都々古別神社。
磐城棚倉駅の南西1km弱の場所に鎮座。
式内名神大社 都都古和氣神社及び陸奥一宮の論社で、戦前は国幣中社、現在は神社本庁の別表神社。
近隣の八槻にある都々古別神社と区別するため、馬場都々古別神社とも呼ばれます。
境内
一の鳥居
社号標
一の鳥居から直進すると境内入口
社号標
二の鳥居
随神門前左手に手水舎
随神門
随神門にかかる陸奥國一宮の扁額
随神門には雑誌の切り抜きや手書きの資料がびっしり
随神門先の参道
三の鳥居
燈籠には近津宮の文字
社殿
拝殿
扁額
都々古和氣神社と書いてあるのだと思いますが、和の字は別の字を使用しているようです(読めず)
本殿
国指定重要文化財
都々古別神社本殿
都々古別神社は平安時代に編さんされた「延喜式」にも記載され、陸奥一宮として崇敬されてきた古社です。
本殿は文禄3年(1594)に佐竹義宣が造営したとみられています。もとは棚倉城の地にありましたが、寛永2年(1625)に現在地へ移されました。
形式は本格的な三間社流造でありますが、柱の上の組物を出三斗とし、彫刻を用いないなど、簡素なつくりとしています。反りのある垂木、庇に架けた水平に近い梁などが中世的な要素です。
都々古別神社本殿は、東北地方において数少ない桃山期の本殿建築として、高い価値を有しています。細部や技法には中世的な要素が残っており、中世から近世への転換期における様式や技法を知る上で、貴重な存在です。
拝殿左に神饌所
境内社
甲山天満宮
稲荷神社
厳島神社
鹿島神社
神明宮
神明宮横に磐座
社殿真後ろに東照宮
階段下、かなり低い位置に注連縄が掛けられており、立入禁止の様に見えてしまい敢えて登らず。
東照宮左手に日枝神社
こちらも下から。
熊野神社
参道脇に寅卯神社
裏参道・馬場古墳
三の鳥居前、右手の道が裏参道。
裏参道入口に碑
裏参道
玉垣外側、右手に板碑 都々古別神社供養塔
奥へ進むと馬場古墳の案内板
東照宮のあるこの丘が馬場古墳?
由緒
略沿革
延喜式神祇巻第十神名帳に、陸奥國白河郡名神大一座「都都古和氣神社」とある御社で、凡そ二千年前、人皇十二代景行天皇御宇、日本武尊が東奥鎮撫の折、関東奥羽の味耜高彦根命を地主神として、都々古山(現在西白河郡表郷村。一名を建鉾山と称す。)に鉾を建て御親祭せられたのが創始であり、古代祭祀場たる磐境であることが立証されている。(大場磐雄・亀井正道両博士による。)
人皇五十一代平城天皇大同二年(八〇七)坂上田村麻呂は、伊野荘(現棚倉城趾)に奉遷、社殿奉造し日本武尊を相殿に配祀し奉る。
寛永元年(一六二四)丹羽五郎左衛門長重公は、幕命により棚倉築城に際し、現在の地(馬場)に景勝の替地を奉り、更に社領を添加し、旧社殿を解体移築の上、同二年遷宮し奉る。
造営、神領寄進等は、坂上田村麻呂・源頼義・源義家等をはじめ、足利義満・白河城主・豊臣秀吉等、作事奉行を定め奉造の事が伝えられ、現本殿は、文禄年間(一五九二~一五九五)秀吉の命により、佐竹義宣奉造にかかるもので、桃山時代の手法がよく出ている。
中世、天災や兵火によって社殿焼亡又は大破した事もあるが、その時毎に、直ちに造営せられている。
神位、神階等奉授については、仁明天皇・清和天皇・陽成天皇・後冷泉天皇等各御宇に行なわれている。平安中期から久慈川、社川、阿武隈川流域の人々の絶大なる信仰の対象であり、北郷二十四ヶ村にわたった神領地もその一証である。
徳川幕府は代々、先規により神領朱印状を奉っていた。
明治四年太政官達し、同六年三月七日、国幣中社に列格した。
社伝によれば都々古山(建鉾山)に日本武尊が鉾を建て、親祭せられたのが創祀。
立鉾山東麓の三森地区と北側の高木地区には5世紀代の祭祀遺跡があり、これは東北地方最大の祭祀遺跡とされています。
その後大同2年(807)に坂上田村麻呂が伊野荘(現棚倉城跡)に奉遷したとされます。
続日本後紀 承和8年(841)正月癸巳(22日)条に「奉授坐陸奥国白河郡勳十等都都古和氣神従五位下」とみえる都都古和氣神、ならびに延喜式神名帳にみえる「陸奥国白河郡 都都古和氣神社 名神大」を当社にあてる説があります。
なお続日本後紀 承和8年(841)3月癸巳(22日)条に「奉授陸奥国勲十等都都古和氣神従五位下」とありますが、上記の同年正月と表記が全く同じ。単に誤記や重複なのか、それぞれ別の都都古和氣神を指すのかは不明。
応永年間(1394~1428)足利義満が社殿造営。
天正年間(1573~92)白河城主関義親社殿造営。
文禄年間(1592~96)佐竹義宣、豊臣秀吉の命により社殿修復。
寛永元年(1624)丹羽長重が幕命により棚倉築城に際して現在地に遷座(社殿を解体移築)。
明治6年(1873)国幣中社列格。
戦後は神社本庁の別表神社となっています。
