一宮神社(徳島市一宮町西丁)

一宮神社。

徳島市一宮町西丁に鎮座。

式内大社 天石門別八倉比売神社並びに、阿波国一宮の論社。

広告

境内

社頭

 

社号標

 

神橋

宝永以前に蜂須賀侯より寄進されたもの。渡ることはできません。

 

神橋前から境内

 

神橋横の石橋

駐車場から境内に入る場合はこれを渡るのですが、少し怖い…

 

鳥居

 

扁額

 

燈籠

 

手水舎

 

狛犬

 

脇参道と注連柱

 

脇参道狛犬

 

拝殿前狛犬

社殿

拝殿

 

扁額

 

本殿

境内社等

宗像神社(左)・若宮神社(右)

 

眾灵神様(衆霊神様?)

由緒が掠れて読めませんが、祖霊社でしょうか。

 

大己貴神社事代主神社(?)

徳島県神社誌にある大己貴大国神社か。

 

境内社

社名札が掠れて読めず

 

猿田彦神社(?)

 

社日塔(地神社)

 

境内社(社名掲示なし)

 

徳島県神社誌には境内社として、地神社、若宮神社、若葉神社、秋葉神社、宗像神社、天神社、猿田彦神社、大己貴大国神社が挙げられています。

 

御神木?

由緒

一宮神社略記

一、大宜都比売命 御別名 天石門別八倉比売命を奉祀する 衣食農業商業開運の神で又縁結び安産の守護神と信仰する人が多い

一、延喜式内大社天石門別八倉比売神社に充てられる古社で一宮大明神と奉称せられ阿波国一宮八倉比売命を祀るから明治維新まで八月八日が御祭禮日 神佛分離まで四国巡拝の霊場であった

一、小笠原氏は一宮城を構え大宮司に任じ蜂須賀侯も社殿を造営し御初穂御神馬を奉献篤く崇敬した 氏子の尊崇は今に変らない

一、一宮町の地名 一宮城の称等は一宮大明神が千年の昔から此所に御鎮座ましますに由来すると思う

一、春祭四月二日 秋祭十月十八日 新嘗祭十二月十八日

上一宮大粟神社(神山町)からの分祀にはじまるとされます。

その分祀の時期は不詳ですが、延元3年(1338)に小笠原氏が勧請した(後述)とも言われます。

上一宮大粟神社が参拝に不便であったことから、平安時代後期に国府近くの当地に分祀されたのだとも。

勧善寺蔵の大般若経巻七三の奥書に嘉慶2年(1388)2月5日付けで「上一宮住金剛仏子舜海」とみえることから、この頃には上下二社が存在したことはほぼ確実。当社は「下一宮」と称されていました。

 

元々、一宮の神官家は大同3年(808)に阿波守となった田口息継の子孫・一宮氏だったとされますが、鎌倉時代に阿波国守護となった小笠原長清の孫、小笠原長宗がこれを滅ぼし、延元3年(1338)に一宮城を築き一宮を同城近くの一宮山上明神峰に勧請。以降、長宗は一宮氏を称し、神官も兼ねたとされます。

小笠原氏は一宮氏を滅ぼしたのではなく、一国の神祇権を掌握する必要から一宮氏と縁戚関係を結び、穏やかに大宮司職と地頭職を引き継いだとする見方もあります。

 

『阿波志』『入田村史』によれば、元は鬼籠野(現・神山町鬼籠野)にあったとも。

鬼籠野には、かつて中一宮大明神と称した鬼籠野神社があります。上一宮が参拝不便なため、参拝所として設けたのが中一宮だとする伝えがあるので、あるいは鬼籠野に分祀の後、さらに参拝の便を図り当地に分祀したのかもしれません。

 

延喜式神名帳にみえる「阿波国名方郡 天石門別八倉比売神社」並びに、続日本後紀 承和8年(841)8月戊午(21日)条に「奉授阿波国正八位上天石門和気八倉比咩神…従五位下」三代実録 貞観7年(865)2月27日己卯条に「阿波国正五位下天石門和気八倉比咩神従四位下」貞観13年(871)2月26日壬辰条に「阿波国従四位下天石門和気八倉比咩神従四位上」貞観16年(874)3月14日癸酉条に「阿波国従四位上天石門和気八倉比咩神正四位下」元慶3年(879)6月23日壬午条に「授阿波国正四位下天石門別八倉比咩神正四位上」とみえる天石門和気八倉比咩神(天石門別八倉比咩神)の論社とされています。

当社は上記の論社である上一宮大粟神社の分社とされているので、厳密に言えば「論社の分社」となります(創建が平安後期~一宮城築城の頃であれば、延喜式や六国史の時代にはまだ成立していない)。

