率土神社。
袖ケ浦市神納に鎮座。
祭神がインドの王妃だったとする珍しい縁起が伝わる神社。
境内
社頭
鳥居
扁額
社号標
参道石段
石段上の鳥居
石段上から下を覗くと少し怖いです
石段上からの眺め
木更津西部を見渡せます。
参道
山の中のように見えますが、すぐ左手は住宅地で車道が通っています。
三の鳥居
社号標
指定村社とあります。千葉県神社名鑑では当社は無格社(社格の記載なし)だったのですが…
新しい社号標
平成十三年十二月二十五日三の鳥居が(神前)、神輿の渡御宮上りの際大変危険なため区民のご協力により新築いたしここに落成を記念しこの碑を建立する
元三の鳥居は二の鳥居に移築す
狛犬
手水舎
狛犬
社殿
拝殿
扁額
本殿
境内社等
六社神社(疱瘡神社、稲荷神社、大杉神社、金毘羅神社、淡島神社、愛宕神社)
扁額
六社神社狛犬(ミニ)
六社神社横の御神木
御神木根本の石碑
日枝神社と彫られています。
天満宮
日吉大神
青面金剛?
大山咋命碑
石祠群
社殿裏手の御神木の跡
我等の祖先が率土大明神の御社に御祀りした﨔の御神木幾百年の時を全うしてより三十有余年その絶えたのを惜しみ昭和五十三年十月吉日氏子の有志相倚り相諮って新に霊木を得てこの地に植栽して既に十年今茲に寄進者の篤行に感謝しその事実を誌して後世に伝えようとするものである
冀くは神霊の御加護を賜りよく千万年の樹齢を保ち永久に神納の郷の平安を弥増す繁栄を見そなわされることを
石祠
神輿殿
史料殿
ここは神職非常駐の神社なので普段は開いていないと思うのですが、どんな史料があるのか見てみたくはある…
旧村社率土神社の所在する神納地区に伝承されているもので、横笛と桶太鼓、小締太鼓の演奏にのって行う獅子神楽である。この神楽は、「前がかり」に始まり、「御幣の舞い」「鈴の舞い」へと移り「剣の舞い」は刀の大小を両手に持って「みな三尺の剣を持って悪魔を払う」の唄によって始まり、最後に「狂い」の五種目からなるこの獅子神楽は、江戸時代に現在の姿となったと考えられます。
この獅子神楽は率土神社に奉納されるだけでなく、市内飯富に所在する式内社飽富神社の大祭にも奉納され、飽富神社ではこの獅子神楽を祭礼の事始とし、いかなる場合でも第一番に奉納されるものとし、「神納の神楽はあとがさき」という俚諺となって伝えられています。
現在本市では、この神納神楽ばやしが最も形・方法等がしっかりしており無形民俗文化財がとだえようとしている今日では貴重な存在であるため指定をしたものです。この神楽ばやしを保存・伝承させるために、「神納神楽ばやし保存会」も結成されています。
率土神社南古墳
二の鳥居と三の鳥居間の参道右手に古墳があります。
率土神社南古墳は率土神社本殿から南側へ約一五〇メートル、標高約三一メートルの台地に位置しています。
この古墳は昭和五十年の埋蔵文化財分布調査で、上円下方墳(上段が円形で、下段が方形の古墳)と考えられていましたが、昭和五十三年の東洋大学考古学研究会の測量調査で、下段は直径三六メートル、高さ一メートル、上段は直径二四メートル、高さ三・五メートルの二段構築の円墳の北西側に幅六メートル、長さ七メートルの張り出し部をもつ帆立貝式前方後円墳ということが判明しました。
また、墳丘の周辺からは、円筒埴輪(古墳の聖域を示す埴輪)の破片が採集され、この埴輪の型式から、古墳の築造年代は、六世紀の初頭と考えられています。
ちょっとわかりづらいですが、二段構造なのが何となく見えると思います
古墳の上には石碑と覆屋
「明治三十七年(?)八幡大神」と彫られています(多分)。
特に道はないですが斜面がきつくないので登ること自体は容易です。ただ蜘蛛の巣だらけなので、何も考えずに突っ込むとひどいことになります。
由緒
一 御社名 率土神社(そっとじんじゃ)
一 御祭神 埴安姫尊(はにやすひめのみことー土の神のち産業の守護神)
一 御相殿 倉稲魂命 大己貴命の二柱
一 境内神
大杉神社 疱痘神社 淡島神社 嚴島神社 阿夫利神社 水神社
日枝神社五社 金毘羅神社 の十三社
一 御創建 天平三年(七三〇)と傳へられる
一 御神域 一八七七坪(六一九三平方米)
一 御本殿 神明造 延寶六年(一六七九)の修復
一 御神体 鏡と傳へられる
一 御神木 けやき
一 御神紋 八つ波輪
一 御神寶 縁起書 神樂の面 棟札 祭祀具 神社周辺から出土した土器 その他
