伊弉諾神宮(淡路市多賀)

伊弉諾神宮。

淡路市多賀、伊弉諾大神の幽宮跡とされる地に鎮座する神社。

式内名神大社 淡路伊佐奈伎神社に比定され、淡路国一宮。

戦前は官幣大社、現在は神社本庁の別表神社。

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境内

大鳥居

 

社号標

 

日本遺産 國生みの島・淡路の碑

 

狛犬

 

参道

 

二の鳥居

 

神池に掛かる橋

 

手水舎

 

正門

 

正門の扁額

 

正門内側から

 

東参道の鳥居

 

東参道の社号標

 

東門

 

西参道鳥居

 

西参道社号標

 

西参道狛犬

 

西門

社殿

拝殿

 

扁額

 

狛犬

普段は拝殿前の台座(拝殿写真の白い布が掛けられている所)にいるのですが、この日は拝殿の縁側の端に乗せられていました。淡路伝統芸能祭なるイベントの日で、設備の搬入等していたのでぶつからないようになのかもしれません。

 

中門・幣殿

奥に見える本殿と繋がっています。

 

本殿

 

元は本殿はもう少し手前にあり、この辺りには神陵と伝えられる円墳があって禁足地でした。

明治15年に拝殿改築にあたり本殿を後退させ、円墳の上に遷したそうです。

本殿前方の階段の下に、墳丘上にあった自然石が保存されています。

境内社等

左右神社

修理工事中でした。

 

鹿島神社・住吉神社

 

根神社・竈神社

 

祓殿

 

神輿庫

 

頭髪感謝碑

 

頭髪感謝之碑

「髪」は「カミ」と訓じ、神や上に通ずる語意です。我國では大古から頭髪を生命存在の象徴として霊魂の宿るものと神聖化してきた。「カミ」とは神聖・天皇・朝廷・年長・初元・過去・高所・上座などを表現する語でもあり尊いものを意味する言葉である。茲に髪に宿る生命の尊さを傳へてきた日本特有の精神文化を繼承し、生命誕生を司る大祖神を祀る最古の神域に日々頭髪に關はる職域である理容美容を中心とする業界の繁栄と平安を祈念する碑を建立し頭髪感謝の赤誠を捧げる

 

夫婦大楠

 

夫婦大楠

伊弉諾神宮の御祭神は伊弉諾大神伊弉冉大神で夫婦の正道の掟てを定められた皇祖の大神様です。

元は二本の「楠」がいつしか根を合わせて一株に成長したもので、御神霊が宿り給う御神木と信仰されており、淡路の古地誌にも「連理の楠」と記されています。

岩楠神社には蛭子大神を祀り、夫婦円満、良縁良結、子授け、子育ての霊験あらたかと崇敬されています。

 

県指定文化財 伊弉諾神宮の夫婦クス

指定年月日 昭和48年3月9日

所有者・管理者 伊弉諾神宮

根廻り12.40メートル、目通り、幹囲8.00メートル、幹は地上2.25メートルで二つの支幹に分かれ、それぞれの幹囲は、5.35メートルと3.75メートルである。一方の支幹の地上7メートルの部分と他方の支幹の地上6メートルの部分で再び分岐している。樹高約30メートル、枝張りは南へ16メートル、北へ約12メートルある。樹形は一部茎葉の枯損によって、外観上劣るが、樹勢は全体としてまだ旺盛である。樹令は約900年といわれている。

クスノキは兵庫県の県樹であり、県指定の伊丹市法巌寺、西宮市海清寺および川西市小戸神社などの大クスとともに貴重な文化財として保存されている。

 

夫婦大楠前、岩楠神社の鳥居

 

岩楠神社

 

淡路祖霊社鳥居

 

淡路祖霊社

 

淡路祖霊社社号標

 

淡路祖霊社(明治九年創祀)

淡路國出身の先賢と兵庫縣神戸護国神社に祀られる淡路出身の英靈及び、伊弉諾神宮の歴代祀職を祀る。

 

遺品館

 

伊勢皇大神宮遙拝所鳥居

 

伊勢皇大神宮遥拝所標

当社と伊勢の神宮はどちらも北緯34度27分に位置します。

 

伊勢皇大神宮遥拝所

 

放生の神池

 

延壽宮

 

神池に掛かる橋

 

明日庵(茶室)

 

陽の道しるべ

 

ひのわかみやと陽の道しるべ

伊弉諾神宮の神域は 日本書紀に「伊弉諾尊功既畢靈運當遷是以構幽宮於淡路之洲寂然長陰者」 古事記伊勢本に「故其伊邪那岐大御神淡路之多賀也」と記される神跡で伊弉諾大神が御神功を果され 淡路の多賀に幽宮を構築して餘生を過ごされた故地であり 北緯三十四度二十七分二十三秒の緯度上にある

