於呂閇志膽澤川神社(奥州市胆沢区若柳字下堰袋)

於呂閇志膽澤川神社。

水沢駅の西約10km、胆沢区若柳字下堰袋に鎮座。

式内社 於呂閇志神社と膽澤川神社が合祀された神社。

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境内

社頭

 

鳥居

 

社号標

 

鳥居

 

手水鉢?

 

狛犬

 

社殿左手前の鳥居

 

神社南を流れる用水路に架かる橋(おろへしはし)

社殿

拝殿

 

扁額

社の文字だけ取れちゃったみたいです。2年前(2015)は付いてたんですけど。

 

本殿

境内社等

社殿右の境内社

 

社務所

 

社殿左手の石碑群

徳水園・命水の大噴水

神社から西へ800mほど行ったところに徳水園という公園があり、そこに命水の大噴水という日本最大級の円筒分水工があります。

 

命水の大噴水

残念ながら運転時間終了後で噴水は見られませんでした。

 

日本最大級の円筒分水工 命水の大噴水

この「命水の大噴水」の三本の大噴水はこのことを表わしています

  • 左側を胆沢扇状地の扇頂に位置する「胆沢ダム」
  • 中央は扇状地を耕す土地改良区の「組合員」
  • 右側を農業用水の安定供給にあたる「胆沢平野土地改良区」

「胆沢ダムの完成により未来永劫、胆沢平野を潤す命の水は農を育み、扇状地で暮らす私たちの生活を支えていく」

この想いから「命水の大噴水」と名付けました。

由緒

由緒板

於呂閇志胆沢川神社

当神社は、明治4年に「於呂閇志神社」と「胆沢川神社」を同床に合祀した延暦一七年(七八九)の延喜式神名帳に記載された神社です。

胆沢川神社は、大同二年(八〇七)坂上田村麻呂の勧請と伝えられ、祭神は水速女命として水神様を祀る神社であり、祭日は、九月十二日である。

於呂閇志神社は、元来石淵地区の猿山に鎮座する。「於呂閇志神社略縁起」によれば弘仁元年(八一〇)、嵯峨天皇の勧請と伝えられています。祭神は、須佐男之命・木花咲耶姫命を祀り、祭日は四月二十九日。この春の例祭には、神の「よりしろ」となる椿・隈笹・お札からなる「御守札」を配る作神様としての神事がみられます。

本殿には、方一間木造入母屋造で、桟唐戸には黒漆塗に金泥をもって竹に雀、九曜紋並びに桐紋を描いた旧伊達宗章廟厨子が収納されています。江戸時代初期の様式美が窺えます。

当社は於呂閇志神社と膽澤川神社が合併した神社です。

於呂閇志神社は延喜式神名帳にみえる「陸奥国膽澤郡 於呂閇志神社」、膽澤川神社は「陸奥国膽澤郡 膽澤川神社」にそれぞれ比定されています。

 

於呂閇志神社の創建は、『於呂閇志神社略縁起』によれば弘仁元年(810)。

嵯峨天皇の勧請と伝わります。

 

元は猿山(猿岩)という岩山の山頂にあり、風で飛ばされたため中腹に下り、後にさらに下りて現在の奥宮に遷ったとされています。

この猿岩中腹(胆沢区若柳字石淵)の地を颪江(おろせ/おろしえ)というそうで、於呂志閇=颪江(おろしへ)が於呂閇志(おろへし)に転じたのではないかとされます。つまり、元は「於呂志閇神社」だったのではないでしょうか。

 

なお、安永年中には誤って鹿嶋社といわれていたこともあるそう。

明治初年に参詣者の利便を図って若柳字土橋に遥拝所建立。

明治4年村社列格。

 

膽澤川神社の創建は、伝承によれば大同2年(807)。

坂上田村麻呂の勧請と伝わります。『水沢市史』は奈良時代の勧請と想定してよいのではないか、とします。

『胆沢町史』によれば元は胆沢川の水源地なる小字体丸に元社があったそうで、三界山の麓には高橋重右エ門氏の建てた胆沢川神社の石碑があるといいます。

現在、焼石岳9号目にある焼石神社(位置)に膽澤川神社の名が刻まれた石碑が建っており、上記はこれを指すのかもしれません。体丸=焼石神社なのか、移動されたのかはわかりません。

 

その後社地が崩落、字横枕に遷座という記録があるそうです。

『安永風土記御用書出』には「横枕にある明神は何神であるか不明である」とあり、安永の頃には既によくわからなくなっていたようです。横枕は、現在の若柳字上田中の付近だそう。

「胆沢川神社、別当横枕屋舗孫左右衛門」と刻まれた石碑が現在胆沢区若柳字橋本の旧三堰取水口付近に建っていますが、『胆沢町史』によればこれが胆沢川神社の所在を解くカギなんだそうです(書かれている内容を読むと、符丁の如く現在使われていない地名が次々出てくるため、知らない人間には位置関係が理解不能です)。

