若宮八幡神社。
奥州市胆沢区若柳大歩に鎮座。
境内に和我叡登挙神社の名が刻まれた石碑のある神社。
境内
民家前のトラロープ
墓地の前を通ります
その先少し歩くと神社。
鳥居
社殿
社殿
扁額
社殿裏の岩
岩から生えている?木
和我叡登挙神社の石碑
社殿裏右側に和我叡登挙神社の名が刻まれた石碑があります。
石碑
風化しつつあり字はよく読めませんが、胆沢町史によれば、
陸奥百座之内
和我叡登挙神社
地主水主
と刻まれている模様。
『胆沢町史 2 古代中世編』の当社項には以下のようにあります。
胆沢町史 2 古代中世編
胆沢町若柳の大歩の老杉の森に鎮座している若宮八幡社社殿裏に「陸奥百座之内、和我叡登挙神社、地主水主」と刻まれた石碑がある。
若宮八幡神社地主阿部家にきくと土産神だといい、『宝暦14年(1764)巡礼旧祠記』に、胆沢郡和我叡登挙神社祭日9月29日と記録されている。地主、水主は地の神、水の神の意味だろうから、同族の阿部、安部、安倍一族ばかりでなく、後年には土地の人達も、この若飯豊別命を信仰の対照として神社を守り祭っていた証拠でなかろうか。そして、『安永2年の胆沢風土聞誌の若柳邑の項』に、「其ノ地未詳」の記録は、わずか9年の間に未詳になったのではなく、ひそかに土地の者が祭っていたか、あるいは廃絶同様になっていたかであろう。
『胆沢町史』編者は、越国引田の豪族阿部(安部・安倍)一族や出羽国の阿倍臣族の同族の地である当地に延喜式神名帳にみえる「陸奥国膽澤郡 和我叡登挙神社」があったと考えているようです。
由緒
当社は『胆沢町史』によれば安永風土記記載社で、承応3年(1654)に武州本献山の桧より分神を伝える、とあるそうです。本献山ってどこでしょうか。
和我叡登挙神社の石碑については、昭和5年に一度発見され、その後(時期不明)再発見されたとのことですが、いつ頃誰によって置かれたかは不明。
御朱印
御朱印の有無は不明。
アクセス
水沢駅の南から国道397号を西へ13km弱走ると、瑞月という温泉の看板が立っていますので(位置)、そちらの方向へ入ります(北側、右折)。
瑞月の看板
その瑞月の方に入っていくのですが、神社には駐車場がないので、看板の国道挟んで向かいにある大歩昭和の一里塚なる公園?(位置)の駐車場を借りましょう。
「大歩」という地名について
足の歩みを数えるのに一歩、という言い方をします。大股で歩けば大歩、小股で歩けば小歩というようにも言います。
この地が「大歩」という地名がついている事については、いくつかの説がありますが、なかでも、貞任伝説が有名です。
安倍貞任が八幡太郎義家に追われて逃げ、いよいよ追いつかれそうになりました。このとき貞任は必死の力をふりしぼり、それまでの小歩から大歩に歩調を変え、とうとう逃げのびたということです。
この案内板の手前に数台の駐車スペースあり。
神社へは、瑞月の看板前を北に進み、胆沢川を渡ります。
胆沢川に架かる橋
胆沢川
そのまま行くと、民家前で西にカーブし、その先にトラロープが掛かっています。
民家の方に伺うと、不法投棄が多いためトラロープを掛けているそうで、神社参拝の場合は入ってOKとのことでした。
神社概要
社名 | 若宮八幡神社(わかみやはちまんじんじゃ) |
---|---|
通称 | – |
旧称 | – |
住所 | 岩手県奥州市胆沢区若柳大歩23 |
祭神 | 若宮八幡神(若宮八幡神社) 荒覇吐神(和我叡登挙神社) |
社格等 | 式内社 陸奥国膽澤郡 和我叡登挙神社 |
札所等 | – |
御朱印 | 不明 |
御朱印帳 | – |
駐車場 | なし |
公式Webサイト | – |
備考 | – |
参考文献
- 胆沢町史刊行会編『胆沢町史 2 古代中世編』胆沢町, 1982
コメント
こんばんは。石碑の右手に見える筒みたいのは何なんでしょう?
トラテープ云々の情報借用していいですか。あとこの記事へのリンクを許可してほしいです。修正情報、参照情報として記載したいので
>御津垣さん
こんばんは。
はい、リンクは問題ありません。
参照情報としての記載もリンクで出典記載いただければ大丈夫です。
そして、石碑の右にある筒みたいなものは、多分酒瓶ですね。