湯神社(松山市道後湯之町)

湯神社。

松山市道後湯之町、道後温泉本館の南に鎮座。

式内社 出雲崗神社および湯神社に比定される神社。

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境内

社頭

 

注連柱

 

社号標

 

石段

 

手水舎

 

北側参道の鳥居

 

鳥居手前の手水舎

 

社号標

社殿

拝殿

 

扁額

 

本殿

 

本殿両脇に祠(屋根しか見えませんが)

本殿両脇には三穂社と八幡若宮社があるということなのですが、どちらがどちらかは不明。

境内社

中嶋神社

 

扁額

 

中嶋神社本殿

 

由緒石碑

中嶋神社

御祭神 田道間守命

創立 当神社は四国四県の製菓業者に依って建設奉賛会を組織し、昭和三十二年三月但馬国出石郡神美村三宅なる延喜式内社中嶋神社の御分神を迎え、菓祖中嶋神社四国分社として創祀せり

神徳 田道間守命は往古但馬国出石郡安美郷三宅に在り付近の開拓或は農蚕の業を奨励し給いしが人皇十一代垂仁天皇の時勅命にて非時香菓(今の橘)を求むべく当世国に到り十年の歳月を費し香菓を携えて還り給いしに垂仁天皇既に崩し給い悲嘆の極陵前に号哭して復命す曰臣命を奉して万里の波涛を越えて絶域に徃き俗人の到らざる処を探り十年の星霜を経殁し生還を期せざりしも幸に陛下の威霊によって帰り来れば天皇既に崩す

何の楽かあらんと悶絶し陵前にて薨す景行天皇は命の忠を哀れみ垂仁天皇の陵側へ葬らしめ給いき

崇敬 製菓の祖神として菓業者の崇敬厚し

我国菓業未開の頃果実をそのまま用い或は果汁を採りて製菓上の必要品とせり柑橘の祖神とし我国柑橘業者の崇敬あり

橘は我国の蜜柑の原種である

 

児守社

祭神は神大市姫命、鎮疫神、下陣河野七郎通広霊。松山城東麓にありましたが、築城に伴い当社末社の河野霊神に合祀。河野通広は時宗の開祖一遍上人の父。

 

表参道石段脇の祠

 

社務所か参集殿?

 

クスノキ

 

イチイガシ

由緒

湯神社

祭神は、道後温泉を開いた大己貴命と少彦名命の二神である。

当社は、延喜式内社で、社伝によれば、景行天皇が校合八坂入姫と共に行幸の際に鷺谷の大禅寺の前に創建したと伝えられている。その後舒明天皇行幸に際し勅命により社殿を新築した。

その後、国司、領主の尊崇を受け、神田や幣帛の奉献があったと伝えられている。

大永七(一五二七)年の地震で温泉が埋没した際に、須佐之男命と稲田姫命を祀る延喜式内社出雲崗神社境内(現在の冠山)に移され、いつしか合祀して四社大明神と呼ばれるようになったという。

湯神社では、地震などで温泉が止まるたびに、神楽を奉納して祈願してきた。宝永四(一七〇七)の地震では藩主の名で「湯祈祷」が行われ、以後中断しつつも今日まで続けられており、正月の初子の神事とともに世に知られている。

湯神社は、伝承によれば景行天皇による創建。

当初は鷺谷の大禅寺の前にあったといいます。鷺谷は古くに温泉が湧出し、鷺が傷んだ足を浸して治療したという伝承のある地。

鷺谷を「現在地より東二町」とする資料がありますが、現在地より東200m強だと伊佐爾波神社の裏手になってしまい不自然です。大禅寺は現在のホテル椿館あたりにあったらしく、またその場所は『道後鷺谷町』と鷺谷の名が残っているので、北二町が正しいのではないか、と思われます。

舒明天皇行幸の際、勅により社殿を新築したと伝えられます。

延喜式神名帳にみえる「伊豫国温泉郡 湯神社」はこの社に比定されています。

 

出雲崗神社は、創建時期等不詳ですが、一説には孝霊天皇の御代の創建とも。

こちらは当初より当地冠山に鎮座していたとされ、延喜式神名帳にみえる「伊豫国温泉郡 出雲崗神社」に比定されています。

 

その後、地震による温泉の埋没の際、湯神社が出雲崗神社の境内に奉遷し、合祀され四社大明神とされました。

地震の時期については天武天皇13年(日本書紀 天武天皇13年10月壬申(14日)条に「伊予湯泉没而不出」…地震のため伊予温泉没して出でずとあるのがこれを指すか)、大永7年(1527)(『愛媛県百科大事典』湯神社項より。ただしこちらには温泉埋没の記載はなし)の2説が確認できます。

他に、大永年間に河野道直が大禅寺を建てたために遷ったとも。

 

元禄年間に社号を湯神社・出雲崗神社に復称。(Wikipediaより。典拠資料不詳)

 

寛永4年(1707)大地震で出湯が止まった際、湯神社にて祈祷が行われ、再出湯。 その功からか、宝永5年に松山藩主松平定直の命によって、湯神社は出雲崗神社の相殿から境内別社となります。