當神宮の創祀は神代に遡り伊弉諾尊の宮居跡に營まれた神陵を起源とする最古の神社である また日本書紀に「仍留宅於日之少宮矣少宮此云倭柯美野」の記述があり これは伊弉諾尊の太陽神としての神格を稱へ 御子神である天照皇大御神の差昇る朝日の神格と対比する日之少宮として 御父神の入り日(夕日)の神格を表現してゐる 因に全國神社の本宗と仰ぐ伊勢の神宮(皇大神宮)はこの神域の同緯度上に鎭座し 更にその兩宮を結んだ中間點に最古の都「飛鳥宮藤原京」が營都されてゐるのである

専門家の協力を得て當地からの太陽軌道の極致にあたる方位を計測すると 夏至・冬至・春秋仲日の日出と日歿の地に神縁の深い神々が鎭座してゐることを次の通りに確認することができた 緯度線より北への角度二十九度三十分にあたる夏至の日出は信州の諏訪湖(諏訪大社)日歿は出雲大社日御神社への線上となる 春分秋分は伊勢の神宮から昇り海神社(對馬國)に沈む 南への角度二十八度三十分にあたる冬至の日の出は熊野那智大社(那智の大瀧)日歿は天孫降臨傳承の高千穂峰(高千穂神社・天岩戸神社)となるのである

これらは國生み傳承の淡路島が 神々の坐します大八州國の中核の島で 祇に天と地を結ぶ能きが 太古から脈々と生き續けてゐる「神の島」だといふことを物語ってゐるのではないだらうか 神代から受繼ぐ千古の歴史の尊さや 太古の浪慢と祖先の叡智とをこの「陽の道しるべ」で實感していただければ幸いである

 

伊弉諾神宮を中心とした太陽の運行圖

境外社等

境内西側の県道88号を社頭から北に400mほど行くと、三角地に柳之御井社があります

 

鳥居

 

ミニ狛犬

 

柳之御井社

 

柳之御井

 

 

参道正面の坂を登っていくと左手に御齋田

 

この他、淡路市役所一宮事務所の南(淡路市郡家169)に摂社の濱神社、社頭から県道を1kmほど北にいったところ(淡路市多賀1137)に末社の櫛笥神社があります。

由緒

由緒板

伊弉諾神宮

御祭神伊弉諾大神 伊弉冉大神
御社格延喜の制名神大社 淡路國一ノ宮 元官幣大社
御由緒古事記には故其伊邪那岐大神は淡路の多賀になも坐すなり日本書紀に伊弉諾尊中略是を以て幽宮(かくりのみや)を淡路の洲につくり静かに長く隠りましきとあり淡路の島は二柱の大神が一番初めに御開拓になった地であり此の多賀は伊弉諾大神が國土経営の神業を了えられた後お鎮まり遊ばされた御終焉の地で大神の御陵がそのまゝ神社として祀られるようになった我が國最古の神社である
御神徳 
延寿の神伊弉諾大神が夜見ノ國の境にお出向かれた時「我は一日に千五百の産屋を建てむ」と仰せられたことにより古来命を司どられる大神として寿命乞の信仰が厚い
縁結びの神御祭神二柱の大神が國土御経営のため天降られ淡路の島でお建てになった宮殿のお柱を巡り始めて御夫婦の契りを結ばれ多くの御子神をお生みになった故事にあやかる縁結びの神としての崇敬が深い
御祭典 
例大祭四月二十二日摂社浜之宮に神輿渡御の神幸式齋行
粥占祭一月十五日前夕より古式による徹宵の神事奉仕

 

国生み伝承

現存する最古の歴史書「古事記」や「日本書紀」の冒頭に記される神代七代の最後に登場するイザナギ命とイザナミ命の男女二柱の神が、「於能碁呂島」に天降って夫婦神となり、淡道之穂之狭別嶋(淡路島)を初めに四国・隠岐・九州・壱岐・対馬・佐渡・大倭豊秋津嶋(本州)の「大八嶋国」という国土を生みました。次いで、祖先神となる三十五柱の神々が誕生します。

国産みの大業から始まる神功を果されたイザナギの大神は、神権をアマテラス大御神に譲り、最初に生んだ淡路島の多賀の神域に「幽宮」を構えて余生を過ごされました。宮居跡の神陵が「伊弉諾神宮」創祀の起源だと伝えています。

創建時期は不詳。

古事記に「故其伊耶那岐大神者坐淡海之多賀也」、日本書紀に「是後伊弉諾尊神功既畢霊運当遷是以構幽宮於淡路之洲寂然長隠者矣亦曰伊弉諾尊功既至矣徳文大矣於是登天報命仍留宅於日之少宮矣少宮此云倭柯美野」とあり、神功を終えた伊弉諾尊が淡路に幽宮を建て鎮まったとされており、この幽宮が当社の起源とされます(古事記真福寺本の「淡海之多賀」の記述からこれを多賀大社とする説もあるが、伊勢本等では「淡路之多賀」としており、当社とみる説が有力)。

 

