石都々古和気神社(石川町字下泉)

石都々古和気神社。

石川町役場の後方、八幡山の山頂に鎮座。

式内社 石都都古和気神社の論社。

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境内

社前を川(今出川)が流れており、川向こうに狛犬と燈籠があります

車が停まっていましたが、神社の駐車場として使われているのは不明。

 

狛犬

 

三蘆城趾碑

三芦城は平安末期から戦国時代にかけて石川郡を支配した陸奥石川氏の居城。八幡山の山頂、現在の神社の東側にあったとされます。

 

石川(三芦)城跡

石川城は別名三芦城と呼ばれ、さらに地元では八幡山とも呼ばれている。また、この山は、二つの面を有している。

一つは農業の神を祀る石都々古別神社が鎮座する山で、古来より里人の信仰を集めた、全山に花崗岩の巨石が連なる山である。

もう一つは中世城郭としての山である。伝説によると、石川氏の祖となる源有光が前九年の役(一〇五一~一〇六二年)の功により奥州仙道(中通り)の地を賜り、この山に城を築いたとのことである。歴史的に確かなことは、石都々古別神社の銅製鰐口(福島県重要文化財)の銘文に、石川持光が応永三十年(一四二三)に館の八幡に鰐口を寄進したとあることから、そのころに館をつくり、以前からある神社に源氏の氏神八幡神を合祀したとみられる。石川城の最後の城主は、石川氏二十四代といわれる昭光であるが、天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉による奥羽仕置により領地を没収され、角田(宮城県)に退去したため廃城になった。

標高三四二メートル、比高約五〇メートルの八幡山に築かれた石川城は、北須川が東から西を巡り、西は深い谷、北は湿地に囲まれ、削平した多数の曲輪を配置している。神社のある主郭(本丸)は東西約四〇メートル、南北約八〇メートルあり、西辺には長さ約六〇メートルの土塁がある。さらに東側には堅堀、西館との間には巨大な堀切とにより主郭を守った。西館にも曲輪と空堀を配置し、愛宕山・宮城・鹿ノ坂にも曲輪・土塁を施した。

平安末期以来、石川氏は一族で石川荘(石川郡、東白川・西白河郡の一部を含む)の開拓に従事し戦国時代に至ったが、石川城は一族の惣領にふさわしい壮大な城郭であり、郷土を象徴する史跡である。

 

社頭

 

「陸奥一の宮 石都々古和気神社」「祭祀遺跡の里・自由民権運動発祥の地」

 

社号標

 

鳥居

 

手水鉢

水の表面が凍っていました。

 

境内図

山頂の社殿までは、ゆっくり歩くと10分ほどかかります。

 

狛犬

名工・小林和平による作品で、神社で頂いた案内によれば、飛翔親子獅子と呼ばれているそうです。

左側、吽形の方には子獅子が3頭寄り添っています。いずれも和平の子供で、お腹の下でじゃれ合う2頭は赤ん坊の頃亡くした長男と次男、顔の横の1頭は15歳で亡くした長女にそれぞれ想いを重ねて彫られている…とのこと。狛犬好きの方には有名で、遠方から見にくる方もいるのだとか。平成28年5月に町指定文化財となりました。

 

 

石段

最近新しく作り直されたのでしょう、まだ真っ白です。

 

石段上に鳥居

 

参道

現在は舗装されていますが、割と最近までは未舗装の山道だったようです(参拝は2015年末)。舗装しながらも、元々あったと思われる大きな石を道の真ん中に残しているあたりがいい感じです。

 

参道中ほど

境内図によれば、奥の燈籠のあたりに鳥居があることになっています。何らかの理由で鳥居が除かれ、跡に灯籠を建てたのかもしれません。

 

上の写真あたりから右手の紅葉・桜の小径という名の道を進むと桜見台という場所に

おそらく春には、ここから北須川・今出川の桜並木が見渡せるのでしょう。

磐境

参道には磐境とされる巨岩が点在しています。

 

天狗石

 

亀石

 

屏風岩

 

夫婦石

 

石門(鳥居)

 

神籬岩

 

