日祭神社(南相馬市原町区大甕字舘)

日祭神社。

南相馬市原町区大甕、国道6号線沿いの丘の上に鎮座。

式内社 日祭神社に比定される神社。

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境内

鳥居

震災後に建てられたもの。私の参拝は2015年元日ですが、ネット上に上げられている当社の写真を見ると、2012年には鳥居がないので、この間に建てられたのでしょう(その間撮影されたと確認できる写真や建立日を明記した資料は見当たらず)。

かつて(震災前まで?)は石鳥居が建っていました。現在の鳥居に掛かる扁額は、この石鳥居の扁額と同一ではないかと思います(ネット上の石鳥居の写真を見ての推測)。

 

社号標

 

狛犬

 

手水鉢

水を入れる部分が扇型。水がだしっぱでしたが見ての通りハンドルがないためどうにもできず。

 

社殿脇の石碑

右から順に以下の通り。

  • 慶応2年(1866)3月の「皇太神」碑
  • 天保11年(1840)5月の「小牛田山神」碑
  • 万延元年(1860)の庚申碑と思われる銘文の磨滅した碑
  • 寛政4年(1792)6月の「奉祭廿三夜神石」碑
  • 年不詳「山神」碑

その他、平成祭データには境内社として足尾神社が挙げられていますが確認できず。

明治神社誌料には粟島神社の名が見えますがこれは弘化年間(1844~48)に当社北東に遷されたという粟島神社(現存)を指すのではないでしょうか。

社殿

拝殿

 

扁額

 

本殿

由緒

社伝によれば、景行天皇40年(110)、日本武尊東征の際、当地に祭壇を設けて大甕に酒を盛り、高皇産霊神と天照大御神を鎮祭したのに始まるとされます。当地の地名はこの大甕に因むとも。

 

延暦20年(801)に坂上田村麻呂東征の際、当社に戦勝を祈願。

延喜式神名帳にみえる「陸奥国行方郡 日祭神社」に比定されています。

 

その後は不詳ですが、戦国時代には当社の鎮座する丘陵に明神館という丘城があったようです。

神社裏の丘の頂部が主郭で、相馬氏の分流岡田氏の居城だったのこと。

 

明治6年に村社、同12年には郷社に列格。

 

現在、祭神は天照大御神、高皇産霊神の2柱とされていますが、いくつか説があります。

出典祭神
社伝/神社明細帳/郷土史天照大御神
大日本史高皇産霊尊
神名帳考証天押日命(天忍日命)
奥相志豊日霊命

『大日本史』は「日祭」の社名から日奉氏を想定。新撰姓氏録に「佐伯日奉造は高魂命六世の孫天押日命の後なり」とあり、日奉連の祖が高皇産霊尊、日奉氏と大伴宿禰が同族であることから、続日本紀神護景雲3年(769)3月13日條大伴行方連の賜姓の記事と関連付け、この一族の奉祀するところであるとしています。

(『大日本史』巻258より引用「按姓氏録、日奉氏與大伴宿禰同族、而續日本紀、大伴部居本郡者、賜姓大伴行方連、據此本社或其族所奉祀也」)

『神名帳考証』は上記新撰姓氏録の記述から天忍日命を祭神としたようです。

御朱印

御朱印の有無は不明。

アクセス

いわきや相馬から常磐自動車道や国道6号で南相馬方面へ(あるいは郡山や二本松から国道288や459で太平洋側へ)。

国道6号の磐城太田駅から1km強東の交差点(位置)で北西側に入る脇道へ。

300mほどで神社前。

参道右に2台分ほどの駐車スペースあり。

震災前はJR原ノ町駅から出ていた路線バスの原町・大甕循環路線、大甕停留所から徒歩約5分だったのですが、現在は運休中。

2016年7月に常磐線の小高駅-原ノ町駅間が運転再開したため、当社最寄りの磐城太田駅も営業再開しており、そこからなら約2km、徒歩約25分ほどです。ただし電車の本数は少ないので注意。

神社概要

社名日祭神社(ひまつりじんじゃ)
通称
旧称
住所福島県南相馬市原町区大甕字舘120
祭神

天照大御神

高皇産霊神

社格等

式内社 陸奥国行方郡 日祭神社

旧郷社

札所等
御朱印不明
御朱印帳
駐車場あり
公式Webサイト
備考

参考文献

  • 「大甕村」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
  • 「日祭神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
  • 式内社研究会編『式内社調査報告 第十四巻 東山道3』皇學館大学出版部, 1987
  • 明治神社誌料編纂所編『府県郷社明治神社誌料 中巻』明治神社誌料編纂所, 1912(国会図書館デジタルコレクション 452-453コマ