都々古別神社(棚倉町大字八槻字大宮)

都々古別神社。

近津駅の南700mほどの場所に鎮座。

式内名神大社 都都古和氣神社及び陸奥一宮の論社で、戦前は国幣中社、現在は神社本庁の別表神社。

近隣の馬場にある都々古別神社と区別するため、八槻都々古別神社とも呼ばれます。

境内

社頭

 

鳥居

 

社号標

 

狛犬

 

手水舎

 

 

随神門

 

奥州一宮の扁額

社殿

拝殿。年末だったせいか、拝殿前にテントが置かれていました。

 

扁額

 

本殿

 

拝殿と本殿

 

神饌所?

境内社

社殿右手奥に境内社が並びます。

 

皇朝工祖神社。祭神は聖徳太子。

 

熊野神社

 

金毘羅神社もしくは北野神社。本来ここに2社あるはずなのですが、1社しかありませんでした。社が比較的新しかったので、2社を合祀した新しい社なのかもしれません。

境内社について、見かけた限りでは以下の2つの情報がありました。

  1. 境内案内図では皇朝工祖神社、熊野神社、金毘羅神社、北野神社。
  2. Wikipediaでは皇朝工祖神社、稲荷神社、寅卯神社。

上記写真には境内案内図の情報に基づいて社名付記しましたが、3つしか社がないため、Wikipedia情報の方が正しいのかもしれません。

 

境内社群のそばに並ぶ燈籠。奥は川です。

 

木の根元に小さな祠

 

縁結び長寿之神

由緒

由緒板

当都々古別神社は延喜式神名帳(延喜年間に書かれた書物)に登載されて居り陸奥国白川郡唯一の名神大社であり奥州一宮であります。

御祭神味耜高彦根命は御父君大国主命の偉業を助けて東北の荒地を開拓農業の道を教え蕃殖せしめました。民衆は恩恵を受けましたので命の徳を尊崇、農業の神として崇め祭祀したのであります。

日本武尊を配祀したのは討伐の時八溝の夷賊を討ち民がその尊の徳に尊崇したのであります。

慶長2年(1597)の陸奥国一宮近津大明神縁起によれば、日本武尊が八溝山の東夷を討った時、尊を守護して示現した三神(面足尊、惶根尊、事勝國勝長狭命)が鉾立山(建鉾山)に隠れたため、尊は東方に向け箭を放ち、その箭が着いた箭津幾(やつき)に都々古和気神社を創建したといいます。

矢を放ったのを三神とする説も。

 

『陸奥国風土記』逸文には「日本武尊が槻弓と槻矢によってこの地の土蜘蛛8人を退治したとき、その八本の矢がすべて芽を吹いたので八槻郷と呼んだ」とあります。

 

続日本後紀 承和8年(841)正月癸巳(22日)条に「奉授坐陸奥国白河郡勳十等都都古和氣神従五位下」とみえる都都古和氣神、ならびに延喜式神名帳にみえる「陸奥国白河郡 都都古和氣神社 名神大」を当社にあてる説があります。

なお承和8年(841)3月癸巳(22日)条に「奉授陸奥国勲十等都都古和氣神従五位下」とありますが、上記の同年正月と表記が全く同じ。単に誤記や重複なのか、別の都都古和氣神を指すのかは不明。

 

馬場社を上宮、当社を中宮、大子町下野宮の近津神社を下宮とし、「近津三社」と総称されました。

近津三社がいずれも弘仁2年(811)に新しく開かれた官道(のちの水戸街道)沿いに鎮座することから創建を弘仁2年以降とする説もあります。

 

後に源義家が社号を近津大明神と改め、社殿を建立したとも。

中世には神仏混淆して山岳信仰を取入れ、修験化していたようです。

 

明治の近代社格制度では郷社に列しますが、式内社として国幣中社に列した馬場都々古別神社と式内社の座を巡って論争となり、明治18年には両社並立措置により国幣中社に列格。

戦後は神社本庁の別表神社となっています。

 

社名については、「ツトコ分け/ツツコ分け」という籾を入れた藁苞(わらつと)を供える風習に由来するという説や長野県の諏訪地方に分布する「千鹿頭(ちかと)」神に由来するという説などがあります。

 

御朱印

御朱印はあります。

社務所で拝受可。

アクセス

国道118号と289号の交点を南へ。300mほど先に左に入る道があるので、そこを入るとすぐ神社です。

 

神社入口。鳥居の手前に駐車スペースあり。

神社概要

社名都々古別神社(つつこわけじんじゃ)
旧称

八槻近津

近津大明神

千勝大明神

住所福島県東白川郡棚倉町大字八槻字大宮224
祭神味耜高彦根命
配祀日本武尊
社格等

式内社 陸奥国白河郡 都都古和氣神社 名神大

続日本後紀 承和八年正月癸巳(廿二) 都都古和氣神 従五位下

続日本後紀 承和八年三月癸巳(廿二) 都都古和氣神 従五位下

陸奥国一宮

旧国幣中社

別表神社

御朱印あり
駐車場あり

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