船形岩

 

勾玉岩

 

勾玉岩の上に立つ天龍桜

社殿

社殿前鳥居

 

拝殿

 

扁額には巴紋

 

本殿

 

本殿後方に剣石

境内社等

多賀神社(左)と諏訪神社(右)

 

多賀神社

祭神 伊邪那岐命 伊邪那美命

この神社は一家和合、家内安全、商売繁昌の神として古くから信仰され(特に?)石川町の吉田姓の守護神として崇敬されてまいりました

以前は神社名にちなんで多賀?(竹や鉄のたが)が崇敬者により奉納されておりました

なおこの社殿は吉田姓の氏子三十四戸の協力により昭和五十三年四月に改築されたものです

 

諏訪神社

御祭神 建御名方命 八坂刀売命 品陀和氣命

創建 治暦三年(一〇六七年)

御神徳 商売繁盛・家内安全 武運長久・病気平癒

三芦城主・石川家筆頭家老であった溝井家の守護神および神社

 

額殿

 

五重の塔

こちらも下の狛犬と同じ小林和平の作品だそうです。

 

御神木の高野槙

ご覧の通り現在は枯れてしまったようで、幹の部分だけが残されています。

 

近くに注連縄の巻かれた木がありました

新しい御神木かもしれません。後方の土が盛り上がっているところは土塁跡?

 

石祠

 

史跡 石川城跡の碑

 

狼煙台跡、見張台跡

境内裏手

車で社殿付近まで来る場合には、境内裏のこんな道を通ります

 

紅葉谷

秋には紅葉がきれいなのでしょうか。

 

鏡岩

由緒

境内由緒板

石都々古和気神社は延喜式内社のひとつに数えられる古社で、古くから山岳信仰の聖地として多くの方々に信仰崇敬されてきた。又、全国的にも数少ない祭祀遺跡(さいしいせき)の跡地として、考古学的にも大変重要な遺跡と言われている。

約一万年位前から信仰されており、多くの磐境(いわさか)が山々に点在し、屏風岩、船形岩、亀石、天狗石、石門(鳥居)、更には三種の神器と言われる剣(剣石)、玉(勾玉岩)、鏡岩等がある。 古代、この地に於いて多くの土着民が集まり、自然崇拝や太占(ふとまに)、探湯(くがたち)等の神事が行われ、一年間の吉凶や物事の神意を占ったとされる。

京都の住人・福田安芸守源有光(ふくだあきのかみみなもとのありみつ)が永承六年(一〇五一)奥州の安倍一族追討の軍に加わり(前九年の役)多大な功績を挙げ、その後、朝廷の命により、八幡太郎源義家の代官となり、この地を賜った。

そして康平六年(一〇六三)この地に移り、名も石川有光となり、更に治暦二年(一〇六六)石川有光の守護神である京都石清水八幡宮の御分霊(大国主命・誉田別命)をいただき、当石都々古和気神社に合祀(ごうし)した。

この日が旧九月十九日であり、この時より、この日を大祭日と定め毎年九月十三日から十九日まで大祭が執り行われ、御神体を納めた神輿が氏子等の手により、山頂神社より、ふもと馬場町御仮屋にお下がりになり、奉納行事や流鏑馬(やぶさめ)が行われていた。石川有光は他の外敵の侵入を防ぐために四方を見渡せる神社神域の一角に自然の山城・石川城を築いた。この地が湿地帯であり、無数の芦(あし)が生え茂っていたことから、後にこの城は三芦城(みよしじょう)と名づけられた。

石川家はその後、天正十八年(一五九〇)、第二十四代といわれる石川昭光が小田原城攻防の際遅参し、豊臣秀吉の怒りをかい、この地を没収されるまで約五二七年間この地を支配したといわれる。石川昭光の退城により、この三芦城は廃城になったが、当時、重職にあったとされる溝井家、丹内家、又、神官の吉田家が住民と共に永く伝統祭事神事を守り続けてきた。現在、この神域は中世の山城としても遺跡に指定され、空堀、狼煙台(のろしだい)、見張台、本丸跡、土塁等がある。

