愛宕神社。
郡山駅の西500m程、清水台に鎮座する神社。
境内
一の鳥居
社号標
手水舎
二の鳥居
柱だけ…横の石柱が笠木や貫のように見えますが、地震の被害?
狛犬
社殿
三の鳥居と社殿前面
社殿右斜め前から
拝殿は万延元年(1860)造営。
扁額
文字は愛宕堂?
本殿覆屋
本殿は延享元年(1744)に造営された、大きな石造宮なのだそう。
境内社等
妻恋稲荷神社
土地の人はめっけ稲荷、めっこう稲荷と呼ぶそうです。
この神社には、元禄15年の赤穂事件に関わる伝承が残されています。
昔、当社は江戸の吉良上野介の屋敷に祀ってありました。この屋敷に住んでいた家来の一人で、郡山の呉服屋生まれの石塚彦宗は信心深く、毎日妻恋稲荷にお参りしていましたが、元禄15年12月14日(旧暦)、討ち入ってきた赤穂浪士に襲われます。
傷を受け、屋敷の外に逃れるもののそのまま気が遠くなってしまったその時、「ここにいては助かるまい。お前の故郷まで連れて行ってやろう」と声がするので驚いて見ると、大きな狐が背を向けて乗れというような身振りをしていました。「さては日頃信心する稲荷様が、この狐を寄越して下さったのか」と背中に乗ると、狐は雲の上を飛んで走り、彦宗を郡山の生家まで連れて行きました。
傷を治した彦宗は刀を捨てて武士をやめ、先祖からの呉服屋の商売に精を出したそうで、この店は今も大町にある「いせや呉服店」だといわれています。
助けてもらった恩を忘れなかった彦宗は、愛宕神社の脇に社を作って江戸の妻恋稲荷を勧請して祀ったのでした。
…でもどうして「めっけ稲荷」なんでしょう。
妻恋稲荷後ろの祠
横にも祠
身代り大国様
大国様は福徳を授ける神として広く知られて居ります。
当石造りの大国様は、延享3年12月2日(西暦・1746年)に多くの願いを込められて建立され、身代り大国と称し崇敬されて来ました。病気や怪我などで、身体が病むとき、身分の病むところをさすり、その手で大国様の同じところをさすると、病は大国様が代ってくれると伝えられて居ります。
大国様隣の祠
出羽三山神社遥拝殿
湯殿山の碑
庚申碑、大国様、湯殿山(?)碑が並びます
一番左の大乗妙典一千部塔はかなり新しく見えますが、あえてお寺じゃなく神社の境内に建てたのはなぜかしら(江戸時代は寺院だったとはいえ)。
境内の巨木
由緒
当社一帯は昔から愛宕山と称されていました。
熊野三山系山伏が元禄2年(1689)に愛宕堂を建立したのが始まり(山地の住人さんの記事では、それ以前に大町に鎮座しており、元禄2年に当地に遷座と述べられています)。
明治元年まで愛宕堂善正院また愛宕大権現と称する寺院でした。
寺子屋も開いていたとのこと。
明治2年(1869)神仏分離によって愛宕神社と改称、別当が還俗し神職となりました。
御朱印
御朱印はあります。
社務所で拝受可。
合わせて福神御像もいただけました。
アクセス
郡山駅から徒歩7、8分ほど。県道57号線沿いに鳥居が建っています。
駐車場の有無は不明。境内裏から入れる道があり、若干のスペースはありますが参拝者用の駐車場かどうか不明。徒歩で行ったもので、全く気に留めていませんでした。
神社前の道路を挟んで向かいに立体コインパーキング(位置、100円/30分)があるので、そちらに停めるのがよいかも。
ただ、参道すぐ北にもコインパーキングが2つあり(位置①、位置②)、いずれも200円/60分。向かいのパーキングと違って大回りして県道を渡る必要がありません。
60分あれば当社北400m程にある赤木神社(専用駐車場なし)も参拝して戻ってこられるので、それも考慮すると後者のいずれかに停めた方が効率的だと思います。
神社概要
社名 | 愛宕神社(あたごじんじゃ) |
---|---|
通称 | – |
旧称 | 愛宕堂善正院 愛宕大権現 |
住所 | 福島県郡山市清水台2-12-6 |
祭神 | 迦具土神 |
社格等 | 不明 |
札所等 | – |
御朱印 | あり |
御朱印帳 | – |
駐車場 | なし |
公式Webサイト | – |
備考 | – |
参考文献
- 「愛宕神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995