日本書紀 履中天皇5年9月壬寅(18日)条に「天皇狩于淡路嶋是日河內飼部等從駕執轡先是飼部之黥皆未差時居嶋伊奘諾神託祝曰不堪血臭矣因以卜之兆云惡飼部等黥之氣故自是以後頓絶以不黥飼部而止之」とあり、この伊奘諾神は当社に比定されます。

〔要約:天皇が淡路で狩りをした際、従っていた河内飼部らが黥(いれずみ)をしたばかりで血生臭く、伊奘諾神がこれを嫌っていると卜占に出たため、以後黥を禁止をした。〕

 

同じく日本書紀 允恭天皇14年9月甲子(12日)条に「天皇獵于淡路嶋時麋鹿猨猪莫々紛々盈于山谷焱起蠅散然終日以下獲一獸於是獵止以更卜矣嶋神祟之曰不得獸者是我之心也赤石海底有眞珠其珠祠於我則悉當得獸爰更集處々之白水郎以令探赤石海底海深不能至底唯有一海人曰男狹磯是阿波國長邑之海人也勝於諸白水郎也是腰繋繩入海底差須臾之出曰於海底有大蝮其處光也諸人皆曰嶋神所請之珠殆有是蝮腹乎亦入而探之爰男狹磯抱大蝮而泛出之乃息絶以死浪上既而下繩測海深六十尋則割蝮實眞珠有腹中其大如桃子乃祠嶋神而獵之多獲獸也唯悲男狹磯入海死之則作墓厚葬其墓猶今存之」とあり、この嶋神も当社に比定されます。

〔要約:天皇は淡路島で猟をしたが何も獲れず、占ったところ、「赤石(明石)の海底の真珠を私に祭れば獣が獲れる」と嶋神のお告げ。海は深く誰も取れずにいたところ、阿波国の男狭磯という海人が海底から光るアワビを獲ってくるものの死亡。アワビの中には真珠があり、嶋神に祀ると獣が獲れましたが、天皇は男狭磯が死んだことを悲しみ墓を作り厚く葬った。〕

 

三代実録 貞観元年(859)正月27日甲申条に「奉授淡路国无品勳八等伊佐奈岐命一品」とあり、無品から極位の一品に昇叙。

延喜式神名帳では「淡路国津名郡 淡路伊佐奈伎神社 名神大」として名神大社に列しています。

伊弉諾尊は元は淡路の海人の奉じる一地方神であり、7世紀中葉以降に大嘗祭の卯の日の神事に召されていた淡路出身者や、宮廷に食料を運んでいた淡路の海人から中央に伝わったとする説があります。貞観元年に無品から一品に進んだのは、この頃に皇祖神の最近親者であるという系譜が公に採用されたからとも。

 

平安末~鎌倉時代の文書に一宮の記述が見え、また神宮寺があったことも記されています。

 

当社神境には社家六坊、付近に寺家六坊があり、明治初年まで両部により祭祀が行われていましたが、弘治元年(1555)以降は寺家六坊筆頭の妙京寺が中心となっていたようです。

しかし宝暦年間(1751~64)に唯一騒動という紛争が発生しています(阿波国主が神主だけで祈祷を勤めるよう命じたことに端を発する両部の争いらしい)。

 

明治4年国幣中社に列格。同18年には官幣大社に昇格。

昭和29年伊弉諾神宮に改称(それまでは伊弉諾神社)。

御朱印

御朱印はあります。

社務所で拝受可。

オリジナル御朱印帳もあります。

 

アクセス

津名一宮ICを五色・郡家方面(右手)に降り(IC出口に伊弉諾神宮の案内も出ています)、県道88号を北西方向に3km強行くと神社。

参道右手の道を入ったところに駐車場あり(位置)。

あるいは参道前から県道を200mほど北西に行ったところ(西参道入口よりちょっと先)にも駐車場あり(位置)。

神社概要

社名伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)
通称

いっくさん

日之少宮

津名明神

多賀明神

淡路島神

一宮皇大神

旧称伊弉諾神社
住所兵庫県淡路市多賀740
祭神

伊弉諾大神

伊弉冉大神

社格等

式内社 淡路国津名郡 淡路伊佐奈伎神社 名神大

日本書紀 履中天皇五年九月壬寅(十八) 伊奘諾神

日本書紀 允恭天皇十四年九月甲子(十二) 島神

日本三代実録 貞観元年正月廿七日甲申 伊佐奈岐命 一品

淡路国一宮

旧官幣大社

別表神社

札所等
御朱印あり
御朱印帳あり
駐車場あり
公式Webサイトhttps://izanagi-jingu.jp/
備考

参考文献

  • 「伊弉諾神宮」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
  • 「伊弉諾神宮」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
  • 式内社研究会編『式内社調査報告 第二十三巻 南海道』皇學館大学出版部, 1987
  • 谷川健一編『日本の神々 神社と聖地 第三巻 摂津・河内・和泉・淡路』白水社, 1984