玉前神社(一宮町一宮)

玉前神社。

一宮町一宮、上総一ノ宮駅の西に鎮座。

式内名神大社 玉前神社に比定される神社で、上総国一宮とされる神社。

戦前は国幣中社、現在は神社本庁の別表神社。

境内

社号標

上総一ノ宮駅から県道228号を神社方面に150mほど行ったところの交差点に建っています。

 

社頭

 

一の鳥居

『式内社調査報告』に「国鉄の上総一宮駅で下車し、西北方約五〇〇メートルのところの県道に面して、当社の朱色の大鳥居があり、その下を通って少し西に入ると、商店の並んだ道路の突き当りに石造の二の鳥居が立ち、その向うは玉前神社の境内である」とあります。

この記述から、昭和50年頃は当社の一の鳥居はもう少し東にあったのではないかと思い(現在、朱色の鳥居は境内入口に建ち、商店があるのはその手前)調べてみたところ、少なくとも昭和43年時点では玉前神社前交差点の神社側に一の鳥居があったようです(下記上段リンクのキャプションより)。往時の写真を掲載しているサイトがありましたので、ご参照ください。

 

いつ頃この鳥居が撤去されたかは不明ですが、昭和50年頃まではあったのではないかと推測します(当社の載る式内社調査報告11巻の発行が昭和51年なので)。

なお角八本店さんサイトの鳥居写真のうち、白黒の方には社号標が右手に写り込んでいます。上掲の社号標と同一と思われますが、昔は社号標が神社寄りにあったのか、あるいは鳥居が駅寄りにあったのか…

 

社号標

 

狛犬

 

参道

 

二の鳥居

 

扁額

 

狛犬

 

手水舎

 

キャンプ場にある流し台を流用したような手水舎。臨時のものでしょうか。

 

三の鳥居

 

脇参道(社殿東)鳥居

社殿

拝殿

 

本殿

 

千葉県指定文化財 玉前神社社殿 附 棟札(貞享四年三月・貞享四年八月在銘)

玉前神社は、玉依姫命を祭神とする「延喜式」神名帳にも見える古社で、「三代実録」にも記録される由緒ある神社である。鎌倉時代には上総一宮としての格式を保っており、北条氏、里見氏の天正の変で罹災し、天正十年(一五八二)里見義頼により再建されたと伝える。

現在の建物は、江戸中期の貞享四年(一六八七)に、本殿が大工棟梁大沼権兵衛、拝殿と幣殿は井上六兵衛によって竣工された。

本殿は、桁行三間、梁間二間、一間の庇を付ける入母屋造りである。拝殿は、桁行五間、梁間二間の入母屋造りで、正面に向唐破風を付ける。幣殿は、本殿と拝殿をつなぐ建物で、桁行四間、梁間一間の規模である。全体が複合社殿(権現造)となっており、屋根は寛政十二年(一八〇〇)に現在に見られるような銅板葺に改められている。

県内でも余り例を見ない様式を残す社殿は、社格とその歴史を今に伝えている。

なお当社社殿は平成19年(2007)から「平成の大修理」と銘打って全面的な修理が行われ、平成29年(2017)に完工しています。

境内社等

境内西側、十二神社鳥居

 

十二神社手水鉢

 

十二神社

 

玉前神社末社十二神社ご由緒

ご祭神旧鎮座神社
軻愚突智命宮の後 愛宕神社
誉田別命陣屋内 八幡神社
事代主命上宿 三島神社
白山比売命上宿 白山神社
大山咋命下村 日枝神社
大山祇命柚の木 山神社
木花開耶姫命細田 浅間神社

八衢比古命

八衢比売命

久那斗命

道祖神 塞神社
大物主命内宿 蔵王神社
少彦名命関東台 粟島神社
櫛御毛野命陣屋 熊野神社
罔象女命下の原 水神社

一宮町内の邑々に昔から祀られ信仰を集めていた神々が明治初年政府の命により玉前神社に合祀され十二神社として現在にいたりました

例祭は「愛宕さん」と親しまれ、その火防せのご神徳とともに親しまれ賑わっています

平成六年十月氏子を始めご崇敬の方々のお力により社殿のご改修、神輿のご修理が見事に行われました

ご例祭

宵宮祭 十月二十七日 午後六時

お囃子と神賑行事

例祭 十月二十八日 午前十時

ご神幸 午後一時

ご還御 午後八時

 

