建鉾山。
武鉾山、武戈山とも書かれ、鉾立山、高野峯山、都々古山と呼ばれることも。
馬場都々古別神社の元鎮座地と伝えられる山。
登山道
国道沿いに武戈山登山道の石標
建鉾山(武鉾山)は円錐型をした標高403mの山です。伝説によれば、日本武尊が東征した際、この山頂に鉾を立てて神を奉斎したとされ、頂上には建鉾石といわれる岩と小祠があります。
山の姿は典型的な神奈備型(神の領域)で、山頂付近に露出した珪質岩の母岩も、古来から神の降臨に相応しい磐座・石神とされていました。
安政3年(1856)の古図によると、北側斜面の巨岩下は「御宝前」と記されており、地区住民すら立ち入れない神聖な地でした。
また、かつては棚倉町の馬場都々古和気神社が鎮座していたとの伝承もあり、明治16年(1883)までは同社の神事が行われていた、とも伝えられています。
昭和32年(1957)と33年の発掘調査では、鏡・勾玉・剣・鎌の形をした石製模造品、青銅製擬鏡、土師器などの膨大な遺物が出土しました。古墳時代中期(5世紀)の、東日本を代表する祭祀遺跡と位置づけられています。
登山口案内板
こちらのは登山口は高木口といいます。
ここから登り始めます
木が伐採された後のようで、道はかなりさっぱりしていました。
このヨシは葉が片方にだけ生えています。
昔天喜年間、今から950年位前後冷泉天皇の御代源義家が東征の折武鉾山(高野峯山)に戦勝祈願のためこの地まで来ました。その時愛馬が腹痛をおこし困り果てました。
その時この清水を呑み、側に生えていたヨシを食べて元気を取り戻しました。その時食べられたヨシの葉が今でも芽生いることなく生長しています。この武鉾山は、高木部落の古文書にお宝前と記されている巨岩の下に子供達が遺物品を発見、数多くの勾玉、鏡、白玉、直刀など出土いたしました。
日本武尊御手洗水
この水で合ってるのかしら…
麓の方は少し歩きづらい道
少し上ると階段も設置されていて歩きやすい
中腹にテレビの中継局
山頂近くにはゴツゴツした岩が
山頂
山頂の建鉾石と石祠
建鉾石
この北側斜面下は安政3年の古図に「御宝前」と記され、大量の遺物が発見された場所。
埋もれた祠?
山頂からの景色
正面奥はおそらく那須岳。
三森口側の登山道、上から
表郷村高木・三森地区に所在し、社川に向って舌状に張り出した標高402mの建鉾山の北山麓に位置する。建鉾山祭祀遺跡周辺は、第二次世界大戦以前から石製模造品の出土地として広く知られていた。この遺跡は、石川郡玉川村在住の首藤保之助氏によって確認され、昭和14年(1939)には首藤氏の報告によって、國學院大學 大場磐雄博士の現地踏査が実施され、その結果祭祀遺跡と判断された。
31年(1956)11月に郡山市田村町正直遺跡調査の帰路、亀井正道、稲生典太郎・佐野大和の三氏が遺跡を訪れ、耕作によって次第に遺跡が破棄される様子を確認し、早急に調査の必要性を痛感したとある。発掘調査は、昭和32年度(1957)に三森地区(B)、翌年の33年度(1958)に高木地区(A)が計画された。建鉾山祭祀遺跡に関連するのは、高木地区の調査である。
高木地区(A)は、建鉾山の山麓に広がる緩斜面の狭い範囲で、山頂には建鉾石と呼ばれる巨石がある。地元の伝承ではヤマトタケルノミコトが東征に際し、山頂に鉾を立てて神に祭り、戦勝を祈願したという。この地区からは多量の石製模造品・金属製品・土師器などが出土している。その多くを占めている石製模造品は滑石製で、斧・鎌・刀子・鏡・勾玉・臼玉・剣形品・有孔円板等の種類がある。金属製品には青銅製儀鏡・鉄鉾・鉄刀・鉄剣などが、土師器は壷・杯・高坏などがある。これらの出土遺物は、古墳時代中期(5世紀中頃から後半)の年代が考えられている。