 

現在、阿波国一宮は大麻比古神社とされていますが、当初の阿波一宮は上一宮大粟神社であり、後に国府近くの下一宮(当社)に移り、南北朝期に守護細川氏の影響下において大麻比古神社が一宮となったとする説があります。

この説は大まかに下記の様なもので、現在は有力説のようです。

  1. 建久2年(1191)10月の長講堂領目録に「阿波一宮」とみえる。これは一宮社が集積した免田に起源をもつ社領が、そのまま荘園制に組み込まれ所領化したものと考えられる。
  2. 所領一宮の前提となる一宮社については、久安2年(1146)7月11日の『河人成俊等問注申詞記(愚昧記仁安二年冬巻裏文書)』に「一宮司河人成高舎弟成俊」とみえることから、遅くとも同年までには成立、つまり起源は院政期にまで遡る。
  3. 所領一宮は鮎喰川流域に比定されることから、成立期の阿波国一宮もまた鮎喰川流域に存在した推定される。よって上一宮大粟神社が往古の阿波一宮であった(後に下一宮の当社に移った)。

 

戦国時代後期、一宮城主・一宮成祐(成助)は三好長慶の妹婿で三好家の重臣でしたが、後に対立して長宗我部元親と手を結びます。しかし中富川の戦いの後、三好康長との内通を疑われ元親に謀殺されてしまいます。

また天正期の兵乱の際、当社は一宮城府の一角にあったために度々兵火に罹り、全てを失ったとも。

天正期(1573~92)に一宮山上明神峰から北麓の現在地に遷座したとされますが、焼失後に遷ったのか、遷ってから燃えたのかは不明。

 

天正13年(1585)蜂須賀氏が阿波に入部すると、厚く保護され社殿の修復等がなされました。

成祐の弟・光孝(成孝)は讃岐国水主に逃れていましたが、その子光信は蜂須賀氏によって一宮神社の神職に招かれ、現在までその子孫が神職を世襲しています。

 

明治の神仏分離までは当社が四国八十八ヶ所の第13番札所とされていました。

神仏分離後、別当であった大日寺が札所を引き継ぎ、当社本地仏十一面観音も大日寺に遷されています。

 

明治6年郷社列格、後に県社に昇格。

 

現祭神は大宜都比売命、天石門別八倉比売命。

『平成祭データ』の由緒や境内略記には「大宜都比売命 御別名 天石門別八倉比売命」とあるので、実際には一座のようです。

ただ、当社と同じ天石門別八倉比売神社・阿波一宮の論社である国府町の天石門別八倉比売神社(旧杉尾明神)では、八倉比売命=大日孁女命=天照大神としています。

 

御朱印

御朱印はあります。

社殿向かって左手奥に社務所(宮司さん宅?)があり、そちらで頂けます。

ご不在の場合も書置きが用意されています。

アクセス

国府町観音寺の交差点(上図)を南に折れ、突き当りを右折。

1kmほど行くと左手に橋があるので、鮎喰川を渡ります。

橋を渡った先、突き当りを右へ。

 

その先1kmほどの場所(上図)で左手の道に入ります。バス停があるところです。

入ってすぐ、右手に神橋(太鼓橋)があり、その手前が駐車場。

ただ狭く、2~3台程しか停められません。

また有料で、短時間100円、長時間300円(参拝だけなら100円が妥当か)。木に掛けてある郵便受にお金を入れる形。ちょうど一宮城の登山口に当たり、登る人も使うからか有料なのかなと思います。

 

埋まっている場合は、県道を東に200mほど行くと大日寺の駐車場があります。こちらは無料。

大日寺のなので、使う場合はそちらもお参りすべきだとは思います。

神社概要

社名一宮神社(いちのみやじんじゃ)
旧称一宮大明神
住所徳島県徳島市一宮町西丁237
祭神

大宜都比売命

天石門別八倉比売命

社格等

式内社 阿波国名方郡 天石門別八倉比売神社 大 月次新嘗

続日本後紀 承和八年八月戊午(廿一) 天石門和気八倉比咩神 従五位下

日本三代実録 貞観七年二月廿七日己卯 天石門和気八倉比咩神 従四位下

日本三代実録 貞観十三年二月廿六日壬辰 天石門和気八倉比咩神 従四位上

日本三代実録 貞観十六年三月十四日癸酉 天石門和気八倉比咩神 正四位下

日本三代実録 元慶三年六月廿三日壬午 天石門別八倉比咩神 正四位上

阿波国一宮

旧県社

札所等旧四国八十八ヶ所十三番
御朱印あり
駐車場あり

タイトルとURLをコピーしました