十二神社脇の山車庫

 

御神水(二の鳥居右手)

 

後ろの井戸は白鳥井というようです

 

三峯神社(三の鳥居左手奥)

 

遷宮記念碑

三峯神社由緒

秩父多摩国立公園の東京埼玉の境をなす二〇一七米の標高雲取山の支脈に白岩山妙法獄三山を三峯山と称し一八五〇年前日本武尊が此の地に伊弉諾尊(いざなぎのみこと)伊弉冊尊(いざなみのみこと)を勧請した仮宮を造営され聖武天皇の御時光明皇后が十一面観音を別殿に安置したのが初めと伝えられこの頃から神佛混淆の時代が始まる其後明治維新神佛分離令により純然たる神社として世人に其の信仰いよいよ高まり御眷属拝借によって三峯講として安政年間当町名士信者によって中宿に分祀したもので大東亜戦争終結後巷に邪教の横行と共に災害による禍事に直面したれどその霊験厚き神に一同益々その信仰を深め昭和四十一年本殿改修同四十四年現在の玉前神社境内に改造安置し厚き御守護の神として信仰せるものなり御神犬は三峯山の象徴である

 

玉前稲荷神社(三の鳥居左手)

 

お狐さん

 

稲荷社脇の井戸(?)

 

一宮町招魂殿

 

勇死救亜洲碑

 

招魂殿

大正十二年建立。日清・日露戦争以降第二次世界大戦までの一宮出身三二五柱の戦没者をお祀りしている。例祭は四月十三日に行われている。

右の「勇死救亜洲碑」は英霊顕彰の為昭和三十一年に建てられたもので、三二五柱の氏名を彫り、一宮藩主後裔で当時千葉県知事であった加納久朗氏の篆額がある。

 

砲弾

 

西山(はだしの道)

 

西山後ろから

『式内社調査報告』に「社殿に向って左手に少し離れて、一つの古墳がある」という記述があるので、この西山がそれ、つまり古墳ではないかと思われます。

 

本殿横のこれは御神砂?

 

神楽殿

 

千葉県指定無形民俗文化財 玉前神社上総神楽

起源は、宝永七年(一七一〇)神楽殿造営の折江戸神楽の源流である土師流の神楽師に伝授されたということが、社家の記録にある

千葉市南生実の八剣神社の記録によると、享保元年(一七一六)社殿を造営し遷宮式をした際玉前神社の神楽師を招き、二日間神楽を奉納したとあり、約三〇〇年近い歴史をもつ古格をよく保存している、太太神楽である

かつては三十六座舞われていたようであるが今は二十五座が伝承され、氏子により上総神楽保存会が結成され、後世への継承と育成がはかられている

毎年正月元旦、四月十三日の春季例祭、九月十日から十三日の例祭など、七度奏されている

昭和三十三年県の無形民俗文化財に指定された

 

力石

 

獲錨記念碑。

 

 

獲錨記念碑

明治の末、九十九里浜の海に沈んでいて度々魚網に被害を及ぼしていた錨が漁師の網に掛かり引き揚げられた。漁師たちは玉前神社のお陰と大いに喜び、網主十一名が東郷平八郎海軍大将に篆額をいただき、その錨とともに碑を建てた。

当時の漁は砂浜より船を押しだす地引き網漁で、現在は観光地引き網が町内数カ所で行われている。

 

平廣常顕彰碑

 

平廣常顕彰碑

町内の高藤山城が居城と伝えられている上総権介平朝臣廣常は、三代に亘り上総國を支配した武将である。源頼朝が鎌倉幕府を興す際の功労者の一人であったが、謀反の企てがあると頼朝が疑心を懐き、かつまた、生来の傲慢さも不興をかって寿永二年(一一八三)十二月に謀殺された。しかし、実のところは同年七月に廣常は当社に鎧一領とこの石碑に記された書状を添えて、頼朝の心願と東国太平を祈願していたのだった。