昭和32年(1957)の発掘調査は三森地区(B)を対象に、5本のトレンチを設定した。調査地点は西福寺の南東、平成10年度(1998)調査区の南側に位置する。この地点は、地元では古くから石製模造品の採集地として有名であった。調査の所見では溝跡と数多くの石製模造品が出土している。同時に(C)地点は、三森地区の槻の木として有名で、地元では月夜見桜と呼んでいる。月夜見桜は、一種の聖地として考えられ、伝承の存在や特別な地として認識されている。月夜見桜の名称の起源は、ヤマトタケルノミコトが東征に際して夜この地を通過した時に、樹木の梢が月映えてあたかも満開の桜を見るようであったことや、藤原鎌足がこの樹木を詠じた和歌をつくったとも伝えられている。この地点には3本のトレンチを設定したが、竪穴住居跡を検出したのみである。その後、建鉾山祭祀遺跡は昭和41年(1966)発行の『建鉾山』以来、東北地方南部最大の祭祀遺跡として知られ、全国から訪れる研究者の数はしれない。
昭和から平成に年号が変わり、三森地区に村道三森・瀬ヶ野線バイパス建設と圃場整備が計画された。このため表郷村教育委員会では、平成5~9年度(1993~1997)にかけて試掘・本調査と整理・報告書の発行を行った。
この発掘調査によって検出された遺構は竪穴住居跡38軒・柵囲遺構1ヶ所・大型周溝状遺構1ヶ所・長方形周溝状遺構1ヶ所、三森館跡の溝跡2条などがある。さらに、平成10年度(1998)に、は三森地区集会所建設に伴い発掘調査を実施し、3軒の竪穴住居跡と3基の土坑が検出された。古墳時代中期(5世紀中頃から後半)の遺構である。
これらの調査によって、不明瞭であった三森遺跡の一部が明らかにされた。検出された遺構の中で、豪族居館跡・祭祀場、また周辺に分布する竪穴住居跡群が注目される。
なお、この遊歩道により建鉾山を縦走し、都々古和気神社・月夜見桜を経由して周回することができる。
都々古和気神社
三森口には都々古和気神社があります。
三森口の入口
遊歩道の案内
鳥居
社号標「國幣中社奥院都都古和氣神社」
狛犬
山の中へ入っていくと…
手水鉢
木の階段
階段脇には小祠
拝殿
本殿
社殿横から
景行天皇皇子日本武尊御親祭霊地参道
ここから山頂までの登山道が続きます。
由緒
村社 都々古和気神社
御鎮座地 表郷村大字三森字都々古山
御祭神(主神) 味耜高彦根命
大国主命の御子で殖産興業の指導をもって、一生父命の大業を助けられた関東地の大神。
(相殿神)日本武尊
延喜式内社、白河郡七社の一つにして、人皇12代景行天皇御宇第三子の皇子、日本武尊が東夷御征伐のためにおいでなられた。この時、この都々古山に、味耜高彦根命を勧請され東夷平定の御誓いをたてられ、鉾を建て御親祭なされたのがはじまりで、この古事に因み都々古山山頂に梵天を奉弊する神事が行われている。
建鉾山あるいは、高野峯山の名をもって呼ばれている小山は、一際目立つ三角錐状の形をもち、周囲から特異な山容を望見することができ、古代における山岳信仰の対象としての特徴をよく見えている。
棚倉町馬場都々古和気神社の原鎮座地としての伝承がある古代祭祀の遺跡としての建鉾山山頂には高さ1.4mの建鉾石があり、この岩の下部は巨大な母岩が続き、更に山腹までのびた典型的な神奈備山の山容をなして、神が降臨するにふさわしい磐座・石神である。神が降り給う岩座の前に、くさぐさの供物をささげ祭祀をおこなった神道祭祀の遺跡であり、古代の聖地をそのまま現在の神社の神域となっている。