なお『安永風土記御用書出』には「横枕明神社跡」とあり、同書の時点で既に社殿は存在しなかった模様(江戸中期の洪水で社地欠落したらしい)。

 

それはさておき、『安永2年(1773)の胆沢風土聞誌』に「胆沢川神社は祭神水速女命。伝え曰く。胆沢川の畔に高山有りて明神倉と号し、山上に小さい祠の胆沢川神社有るなり」とあり、どうやら明神倉=猿岩のようです。

於呂閇志神社が山頂から中腹に下りた場所には今も石祠があるそうですが、この石祠の他に胆沢川に面して胆沢川神社の磐があったと思われる、と『胆沢町史』は述べています。

しかし、この磐も山頂にあって於呂閇志神社と共に下りたのか、あるいは元より中腹にあったのか、石碑と磐の関係はなんなのか、この辺りは謎です。

また、「(於呂閇志神社の)石祠のほかに胆沢川に面して胆沢川神社の磐があったと思われる」とありますが、於呂閇志神社奥宮の旧地石祠の周辺は胆沢川神社に面していません。ダム建設以前の胆沢川の流路を見ると、猿岩の北西部分が面しているのみです。この辺りはかなり傾斜が急で、磐を祀れたようには思えないのです。山頂からは胆沢川を望めますが、傾斜の緩い斜面南東部からは胆沢川は見えないので、この中腹の磐の話には疑問の余地があります。

 

ちなみに、『水沢市史』は奥州市胆沢区若柳字愛宕に鎮座の愛宕神社(位置)を胆沢川神社磐境の旧跡としています。愛宕神社は岩山の上に社が建っているそうです(未訪)。明治までは民家もなかった場所で、愛宕神社も増沢ダム(衣川1号ダム)建設に伴いここに移されたものだそうです。よってここには明治以前は岩山だけがあったことになります。

ただ『胆沢町史』はこの説を否定、明神倉=猿岩説を採っています。

 

おおよそでまとめると、胆沢川の源流(焼石岳周辺)→崩落で横枕or明神倉(猿岩)へ→横枕の社地崩落→明治初年、於呂閇志遥拝所傍へ社殿再建(石碑は昭和22年に旧三堰取水口付近へ)となります。

あくまで『胆沢町史』の記載に基づくため、上述の磐の話も含め、実際には異なるかもしれません。

『日本の神々』は当社移転の各説は根拠に乏しく、横枕が元々の社地であった可能性が高いとしています。

 

明治4年村社列格。

明治45年2社は合併し、於呂閇志膽澤川神社に改称。

 

御朱印

御朱印はありません。

ただ、宮司印(+住所や宮司さんのお名前の入った印)をいただくことはできます。

正式な御朱印も作りたいと宮司さんはおっしゃっていたので、今後参拝される方は確認してみるとよいかもしれません。なお、宮司さんのお宅は神社の北東300mくらいの場所にあります。

アクセス

水沢駅の南から国道397号を西へ10kmほど行くと、右手に分岐する道があり鳥居が立っていますので(位置)、鳥居を潜って進みます。200mほどで境内。

境内にある鳥居手前、ゲートボール場みたいなところの脇に駐車可。

神社概要

社名於呂閇志膽澤川神社(おろへしいさわがわじんじゃ)
通称
旧称
住所岩手県奥州市胆沢区若柳字下堰袋48
祭神

沢女命

須佐之男命

大日霊命

軻遇土命

誉田別命

神八井耳命

若飯豊別命

彦火火出見命

大山祇命

大名持命

『平成祭データ』

水速女命(膽澤川神社)

須佐男之命(於呂閇志神社)

木花咲耶姫命(於呂閇志神社)

境内由緒書
社格等

式内社 陸奥国膽澤郡 於呂閇志神社

式内社 陸奥国膽澤郡 膽澤川神社

旧村社

札所等
御朱印なし(宮司印あり)
御朱印帳
駐車場あり
公式Webサイト
備考

於呂閇志神社旧地:猿山(猿岩)山頂→中腹

膽澤川神社旧地:三界山の麓(焼石岳9合目焼石神社?)、字横枕(現・若柳字上田中付近)、明神倉=猿岩、若柳字愛宕の愛宕神社など複数説あり

参考文献

  • 「於呂閉志神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
  • 「於呂閇志胆澤川神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
  • 胆沢町史刊行会編『胆沢町史 2 古代中世編』胆沢町, 1982
  • 式内社研究会編『式内社調査報告 第十四巻 東山道3』皇學館大学出版部, 1987
  • 谷川健一編『日本の神々 神社と聖地 第十二巻 東北・北海道』白水社, 1984
  • 水沢市史編纂委員会編『水沢市史 2 中世』水沢市史刊行会, 1976