石碑は廣常の玉前神社への篤い信仰を顕彰したもので、表に当社への祈願文を、裏には廣常の行跡が記されている。

この文書や鎧は戦国期の戦乱で焼失した。

 

芭蕉の句碑

 

一宮町指定文化財(史跡) 芭蕉の句碑

この碑は表面中央に「たかき屋にの御製の有難を今も猶 叡慮にて賑ふたみや庭かまど はせを」と大書されている。「はせを」は芭蕉のことであり、元禄元年(一六八八)秋冬の頃の作で、仁徳天皇の聖徳を称えたものである。左端には「名にしおはゞ名取草より社宮哉 金波」の句を発句とする表十句を刻んである。

背面には、上部に「無尽言」の題字、その下に百四十九句を刻み、起名庵金並みの芭蕉景仰の漢文銘画あり、左端に「明治紀元戊辰晩秋 催主 千丁 河野五郎兵衛 とあり、上総千町村(現茂原市千町)の俳人起名庵金波 河野五郎兵衛」一門によって建てられたもので、書も金波といわれている。

金波は文化元年(一八〇四)岡山の井出家に生れ、俳句を学び起名庵を創始した。嘉永五年(一八五二)千町村の河野家の養子として迎えられ明治二十年八十四歳で没した。

 

報賽碑

 

一宮町指定文化財(天然記念物) 玉前神社槇の群生

当神社の境内に槇の群生がある。槇はマキ科の常緑高木で、九十九里海岸平野の気候風土に適し、当地域の特産である。

境内には、槇を始め数種の樹木がみられるが、槇は本殿裏から西側へかけて大小二十数樹が群生し、他の神社では見られない光景である。樹高凡そ二十メートル、幹囲三メートル前後の巨木も十数樹を数え、鬱蒼として壮観であり、特に境内東側の槇は最も大きく、樹高二十メートル、幹囲三・二六メートルに達する。

種類は県木と同種のイヌマキである。

 

イヌマキ?

 

御神木いす(なんじゃもんじゃ)

 

神木 いす

「なんじゃもんじゃ」とも呼ばれるまんさく科いすの樹で、俗にひょんのき・蚊母樹とも言い、常緑で花も実も付ける。

古来当社のご神木として崇められてきた。

モンゼンイスアブラムシが葉や茎に土で袋状の巣をつくり、虫が飛び出した空き殻は昔の子ども達の笛として遊ばれていた。

 

子宝子授けいちょう

 

子宝子授けいちょう

雄株(右)と雌株(左)の真中に実生の子どもいちょうが育っています。

雄株→雌株→こどもの順に両手で触れて子宝を願うとよいと言われています。

 

斎館。手前の竹垣内の松は五葉松というようです。

 

参集殿。平成の大修理事業の一環で建設された新しい建物。

 

参集殿入口にある白寿庵(旧社務所)復原模型

 

白寿庵復原模型(1/20)千葉大学工学部モリス研究室製作

白寿庵(はくじゅあん)は、上総一之宮玉前神社の社務所として明治18(1885)年に創建されたもので、風格ある書院づくりの近代和風建築として千葉県教育委員会の『近代和風建築総合調査報告書』にも記載されている。

明治末年から大正、昭和の戦前戦中を通じて房総の避暑地として賑わった一宮を訪れた多数の著名人(皇族、軍人、政治家、文士、画家など)が、玉前神社に参詣してこの一室で談笑された。当地に別荘を有していた斎藤實首相の書をはじめ、幾多の能書家や画家の揮毫が残されている。

昭和16(1941)年に現在の社務所建築のため、後方に移築され、戦後は保育所やそろばん塾などとしても用いられて広く住民に親しまれてきたが、平成19年末に参集殿の新築に当たって取り壊されることになった。