その後も温泉の湧出は嘉永7年の地震、昭和21年の南海大地震で止まりますが、いずれの際も湯祈祷により再湧出。

昭和22年に町をあげて湯祈祷と祝賀行事を行い、以降これが本格的に行事化。現在では湯祈祷は「松山春まつり(道後温泉まつり)」の中の行事として実施されています。

 

明治4年には再び相殿となり、湯神社を称し現在に至ります。出雲崗神社と湯神社は主客が逆転してしまった形です。

 

鎮座地の冠山からは縄文~弥生にかけての土器破片や石棺の出土があり、生活・祭祀の場になっていたと推測されています。また、温泉の源がこの山にあると信じられてもいたようです。

 

特殊神事として初子祭があります。

大己貴命が鼠に救われた伝承に基づき、旧暦11月の初めの子の日に行われた祭り。現在は成人式に合わせて2日間行われています。当社では社殿建立や修理の始まる日もこれにちなんで子の日を選んで施行されるのだとか。

 

主祭神は大己貴命、少彦名命。湯神社の祭神です。

相殿神に素盞嗚尊、稲田姫命。出雲崗神社の祭神です。

出雲崗神社の祭神に関しては、三穂津姫命とする説もあるようです(『伊予州二十四社考』『予州二十四社記』)。

道後温泉本館と玉の石

神社北には道後温泉本館があり、その建物の北側には玉の石があります。

 

道後温泉本館脇の一角にあります

 

玉の石 御湯かけ祈願

玉の石は大国主命と少彦名命の逸話にありますように、道後温泉の霊妙不可思議な効力の象徴であります。

道後温泉の御湯をかけながら、「病気平癒」等の願い事を唱え、二礼二拍手一礼の拝礼をされることにより、必ずや神様にその意が通じるものと存じます。

大己貴命が、病み倒れた少彦名命を助けようとして、掌に乗せて温泉に入れたところたちまち快復し、「真暫寝哉(ましましいねたるかも、暫く昼寝をしたようだの意味)」と叫んで玉の石の上で舞ったという伝説に基づくものです。

 

このお湯をかけます

 

玉の石

上部にある窪みは少彦名命が舞った際の足跡とされています。

 

案内札

伊豫の湯の汀にたてる霊の石 これぞ神代のしるし成ける

玉の石の由来は『伊予国風土記』逸文に見られるが、玉の石を歌ったこの古歌は、本県と中央の俳壇をむすぶ最古の書『白水郎子記行(あまのこすさび)』(岡西惟中 1639-1711)に見える。

汀は温泉の水際のことである。岡西惟中は鳥取の人、西山宗因に師事した談林派俳諧の論客。

 

参道階段から見た道後温泉本館

 

建物は重要文化財

経産省の近代化産業遺産にも認定されています。重文に指定されるだけあって流石の風格。明りが灯った外観は幻想的なような郷愁を覚えるような。

 

道後温泉の額

この額は初めからあったのではなく、戦後、映画撮影時にかけられたのが始まりだそうです。現在のは1986年に掛けかえられたもの。

料金プランがいくつかありますが、観光目的なら一番高い霊の湯3階個室がいいと思います。私は霊の湯2階席にしましたが、300円の差なら3階個室でよかったなと。なお霊の湯ならどちらのコースでも皇族専用浴室である又新殿のガイド付き見学がセットです。お風呂自体は霊の湯は小さくきれいな銭湯です。銭湯なのでシャンプー等はなし。お風呂に入るだけなら神の湯階下で十分かと。

御朱印

御朱印はあります。

社務所で拝受可。

アクセス

冠山という岡の上が境内となっています。冠山には駐車場もあるので、ここに停めれば参拝には便利。ただし有料で30分100円です。

山の北西側に駐車場入口があります(位置)。

 

少し離れていますが、無料駐車場が伊佐爾波神社の南東、テニスコート横にあります(位置)。

観光用臨時駐車場のため平日は開放されていないことが多いので、事前に市の公式サイトで要確認です(下記リンクのページ中程、松山観光臨時駐車場項の開放日カレンダー)。

 

神社概要

社名湯神社(ゆじんじゃ)
通称
旧称

四社明神

湯月西宮

住所愛媛県松山市道後湯之町4-7
祭神(湯神社)

大己貴命

少彦名命

相殿(出雲崗神社)

素盞嗚尊

稲田姫命

社格等

式内社 伊豫国温泉郡 出雲崗神社

式内社 伊豫国温泉郡 湯神社

旧県社

札所等
御朱印あり
御朱印帳
駐車場あり(最寄りのは有料)
公式Webサイトhttps://yu-jinja.official.jp/
備考

参考文献

  • 「湯神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
  • 「湯神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
  • 式内社研究会編『式内社調査報告 第二十三巻 南海道』皇學館大学出版部, 1987
  • 明治神社誌料編纂所編『府県郷社明治神社誌料 下巻』明治神社誌料編纂所, 1912(国会図書館デジタルコレクション 340-341コマ