現在は新暦の九月・敬老の日の前日―土曜・日曜の両日に例大祭が行われ、町民は常に歴史と伝統を重んじ、古式床しく、お祭りを守り続け、今日に伝えている。

観光・歴史

当神社は紫陽花(あじさい)と紅葉の名所として有名、その他水仙、ロウバイ、山桜、サンシュユ等の花々

石川町は「いで湯」と「桜」と「遺跡」の町として全国的にも知られ、又、明治初期、東北初の政治結社「石陽社」が設立され、神官・吉田光一を始め、河野広中や多くの自由民権運動家が活躍した町としても有名である。

創祀については不詳ですが、地方の伝承によると飛鳥時代(614~669)に大臣鎌足(藤原鎌足)が味鋤高彦根命を筒子山に祀ったのが始まりとされます(筒子山=八幡山か)。

延暦年中(782~806)に石川氏の祖とされる福田利人が祠を営み祀ったとも。

 

延喜式神名帳にみえる「陸奥国白河郡 石都都古和氣神社」は当社に比定されています。

 

その後、前九年の役で功を挙げた福田安芸守源有光(石川有光)が当地を賜り、康平5年(1062)に八幡山に三芦城を築城します(当社HPより。上記由緒書には康平6年にこの地に移ったとありますがこの1年の違いについては不明。他に社殿造営を天喜年中(1053~58)とする資料も)。

築城中、当社を東約400mにある千勝大明神(現・近津神社)に遷座し、治暦2年(1066)現在地に再遷座、源氏の氏神である石清水八幡宮の御分霊(大国主命・誉田別命)を合祀。

 

明治8年郷社列格。

棚倉町の都々古別神社2社は当初は1つであり、都々古別神社、石都々古和気神社、伊波止和気神社で近津三社とする説もあるそうです。

また、当社は陸奥一の宮を称する神社の1つでもあります。

 

御朱印

御朱印はあります。

2021年4月にオリジナル御朱印帳(ローマ字で社名入り、2色?)が登場したようです。

告知TW:https://twitter.com/10225jinja/status/1386540499285078017

 

※下記の御朱印帳の扱いが現在どうなっているかは不明。

季節毎に限定御朱印帳もあります(デザインは汎用のようですが、御朱印の隣のページにその時期をイメージした絵柄が入っています)。

頒布時期にはFacebookで告知をされているので確認されるとよいかと思います。

 

アクセス

水郡線の磐城石川駅から徒歩約10分。

車の場合、社殿付近に駐車場があります(位置、他にも数台停められる箇所がいくつかあり)。

北側(位置)か西側(位置)から登れますが、道は狭く、上の方は未舗装です。

 

麓に停めたい場合、参道すぐ右手にまちなか駐車場(位置、旧町役場本庁舎跡地の駐車場)があります。

また、徒歩数分の場所にあさひ公園の駐車場(位置)があります。

石川町は県指定天然記念物の高田桜、北須川・今出川の桜並木などがあり、桜谷と称されるほど桜が有名なので、その時期に訪問する際は注意。

白河からもいわきからも時間がかかるため、若干アクセスに難がある場所ではあります。

神社概要

社名石都々古和気神社(いわつつこわけじんじゃ)
通称
旧称石都八幡宮
住所福島県石川郡石川町字下泉150
祭神

味耜高彦根之命

誉田別命

大国主命

社格等

式内社 陸奥国白河郡 石都都古和氣神社

陸奥国一宮

旧郷社

札所等
御朱印あり
御朱印帳あり
駐車場あり
公式Webサイト

http://www13.plala.or.jp/seihuukan(※休止中)

https://www.facebook.com/iwatutuko/(公式FB)

https://twitter.com/10225jinja(公式TW)

備考

参考文献

  • 「石都々古和気神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
  • 「石都々古和気神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
  • 式内社研究会編『式内社調査報告 第十四巻 東山道3』皇學館大学出版部, 1987
  • 明治神社誌料編纂所編『府県郷社明治神社誌料 中巻』明治神社誌料編纂所, 1912(国会図書館デジタルコレクション 440-441コマ