上総一之宮玉前神社は九十九里地域の人びとの信仰を集め、地域発展の基となってきた。権現づくりの社殿(貞享4年の造営、県指定文化財)とともに、白寿庵は歴史的経緯と文化財としても価値のある和風建築であり、その消失を惜しむ有志によって解体部材の保存がなされ、再建への取り組みがはじまった。

千葉大学工学部マーティン・N・モリス教授が、白寿庵の九十九里地域における近代和風建築としての希少価値に注目して、解体前より保存・復原のための調査研究を継続して実施し、その活動のひとつとしてモリス研究室により20分の1の復原模型が3年の年月をかけて製作された。この復原模型は白寿庵の建築構造のありようを示すとともに、保存・活用と地域づくりのシンボルとしてかぎりなく大きな効果がある。

復原白寿庵は、上総一之宮とその門前町のようすを県内外からの訪問者に伝える記念館の役割を果たす一方、当地の伝統文化や和風文化を継承する拠点として、また町民の寄りあいの場所としてさまざまに利用されることが期待される。

 

現社務所

 

参集殿内にある御神輿

 

総合案内所

 

車祓所の巨木

由緒

由緒板

ご祭神 玉依姫命

玉依姫命は海(龍宮)よりこの地におあがりになり、姉神豊玉姫命より託された鵜茅葺不合命をご養育、後に命と結婚されて初代天皇神武帝をお産みになられました

ご祭神が私達の生活全般をお守りくださるのは勿論ですがわけても安産・子育てのお働きに象徴される女性の守護神として、また「龍宮」の意味する豊かさや喜びをもたらし男女をはじめ人のご縁を結ぶ神として古くより信仰されています

ご由緒

創始は古く詳らかではありませんが、延喜式内名神大社、また上総国一ノ宮として平安時代にはすでに日本の中でも重きをおくべき神社とされていました 明治四年には国幣中社に列しています

昭和二十三年に当時皇太子であられた今上陛下がご参拝、同二十八年には昭和天皇、平成四年には今上陛下より幣饌料を賜わりました

また千葉平氏上総権介平朝臣広常をはじめ、源頼朝の妻の北条政子懐妊に際して安産祈願の奉幣、徳川家康が神田十五石を寄進するなど武門の崇敬も多く厚いものでした

ご例祭

九月十三日 ご例祭と神幸祭

大同二年(八〇七)に始まったと伝えられる当地方で最も古い浜降神事です 「上総の裸祭」といわれ、ご祭神由縁の釣が崎海岸に十二柱の神々が集われる壮大な祭儀です

裸の男達が神輿を奉じて九十九里浜を疾走します

文化財

国指定重要文化財「梅樹双雀鏡」県指定有形文化財「玉前神社社殿」などがあり県指定無形民俗文化財「上総神楽」は三百年の伝統をもち現在でも年七回奉納されています

創建時期は不詳。

景行天皇御東幸の際の創建とも(当社明細帳)。

延喜式神名帳の「上総国埴生郡 玉前神社 名神大」および、三代実録貞観10年(868)7月27日戊午条にみえる「上総国従五位上勳五等…玉崎神…従四位下」、元慶元年(877)5月17日丁巳条の「上総国従四位上勳五等玉埼神正四位上(※)」、同8年(884)7月15日癸酉条の「上総国正四位下勳五等玉崎神正四位上」の玉崎(玉埼)神は当社に比定されています。

※元慶8年の正四位上昇叙と重複するため、正四位下の誤記であろうとされます。

また上総国一宮ともされてきました。

平安末~鎌倉初期には当地の豪族上総広常の崇敬を受けたことが吾妻鏡などから伝わります。

永禄年間(1558~1570)に戦火に罹り、下総の玉崎神社(現・旭市飯岡)に逃れたという伝えもあります。

天正年間(1573~1593)には戻ったようで、天正10年(1582)には一宮城主里見美頼による本宮地寄進状が出され、現存しています(ただしこの本宮地が現社地であるかは不明)。

