奉授武蔵国无位枌山名神従五位下」の枌山神、並びに延喜式神名帳にみえる「武蔵国都筑郡 杉山神社」の論社の一社とされています。
和名抄にみえる、武蔵国都筑郡の「針圻郷」が八朔になったとも。
元は今より三町(300m強)ほど西北の大明神山と言われる辺りに鎮座し、延宝(1673~81)頃に現在地に遷座したといいます(『新撰総社伝記考証』『神社大観』)。
大明神山は現存せず、旧地の具体的な位置は不明。
『新撰総社伝記考証』は大明神山について以下のように記しています。
新撰総社伝記考証
此山裾の引はへたる所凡二丁余、高さ廿間ばかり、山の形容取よろひおだやかにして、南の方のふもとに七八尺ばかりの切崖ありて、七八間ばかり平らかなる芝生残れり、今は次第に田にすかれて、かくわづかなれるものにて、もとは此水田のあたりまで、すべて小高き平地なりけむおもかげ見え、さてやゝやゝに水田すきとりたれば、彼切崖の如きかたちは残れり、かくする時は、後の方に山を負て前なる小高き平地に南にむかひて、社はたちたりけむとおぼし…
『武蔵の古社』は「いまの社地から三百メートルほど西北の山麓」とし、『式内社調査報告』は『新撰総社伝記考証』の引用部において大明神山の箇所に「現・梅ヶ丘」と注を入れています。
東名高速や宅地が造成される前は当社北西辺りは小高い山(丘?)で、その山麓に南面して鎮座したのだと思われます。
また鳥居あるいは鳥居土という地名があり、昔一の鳥居があったとも(新編武蔵風土記稿は北八朔村、新撰総社伝記考証は小山村の地名とする)。
現在は武蔵国六宮とされていますが、これを称し始めたのはそれほど古い時期ではないようです。
『式内社調査報告』は以下のように記しています。
式内社調査報告
彼(猿渡盛章)が都筑の巡歴を始めた文政十年(一八二七)の夏以前は、杉山神社の実蹟はまだ不明であった筈である。が、その後、社領や地名等の点から彼は西八朔の杉山神社を推奨した。従って、当社を六ノ宮と称するようになるのも、六所宮の祠官の猿渡氏との関係からである。つまり、それは文化十年夏以後のことで古くからのことではない。
文化10年(1813)夏という具体的な時期が出ている根拠は不明。当社が大国魂神社の例祭に参加し始めた時期なのか、この事実を示す何らかの書物が成立した時期なのか(少なくとも『新撰総社伝記考証』は天保期成立なので違う)。
慶安2年(1649)、徳川幕府より朱印状を下賜されていますが、数ある杉山神社の中で社領を有したのは当社だけのため、これが当社を式内社とする説の根拠の一つとなっています。
明治6年、郷社列格。
明治43年、無格社神明社外四社を合併。
大正10年頃に官幣社への昇格運動も行われたものの、果たされなかったようです。
御朱印
御朱印はあります。
ただし授与は本務社の琴平神社(川崎市麻生区王禅寺5-46-15)で。
歩きだと7kmほど。1時間半くらいかかります。
電車・バスを使う場合、当社辺りからだと2つルートがあります。
1つ目は、柿生駅まで電車、そこからバスを使うルート。
具体的には「JRで十日市場→町田」「小田急で町田→柿生」「柿生駅前から小田急バスのたまプラーザ駅行(柿01)またはすすき野団地(虹が丘団地)(柿02)で琴平下バス停」と乗り継ぐと下車すぐ。バスは「柿生駅前から川崎市営バスの溝17(溝ノ口駅方面)で琴平下バス停」でもOK。
2つ目は、たまプラーザ駅まで電車、そこからバスを使うルート。
具体的には「JRで十日市場→長津田」「東急で長津田→たまプラーザ」「東急バス(4番乗り場)の柿生駅前ゆき(柿01)で琴平下バス停」と乗り継ぐと下車すぐ。
電車は十日市場から経由せず藤が丘まで歩いたほうが、ちょっと距離はありますがスマートかも。
またバスはたまプラーザ(これも4番乗り場)から<王禅寺坂上経由> 虹が丘営業所ゆき(た31)で終点虹が丘営業所まで行き、そこから歩いてもいけます(500mほど)。
いずれにせよそれなりに時間がかかります。
アクセス
車の場合、十日市場駅の北、下台交差点(位置)から県道140号を東へ1kmほど走ると左手に社号標があり、そこを入っていくと社頭に出ます(高速からだと横浜青葉ICか横浜町田ICで下りていくのでしょうが、この辺のICは道が複雑すぎてよくわからないので説明できません…走ってて混乱する)。
社頭石段右手から境内に入れそうな道がありますが実際入れるかは未確認。
境内に入れないとすると、十日市場か梅が丘あたりのコインパーキングに停めて歩くしかありません。
徒歩の場合、中山駅か青葉台駅から横浜市営バス90系統/東急バス青90系統で、宮前バス停降車してすぐ。最低でも1時間に2便はあります。
十日市場駅から歩いても15分程度でいけます。
神社概要
社名 | 杉山神社(すぎやまじんじゃ) |
---|---|
通称 | – |
旧称 | – |
住所 | 神奈川県横浜市緑区西八朔町208 |
祭神 | 五十猛命 |
配祀 | 大日霊命 素盞嗚命 太田命 |
社格等 | 式内社 武蔵国都筑郡 杉山神社 続日本後紀 承和五年(八三八)二月庚戌(廿二) 枌山神社 預之官幣 続日本後紀 承和十五年(八四八)五月庚辰(廿二) 枌山名神 従五位下 武蔵国六宮 旧郷社 |
札所等 | – |
御朱印 | あり |
御朱印帳 | – |
駐車場 | なし(?) |
公式Webサイト | – |
備考 | 元は今より三町(300m強)ほど西北の大明神山と言われる辺りに鎮座 |
参考文献
- 「西八朔村」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 「杉山神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
- 神奈川県神社庁編『神奈川県神社誌』神奈川県神社庁, 1981
- 式内社研究会編『式内社調査報告 第十一巻 東海道6』皇學館大学出版部, 1976
- 谷川健一編『日本の神々 神社と聖地 第十一巻 関東』白水社, 1984
- 戸倉英太郎『杉山神社考』緑区郷土史研究会, 1978
- 菱沼勇『菱沼勇著作集 第一巻 上(式内社の歴史地理的研究 上)』菱沼勇先生著作集刊行会, 1989(『武蔵の古社』有峰書店, 1975 の改題復刻)
- 明治神社誌料編纂所編『府県郷社明治神社誌料 上巻』明治神社誌料編纂所, 1912(国会図書館デジタルコレクション 272-273コマ)