由良湊神社。
洲本市由良に鎮座。
式内社 由良湊神社に比定される神社。
境内
鳥居
神門
社号標
手水舎
狛犬
裏参道鳥居
社殿
拝殿
本殿
境内社等
戎神社
境内の巨木
御神木?
境内左手の道を登っていくと金刀比羅神社と稲荷神社(と思われる社)等があります。金刀比羅神社は由良湊神社の兼務社で独立した神社のようです。稲荷神社は金刀比羅神社の境内社でしょうか。
石祠
稲荷神社の鳥居
お狐さん
稲荷神社
社殿前のお狐さん
祠とコンクリートの台
御旅所?
石段上に金刀比羅神社
金刀比羅神社社殿
金刀比羅神社脇の境内社
石祠
石祠前の狛犬
由緒
由良湊神社
御祭神
速秋津日古神 はやあきつひこのかみ
速秋津比売神 はやあきつひめのかみ
伊邪那岐命が黄泉の国より帰還し御禊の際に成りました神々で水戸を治め祓除を掌り給う祓戸大神である
品陀別尊 ほむたわけのみこと
第十五代応神天皇の御神霊でありその御徳は国家泰安・武運長久である
御由緒
ここ由良の地は古来紀州から紀淡海峡を渡り淡路上陸の第一歩を印した要所である
延喜の制では由良駅が置かれ馬五匹が配されていたという
湊神社の創立年代は不詳であるが延喜式内神社津名郡九座の中の小社でありその歴史は古い おそらく由良水門の鎮護として当地域の住民によって祀られたものと思われる 往時は二月四日に新年祭を行い国司以下祭典に列し国幣を奉ったという
中世の状況は僅かに平安後期の文集である朝野群載に記述があるのみで詳らかではないが八幡宮の信仰が全国的に盛んになるにつれ当地でも八幡宮が祀られたと考えられる
慶長年間(一五九六-一六一四)に池田忠長(後の忠雄)が成山に城を築き淡路国を領するに及び現小学校地に在った八幡宮を再興して氏神と定め由良湊神社を境外摂社とした
次いで阿波・淡路両国の領主蜂須賀氏も成山城に在ったが寛永年間(一六三一)所謂由良引けを断行して国府を洲本に移し万治元年(一六五八)に藩邸を築くため八幡宮を湊社の境内に移し社殿を造営した
明治三年十一月三日両社を合併して延喜式の社名「由良湊神社」とし現在に及んでいる 明治五年郷社に列格
祭礼
二月 例大祭(春祭 通称 ねり子祭)
七月 夏越祭
九月 秋季大祭
三月・十月 岬祭(五ヶ所祭)
創建時期は不詳。
延喜式神名帳にみえる「淡路国津名郡 由良湊神社」は当社に比定されます。
ただこの式内社の来歴には諸説があります。
- 当地の産土神と伝わる王子権現社を以って由良湊神社とする説
- 八幡宮の末社で、中古廃絶したとされる天神社=1.の王子権現社=式内由良湊神社とする説
- 2.の天神社を式内由良湊神社とする(≠王子権現社)説
1.は当地区内旧内田村庄屋であった渡辺月石の著『堅磐草』にある説で、こちらが通説(代々の庄屋として神社の実情に最も通じていたと考えられるため)。なお康永4年(1345)に由良荘が新熊野社領となったため、由良湊神社が王子権現社と称されるようになり、終には権現社名のみが慣用されるに至ったのではないか、という仮説を『式内社調査報告』は挙げています。
2.は『淡路常磐草』が唱える説。「按に由良に八幡神宮あり社説に曰末社に東御前西御前荒神天神社伊勢太神宮とて五社ありその天神社太神宮二柱は中頃絶たり」「八幡宮の摂社に王子権現社あり八幡宮勧請の後王子の社は古よりの産土神なりとて八幡宮の摂社に加へたりと伝ふ此王子社則ち湊神社なるべしと此説尤もなり 安雄思ふに所謂天神社は菅神にはあらず旧よりの天ツ神なるを後世王子権現と称し来たる成るべし天神の社廃絶せしにはあるべからず必ず湊神社の旧地なるべし」。『特選神名牒』もこれを引用。要は中古廃絶したとされる天神社(=由良湊神社)は実際は絶えておらず、王子権現となって存続していたというもの。王子権現社=由良湊神社ということは実質1説と同じような気もしますが…
