押雄神社。
常磐線原ノ町駅の北北西約3km、北新田字諏訪に鎮座。
式内社 押雄神社に比定される神社。
境内
社頭
鳥居と小さな石橋
社号標
見えづらいですが、「延喜式内 村社 押雄神社」とあります。
石橋と石段
狛犬
社殿
拝殿
扁額
龍の彫刻
木鼻
本殿
石碑
本殿左手に6基の石碑あり
右端は上の方が欠けていますが「太神宮」と書かれています。
右から2番目は字がほとんど消えて読めず。『式内社調査報告』には庚申碑と思われるとあります。
右から3、4番目は庚申碑。
右から5番目は金華山碑。
左端は中央に「妙見神」、右に「八幡神」、右に「粟島神」と彫られた碑。
『式内社調査報告』では中央を「妙光」、右を「幡」としていますが写真拡大して見ると上記のように読めます。
あと同書では末尾に社をつけ「粟島神社」というようにしていますが拡大しても社の字は見えないです。時が経ち消えたのか誤記か。
由緒
創建時期不詳。
延喜式神名帳にみえる「陸奥国行方郡 押雄神社」に比定されていますが、それ以外の記録には名が見えず、文化年間の行方8社調査以前の様子は一切不明。
文化12年(1815)相馬益胤の命で式内行方8社を調査した渡辺美綱は、「押雄神社は戦国の世に頽廃せるが、僅かに叢祠が戸鳥土に存し祠官もいない。村民密かにこれを三九郎なる者の屋敷に遷し崇信してきたが、三九郎の子孫もまた絶えた」と報告。(カッコ内は『式内社調査報告』より引用)
この報告により、神社維持のために田1石が貸与されたといいます。
この頃は戸鳥土(現原町区押釜字戸鳥土)に鎮座していたそうで、その場所は高座神社の500mほど北、現在も碑が残っています。
現在地の遷座の経緯としては、まず文化12年(1815)に押雄神社を兼務した諏訪神社の祠官が、押雄神社を諏訪神社に勧請。この際、戸鳥土にも祠が建立されたようです(約65cm四方の祠+覆屋)。
その後、戸鳥土の祠は倒壊あるいは焼失してしまったようで、明治3年に押雄神社は正式に現在地に遷座。
旧社格は村社。
現在当社名は押雄神社となっているため、元から当地に鎮座していた諏訪神社は主たる地位を取られてしまったことになり、少しかわいそうな気もします。本殿には諏訪大神の札も納められているとのことですが。
他に火産霊大神、雷大神、若木大神、御田大神、山津見大神の札も納められているといいます。
現祭神は天之押雲根命。
『式内社調査報告』によれば、旧社地の戸鳥土は阿武隈山地から流れ出た水無川が、原町市を形成する新田川の沖積平野へ流れ出る地点であり、治水に関連のある祭祀という考察をしています(天押雲根命は天津水を高天原から葦原中国にもたらしたとされる)。
『奥相志』は天忍穂耳尊、『神名帳考証』は天忍男神を挙げています。
御朱印
御朱印の有無は不明。
ネット上では、本務は相馬太田神社(位置)で、御朱印はなしという情報が見受けられました。
アクセス
原ノ町駅の東、道の駅南相馬から北上して、下高平北交差点(位置)で左折。
2kmほど先の突き当りを左折し、次の交差点(位置)を右折。
そこから400mほど行ったところ(位置)で右折、突き当りを左折。その後直進で神社前。
駐車場はありません。
神社概要
社名 | 押雄神社(おしおじんじゃ) | |
---|---|---|
通称 | – | |
旧称 | 白山宮 | |
住所 | 福島県南相馬市原町区北新田字諏訪137 | |
祭神 | 天之押雲根命 | 現祭神 『神社明細帳』 『原町市史』 |
天忍穂耳尊 | 『奥相志』 | |
天忍男神 | 『神名帳考証』 | |
社格等 | 式内社 陸奥国行方郡 押雄神社 旧村社 | |
札所等 | – | |
御朱印 | 不明(なし?) | |
御朱印帳 | – | |
駐車場 | なし | |
公式Webサイト | – | |
備考 | かつては戸鳥土(現原町区押釜字戸鳥土)に鎮座 |
参考文献
- 「北新田村」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 「押雄神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
- 式内社研究会編『式内社調査報告 第十四巻 東山道3』皇學館大学出版部, 1987