明治4年国幣中社列格。

祭神

現祭神は玉依姫命。

しかしかつては玉前大神という祭神も祭られていた(この神が主神であった)という説もあります。

『長生郡郷土史』に、当社例祭(十二社祭り)において当社から出る神輿二基について、一基は玉依姫、一基は玉前大神の神輿という記述があるため(現在は玉依姫と神武天皇とされる)。

『式内社調査報告』では、この玉前大神を、当地に始めて来着した氏族の首長(伊甚国造と推測)の祖が祀っていた氏神だろうとしています。ただ比較的早い時期に、来着した際の首長が祖神となりその位置を交替されたのではないかとも。

建長6年(1254)の『古今著聞集』に「延久二年(一〇七〇)八月三日かづさの国一宮の御たくせんに懐妊の後すでに三年におよぶ、いま明王の国ををさむる時に望て、若みやを誕生すと仰せられけり、これによりて海辺を見ければ明珠一顆ありけり、かの御正体にたがふ事なかりけり、ふしぎなる事なり」とあり、この頃から既に当社祭神は女神と考えられていたようです。となると、玉前大神という神は女神なのでしょうか。

また『房総志料』に「長柄郡一宮の人かたりしは、昔塩翁あり。早に出で潮水を汲む。忽ち光彩波間に出没せるを見る。就て之を索む。明珠十二顆、潮際にあり。翁採りて家に帰り籠に盛り、壁間に掛く。其宵明珠光明を吐き、塩室を照す。翁恐れて玉崎の神庫に秘す。今玉崎十二村の祭る処則是なりと」とあり、同種の伝承が複数残ることからも、当社の御神体は玉…海岸に寄り来た美しい玉だと考えられます(当地の北方、銚子は琥珀の産地で、それではないかと見る向きも)。

日本書紀の安閑天皇元年四月癸丑朔条に、膳臣大麻呂が勅を奉じ伊甚国造に珠を求めたところ間に合わず、捕えられた国造稚子直が後宮に逃げると春日皇后が驚き倒れてしまい、国造はその贖罪のため伊甚屯倉を皇后に献上したという記述があります。『日本の神々 神社と聖地』ではこの珠を当社に御神体に類したもの、あるいは御神体そのものではないかとみています。

ただ、『式内社調査報告』ではかつての神職による「戦時中に御神体を防空壕に遷した時には畳半畳程の唐櫃に収められ男4人でようやく運べるほどに重かった」という逸話を載せた上で、元の御神体の珠は失われ、代わりに別の大石を御神体としたのではないか、としています。

 

また異説として、『神名帳考証』では天明玉命を挙げています(玉に通じるからか)。

 

なお、玉依姫命が漂着したとされる玉ノ浦(釣ヶ崎海岸)には鳥居(東浪見の鳥居)が建ち、上陸後に身体を洗ったとされる地には当社元宮といわれる神洗神社が鎮座しています。これらについては別記事にて。

御朱印

御朱印はあります。

社務所で拝受可。

オリジナル御朱印帳もあり。

同デザインで赤、青、白基調の3種。

青を選んでみました。

アクセス

茂原方面から国道128号を南下し、一宮川を渡ったら西に入ります(玉前神社前交差点か、その一つ北の交差点)。

下図の位置が駐車場入口。周辺の道は狭く一方通行もあるので注意。

神社概要

社名玉前神社(たまさきじんじゃ)
旧称玉崎神社(?)
住所千葉県長生郡一宮町一宮3048
祭神玉依姫命現祭神
玉前大神『長生郡郷土史』
天明玉命『神名帳考証』
社格等

式内社 上総国埴生郡 玉前神社(名神大)

日本三代実録 貞観十年七月廿七日戊午 玉崎神 従四位下

日本三代実録 元慶元年五月十七日丁巳 玉埼神 正四位下(※)

日本三代実録 元慶八年七月十五日癸酉 玉崎神 正四位上

上総国一宮

旧国幣中社

別表神社

御朱印あり
御朱印帳あり
駐車場あり
公式Webサイトhttps://tamasaki.org/

※三代実録各種写本では「正四位上」。元慶八年に正四位上に昇叙された記述があるため正四位下の誤記と見られる。

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