3.は不明。『式内社調査報告』は「中途絶えたりと云はれる八幡宮の末社天神社を当てる説があり、又、天神社即ち王子権現社即ち由良湊神社とする異説がある」と、天神社≠王子権現社とする説があるように書いているのですが、王子権現社のことを絡めず天神社に触れる資料が見当たらず。強いて言えば『淡州神社考』に「鳴山明神は湊神社なるべし(中略)古へ在りと云天神社と称し湊神社にも有らん」とあるくらい。『式内社調査報告』は祭神項に「『淡州神社考』は鳴山明神と推定」と記していますが、その鳴山明神を祀っていた神社がどこなのか(王子権現社か、八幡宮か、あるいはどちらでもないのか)の記載はありません。
延喜式以降については、『朝野群載』に僅かに見えるのを最後に由良湊神社の社名は歴史から消えます。
なお『淡路通記』に「舊在濱上」とあり、事実であれば鎮座地が移動したことになります。ただ濱上がどこを指すかは不明、かつ遷座の時期も不明(延喜式以前の話かもしれない)。もしかしてかつては陸続きだったという成ヶ島だったりするのでしょうか。
慶長18年(1613)池田忠雄が成山城(由良城)築城の際、八幡宮を修復、あわせて王子権現も修復し八幡宮の摂社としたと伝えられます。
八幡宮の創建は不詳ですが、由良の北なる磯の上に流れ着いた御神体を祀ったのが始まりとされています。
万治元年(1658)に蜂須賀光隆が八幡宮社地に藩邸を造営するため、八幡宮を由良湊神社の境内に遷座。
なお慶長の再興に関して、上掲境内由緒碑では由良湊神社(王子権現社)を境外摂社とした、としますが、『兵庫県神社誌』は「在来の本社を以て境内摂社となし」としています。同書はその後の万治の遷座に関して「八幡神社を由良湊神社の地に遷して同社を境内摂社となせり」としていますが、それだと境内摂社の地に遷座ということになるので、境外摂社であったという由緒碑の方が正しいように思われます(ただ由良小学校は神社のすぐ南にあるので、かつてはその辺りまで境内であったのが藩邸建設に伴い境内を削られたのかも。であれば神社誌の記載も矛盾しない)。
明治3年、由良湊神社を八幡神社本殿に合祀。
明治5年(6年とも)、郷社列格。
御朱印
御朱印はあります。
要事前連絡。
オリジナル御朱印帳もあります。
アクセス
洲本市市街地から県道76号を海沿いに南下。
由良大橋を渡った先(位置)で右折すると、突き当り右手に神社。
駐車場はないのですが、事前に連絡を入れておけば鳥居左手(心蓮寺側)の車止めをどけておいて頂けるので、境内に駐車可能です。周辺は住宅地で道も狭いので、事前連絡をおすすめします。
神社概要
社名 | 由良湊神社(ゆらみなとじんじゃ) | |
---|---|---|
通称 | – | |
旧称 | 王子権現社 | |
住所 | 兵庫県洲本市由良3-5-2 | |
祭神 | 速秋津日古神 速秋津比売神 品陀別尊 | 現祭神 |
海童神 | 『神名帳考証』 | |
鳴山明神 | 『淡州神社考』 | |
王子権現 | 『淡路草』 | |
社格等 | 式内社 淡路国津名郡 由良湊神社 旧郷社 | |
札所等 | – | |
御朱印 | あり(要事前連絡) | |
御朱印帳 | あり | |
駐車場 | あり(要事前連絡) | |
公式Webサイト | http://yuraminato.html.xdomain.jp/ | |
備考 | – |
参考文献
- 「由良湊神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 「由良湊神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
- 式内社研究会編『式内社調査報告 第二十三巻 南海道』皇學館大学出版部, 1987
- 明治神社誌料編纂所編『府県郷社明治神社誌料 上巻』明治神社誌料編纂所, 1912(国会図書館デジタルコレクション 392コマ)