一 御祭典
元旦祭 一月一日
御飾焚き(小正月) 一月十五日
節分祭 二月節分
春季大祭(縁起式) 二月九日
例大祭 十月十五日
御上り(神無月の神事) 十月三十一日
秋季大祭(新穀祭) 十一月二十三日
一 社名の由来 出典は史經の「溥天之下莫非王土 率土之浜莫非王臣」によるもので気宇雄大な社名である
一 其の他 當社は旧神納村の総鎮守で隣の式内社飫富神社と特殊な関係にある
當社の縁起書は古代の當地を物語るものとして貴重である
當社の神楽囃と神楽の面は文化財に指定されている
當社は耳の疾患に霊驗がある
當社の周辺は古墳の集落地で前方後円墳などがあり附近一帯から土器類が出土している
率土神社に伝わるこの縁起は、江戸時代初期ごろの写本であるが、書体・片仮名の字体などから、原本は室町時代に書かれたものと推定される。
縁起の大要は次のようなものである。
祭神埴安姫は天竺(インド)摩伽陀国盤古帝の后であったが、盤古帝の悪政によって国が乱れ、人民に国を追われて七人の王子と家臣大朝臣清麻呂と共に、養老二年(七一八)に日本に漂着した。時の元正天皇によって京に迎えられた后は、天皇の命によって東国の民を鎮めるために下向することになった。
天豊媛命の名を賜り、養老二年四月に京を発し、同年六月に上総国望陀郡飫富の里に着いた。
土地の人々に迎えられた后は、神納の地に社殿を建てて住みつき、天平二年(七三〇)六三歳で没した。聖武天皇は大明神埴安尊と尊号を下された。当社の祭礼日の正月九日(明治以降二月九日)は后の誕生日である。
縁起によれば創建は天平3年(※)(730)。
※縁起書の解説及び和暦西暦との不一致から、天平2年か731年の誤記と思われる。
天竺(インド)の摩伽陀(マガダ)国は盤古帝の悪政によって国が乱れ、人民に国を追われた王妃埴安姫は、七人の王子と家臣大朝臣清麻呂と共に養老2年(718)日本に漂着。
その後、元正天皇から天豊媛命の名を賜り、上総国望陀郡飫富の里に下向。天平2年(730)に彼女が没すると、聖武天皇は大明神埴安尊の尊号を贈ったとされます。
ただ、マガダ国が存在したのは紀元前でのため時代が合いません。また養老頃にインドの王妃や王子が日本に逃げてきたと記録は、少なくとも調べた限りではありませんでした。
縁起書の原本が書かれた室町時代頃にこの由緒が創作されたのだと思われますが、その意図は不明。著者が仏教説話等から影響を受けたのかとは思いますが、なぜ地方の小さな神社にそのスケールの由緒を据えたのか…
明治以降の社格は村社。
境内由緒碑には「飽富神社と特殊な関係」とありますが、飽富神社の大祭で当社の神楽ばやしが第一に奉納されることを指すのか、あるいは他にも何らかの由縁があるのかは不明。
なお社名の「率土」とは『詩経』の「溥天之下 莫非王土 率土之濱 莫非王臣」に由来するようです。
広い空の下、王のものでない地はなく、地の果てまで、王の民でない人はいない、というような意味。
二の鳥居から見渡す風景から生まれた名前だと思われます。
御朱印
御朱印の有無は不明。
本務社は八剱八幡神社です。通常当社は無人。
Googleマップのクチコミに御朱印画像があがっており、日付が元日のため、祭事などで神職が来られるとき限定でいただけるのかもしれません。
アクセス
川崎方面からアクアライン、房総内陸から圏央道、いずれの場合も袖ヶ浦ICで降り、すぐ先の交差点(位置)を北へ。
1.7kmほど先の福王台交差点(位置)を右折。そこから道なりに600mほどで社頭。
市原方面から来る場合は国道16号で福王台交差点に行き、後は同じ。
鳥居の斜向い、参道右手側に駐車場あり(位置、神社の駐車場という案内はないので確証はありませんが…)。
神社概要
社名 | 率土神社(そっとじんじゃ) |
---|---|
通称 | – |
旧称 | – |
住所 | 千葉県袖ケ浦市神納3382 |
祭神 | 埴安姫尊 |
社格等 | 村社 |
札所等 | – |
御朱印 | 不明 |
御朱印帳 | – |
駐車場 | あり |
公式Webサイト | – |
備考 | – |
参考文献
- 「率土神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
- 千葉県神社名鑑刊行委員会編『千葉県神社名鑑』千葉県神社庁, 1987