当社が明治4年の太政官符によって延喜式の「都都古和気神社」とされ、明治6年に国幣中社に列せられると、八槻の近津明神(八槻都々古別神社)は当局に対してただちに抗議。大論争となり一時は両社合併案まで登場しましたが、明治18年に両社並立の措置が取られ、八槻社も国幣中社に列することで解決となりました。
当社と八槻社のいずれが本来の式内社 都都古和氣神社であるかは、現在も結論は出ていません。
なお、国幣社格列時、太政官符に「別」の文字が用いられていたため「都々古別神社」を称していましたが、昭和21年緊急勅令により官国幣社が廃止。以降は「都都古和氣神社」を称しているとのこと。
ただし福島県神社庁のサイトや、平成祭データでは「都々古別神社」表記なので、公的には「都々古別神社」のままなのかも知れません。
当社を上宮、八槻都々古別神社を中宮、大子町下野宮の近津神社(位置)を下宮とし、「近津三社」と総称されたといいます。
なお、近津三社がいずれも弘仁2年(811)に新しく開かれた官道(のちの水戸街道)沿いに鎮座することから創建(遷座?)を弘仁2年以降とする説もあります。
ツツコワケもしくはチカツと呼ばれる神社群には「ツトコ」あるいは「ツツコ」と呼ばれる籾を入れた藁苞(わらつと)を供える風習が見られたそうです。自分のツトコを供えるとともに他人の供えたツトコを受けて帰り翌年倍にして返すもので、これが品種交換になっていたのだとか。現在この風習は廃絶。
この「ツトコ分け/ツツコ分け」が社名の由来になったという説もあります。
他に、長野県の諏訪地方に分布する「千鹿頭(ちかと)」神との関連を示唆する説も。
また、建鉾山(当社北西5km程度にある山)を当社の旧社地とする説があります。
西郷頼母近悳は、会津藩松平家の家老を代々勤める家柄であり、戊辰戦争では恭順を唱えるものの聞きいれられず、会津藩の白河口総督として戦った。しかし、伊地知正治が率いる新政府軍による総攻撃を受けて敗北した。
会津での戦いの後、箱館での戦いにも参戦したが、敗れて幽閉され、釈放後伊豆に漢学舎を開いた。
明治八年(一八七五)八月、内務省の発令により、保科近悳の名前でここ馬場都都古和氣神社の宮司を約三年間務めた。
明治一三年(一八八〇)に旧藩主である松平容保が日光東照宮の宮司となり、頼母は禰宜となって落城後の再開を果たしている。
西郷頼母が宮司を務めた時期があったそうです。
御朱印
御朱印はあります。
二の鳥居(階段下)右手にある宮司さん宅で拝受可。
事前連絡入れた方が無難です。
お話・説明がお好きらしく、由緒等色々聞かせてもらえます。私の時は年末で特にお忙しかったようで早めに切り上げになってしまいましたが。
アクセス
棚倉町棚倉の国道118号と県道60号が交わる交差点(位置)を東へ。300mほど行くと左手に鳥居が見えますので潜って直進。行き止まりが境内入口。
駐車場はありませんが、行き止まり右手に大きな観光案内図が立っており、その手前に1,2台停められます。
この案内図の前です
また、上述の交差点より一つ北の交差点(位置)を東に入り、400mほど進んだところ(位置)に裏参道入口があります。裏参道は未舗装ですが車で入ることができ、数台駐車できるスペースがあります。
一の鳥居の東に進むと町役場の駐車場があるので、そちらを借りる手もあります。
神社概要
社名 | 都々古別神社/都都古和氣神社(つつこわけじんじゃ) |
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通称 | 馬場都々古別神社 |
旧称 | 馬場之宮 近津明神 |
住所 | 福島県東白川郡棚倉町大字棚倉字馬場39 |
祭神 | 味耜高彦根命 |
配祀 | 日本武尊 |
社格等 | 式内社 陸奥国白河郡 都都古和氣神社 名神大 続日本後紀 承和八年正月癸巳(廿二) 都都古和氣神 従五位下 続日本後紀 承和八年三月癸巳(廿二) 都都古和氣神 従五位下 陸奥国一宮 旧国幣中社 別表神社 |
札所等 | – |
御朱印 | あり(事前連絡が無難) |
御朱印帳 | 全国一宮御朱印帳あり? |
駐車場 | なし(各所に駐車可能な程度のスペースはあり) |
備考 | 建鉾山が旧地との説あり |
参考文献
- 「都々古別神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 「都々古別神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
- 式内社研究会編『式内社調査報告 第十四巻 東山道3』皇學館大学出版部, 1987
- 谷川健一編『日本の神々 神社と聖地 第十二巻 東北・北海道』白水社, 1984