阿邪訶根神社(郡山市大町)

阿邪訶根神社。

郡山駅の北西500mほどに鎮座。郡山の総産土神とされる神社。

難しい社名ですが、「あさかね」と読みます。

境内

東参道鳥居

 

社号標

 

西参道鳥居。東日本大震災により倒壊。柱の下の方に几号水準点の「不」印が刻まれているそうです。

由緒書によれば以下の通り。

由緒書

江戸時代・文政11年(1828年)「御霊宮」の鳥居を奥州街道沿いの表参道に建立、明治9年(1867年)内務省が東京・塩釜間の水準測量(高低測量)を実施、鳥居柱の下部に几号水準点の印「不」が刻まれたもの、昭和5年(1930年)5月 西口に移設

 

西参道鳥居の基礎

 

狛犬

 

石造浮彫阿弥陀三尊塔婆(市指定重要文化財)

 

案内板

高さが91cm、幅62cm、厚さ16cmのこの塔婆は、俗に「福原石」と呼ばれ親しまれています。

材質は安山岩質凝灰岩です。

図柄は福島県に多く見られる表現方式で、左右に配された観音菩薩と勢至(せいし)菩薩が、中央の阿弥陀如来に向かって膝をかがめて供養しているような形をとっています。また、観音菩薩は極楽浄土に生まれ変わる者を取り上げるための蓮台を持っています。

三尊像は一部剥離している部分がありますが、周りの縁との厚さは等しく、東北地方にみられる一般的な塔婆に比べ少し薄手のようです。

塔婆の縁は厨子(三尊を安置する容器)の形を表現していると思われ、三尊像の背後には光背(こうはい)や飛雲(ひうん)は見あたりません。

制作年は不明ですが、鎌倉時代末期の作と思われます。

 

法華曼荼羅供養塔(県指定重要文化財)

 

案内板

源頼義、義家が奥羽平定をしたあとの治暦3年(1067年)に建立したとも、奥羽平定後、敵、味方の戦死者の霊をとむらうために建てられたともいわれている。

供養塔は高さ2.43メートル厚さ30センチ、碑の表は風化が進んでいるが、仏の姿を表す梵字(ぼんじ)などを配置した曼荼羅が刻まれている。

 

御神木

 

社名改称百年祭記念碑

 

参道の桜

境内西側道路沿いには石像や石祠が集められていました

社殿

拝殿

 

扁額。「総産土」

 

本殿覆屋

境内社等

西参道入り口の笠間稲荷神社

 

境内西道路沿いに並ぶ石碑

由緒

境内由緒書

猿田毘古命

・平安時代・康平年間(1060年頃)伊勢の国・阿邪訶より御分霊を迎え奉祀、はじめは道祖神社と申し上げ、事始めの神、教導の神として祀る

平忠通公

・平安時代・寛治3年(1089年)9月19日 源義家公の副将として前九年・後三年の役に出征された平忠通公が亡くなられると、その霊を道祖神社に合祀して社名を御霊宮に改称(境内「總産土 忠通神社碑」)

・明治2年(1869年)4月 社名を忠通神社に改称

・明治22年(1889年)3月 社名を阿邪訶根神社に改称し現在に至る(旧社格・郷社)

康平年中(1058-64)に伊勢国阿邪訶より猿田毘古命の御分霊を迎え奉り、道祖神社として創建。

(阿邪訶は伊勢国一志郡の式内名神大社、阿射加神社のこと?)

寛治3年(1089)、源義家公の副将として前九年後三年の役に出征した平忠通公が亡くなるとその霊を道祖神に合祀。

御両宮(御霊宮)と改称。

寛永20年(1643)、丹羽光重公二本松城主になって後、特に第4代秀廷公以来代々当社の崇敬が篤く、石灯籠、幕等の奉納がありました。

寛政年間(1789-1801)神祇管領長上卜部朝臣より正一位御霊大明神の神号を允可されます。

明治2年(1869)に忠通神社に、その後明治22年(1889)には阿邪訶根神社に社名を改称し、現在に至ります。

御朱印

御朱印はあります。

社務所で拝受可。

「總産土阿邪訶根神社」と一行に収めるスタイル。12cm×18cmの大判の御朱印帳にお願いしたのですが、正解だったなと思います。長い社名を書く神職さんも大変だなあ…という印象を受けた御朱印でした。

アクセス

郡山駅から徒歩10分ほど。

駐車場の有無は不明。西参道から車を乗り入れることはでき、境内にも車は停まっていましたが、参拝者用か契約者用か未確認。

この辺が西参道入口

神社概要

社名阿邪訶根神社(あさかねじんじゃ)
旧称

道祖神社

御両宮(御霊宮)

忠通神社

住所福島県郡山市大町2-14-1
祭神

猿田毘古命

平忠道公霊

宇迦之御魂命

社格等旧郷社
御朱印あり
駐車場あり(?)

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