玉崎神社(いすみ市岬町中原)

玉崎神社。

いすみ市岬町中原に鎮座。

上総十二社の一つとされ、一宮玉前神社の元宮との説もある神社。

境内

社頭

 

社号標

 

鳥居

 

灯籠と祭事の時とかに使うやつ

 

石段

 

狛犬

犬(和犬)そのものです。

 

手水舎

 

茅の輪

社殿

拝殿

 

扁額

 

本殿

境内社等

境内社

 

出羽三山碑

 

道祖神碑

 

御神木

 

椎の木境内の群生地とあるので、周囲の木も含めて天然記念物のようです

 

由緒碑らしき碑

 

脇参道(境内北西側)の駐車場に立つ大きな蘇鉄

 

この他に、境内右手(手水舎写真の後ろにちらっと見える階段の奥)に琴平神社があります。

いわゆるパワースポットとして有名だそうです。そういうのはよくわかりませんが、静謐な雰囲気の場所ではあると思います。

写真撮影不可の掲示があったので撮影せず(2014年頃にはなかった記憶が…)。

由緒

由緒板

玉﨑神社

鎮座地 千葉県夷隅郡岬町中原三六二八番地

祭神

豊玉毘賣命(神話で知らる山幸彦神の妻神)

鵜葺草葺不合命(神武天皇の父神)

例祭日 九月十三日

由緒沿革

当神社は物部系氏族之を創建しまつり、往古夷隅川辺のまほらに鎮座し、大同二年(平城天皇御代)今よりし千百八十六年前大宮(現椎木内鎮座せし為地名となれり)地区へ遷座されました。然るに天正十八年(後陽成天皇御代関白秀吉公時)今より四百三年前兵火の災に遭ひ、よって假宮を営み、寛永十一年(明正天皇御代三代将軍家光公時)本殿等再造営されました。而うして後宝永四年(東山天皇御代五代将軍綱吉公時)今よりし二百八十六年前に至り、此の地へと再遷座されました。

中世期には社殿、中社、小社、樓閣、斎屋も列なり、猶近郷なる万木城外五城の祈願所ともなり且篤尊崇されました。近世期迄神内あまた仕え侍ぶり、古記にも残る謂所山内郷四社に於ける元宮にして、過去国学四大人の一人篤胤翁の逗留を始め遡りても諸士、諸雅、訪なひ、昭和御代迄祭礼日には、幕末三筆の一人米庵書伯揮毫す、豪壮無比の大幟もはためきました。秘むる史に蝉騒も椎の實も降る此のお庭、現社殿、霊神社、神輿庫、社務所は氏子総ての赤誠により昭和四年に造営されました。

御神歌(古事記上つ巻)

赤玉は緒さへ光れど白玉の君が装し貴しありけり

創建時期は不詳。

往古物部氏によって夷隅川辺のまほら(場所不明)に祀られたといわれます。

その後大同2年(807)に大宮地区に遷座。

天正18年(1590)戦火により焼失したため仮宮を営み、寛永11年(1634)社殿再建。

大宮の地は卑湿であったため、宝永4年(1707)現在地に遷座。

宝永4年の遷座の際に当社と椎木玉前神社に分かれたとされます。

 

安房神社、香取神宮と当社で「房総三大神社」と呼ばれたという紹介が各所でされているのですが、出典不詳。

 

一説には、当社は玉前神社(上総一宮)の元宮であるともいわれます。

『岬町史』によると、当社境内にあった神宮寺の棟札に「応仁元年(一四六七)八月十三日御神体を大宮玉前大明神に移し奉る」という記録があったとのこと。

大宮から中原・椎木の2社に遷座されたのは宝永4年(1707)のため、それ以前の応仁元年(1467)に中原から大宮に御神体が遷ったというのは矛盾があります。

「大宮」を「一宮」として、応仁元年に当地から一宮へ遷座された、つまり応仁以前の玉前神社の鎮座地は当地である…と見るのが元宮説の由来であるようです。

なおこの棟札が現存するのかはわかりません。神宮寺の詳細や法灯を継ぐ寺院があるのかも不明。

 

下記参照させていただきました。

 

御朱印

御朱印はあります。

私の参拝時は宮司さんが境内にいらしたのでその場でいただけましたが、境内に常駐されているわけではないようなので、事前連絡を入れるのがよいかと思います。

アクセス

国道128号の太東漁港入口交差点のすぐ北の分岐(下図)で、国道を外れ南方向に直進する道に入ります。

そのまま道なりに(分岐は行き止まりや私有地に入ってしまうところを除いて基本右側選択)進んで行くと右手に神社の駐車場看板がたっています。

神社概要

社名玉崎神社(たまさきじんじゃ)
住所千葉県いすみ市岬町中原3628
祭神

豊玉毘賣命

鵜葺草葺不合命

社格等

式内社 上総国埴生郡 玉前神社(名神大)(旧地?)

旧郷社

御朱印あり
駐車場あり

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