由緒は不詳。
「延喜式内社、白河郡七社の一つにして」とあるので当社も延喜式神名帳にみえる「陸奥国白河郡 都都古和氣神社 名神大」の論社となっているのでしょうか。
馬場都々古別神社の旧鎮座地伝承が残るのは建鉾山山頂であるため、中腹にある当社はどういった位置づけであるのかは不明。
建鉾山は江戸期には入山禁止だったらしいので、明治16年(1883)まで行なわれていたという馬場都々古別神社の祭事を行う場所としてここに社が設けられていたのかもしれません。
この祭事が古代から連綿と続いていたものなのか、江戸期に再興されたものなのかは不明。
あるいは延喜式編纂の頃にはこの建鉾山中腹の地にあり、後に馬場や八槻に遷座もしくは勧請されたでしょうか。
月夜見の桜
三森口から東へ300m程行ったところに、月夜見の桜という巨木があります(位置)。
その名に反して実は槻(欅)。
日本武尊あるいは藤原鎌足が槻の大樹を月明りに咲き誇る桜と見間違えたためにこう呼ばれるようになったという伝承があります。
月夜見桜の石碑
月夜見の桜
一、所在地 白河市表郷三森字月桜五十三
一、所有者 三森行政区
一、指定年月日 昭和五十五年三月十四日
樹齢六〇〇年(推定)根廻り10m 樹高15m
概説
藤原鎌足公詠歌
陸奥や、ふりわけ見れば都々山 月夜見桜 澄める有明
槻の大樹を月明りに咲き誇る桜と見間違えたと伝えられる。ここに近い武鉾山上を磐座として棚倉馬場、八槻神社の原鎮座の伝承を負う古代祭祀遺跡とされている
この老槻も霊木として仰がれ祭られたと推察される。
尚、槻はニレ科の落葉喬木でケヤキの一変種といわれる。
木の脇に阿波嶋神社
御朱印
御朱印の有無は不明。
おそらくないと思われます。
アクセス
棚倉町の赤館公園の北にある交差点(位置)から、国道289号を白河方面へ向かいます。
6kmほど行くと「建鉾山遊歩道駐車場」の案内板が立っていますので(位置)、案内に従い脇道に入ります。
突き当りを左折(ここから、Googlemapだと道が表示されていません)。次の突き当りを右折で高木口の入口。駐車場があります(大体この辺)。
なお建鉾山北側麓の道路(国道より一本山側の直線の道)はJRバスの専用道路のため、人も車も通行禁止です。
三森口の方には駐車場がありません。
神社概要
社名 | 建鉾山(たてほこやま)/都々古和気神社(つつこわけじんじゃ) |
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通称 | – |
旧称 | – |
住所 | 福島県白河市表郷三森字都々古山1 |
祭神 | 味耜高彦根命 |
相殿 | 日本武尊 |
社格等 | 式内社 陸奥国白河郡 都都古和氣神社 名神大 (旧鎮座地?) 続日本後紀 承和八年正月癸巳(廿二) 都都古和氣神 従五位下 (?) 続日本後紀 承和八年三月癸巳(廿二) 都都古和氣神 従五位下 (?) 旧村社 |
札所等 | – |
御朱印 | 不明 |
御朱印帳 | – |
駐車場 | あり(建鉾山高木口駐車場) |
公式Webサイト | – |
備考 | 山頂は馬場都々古別神社の旧地とする説もあり |
都々古和気神社
建鉾山(武鉾山)
参考文献
- 「建鉾山祭祀遺跡」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 「都々古別神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
- 式内社研究会編『式内社調査報告 第十四巻 東山道3』皇學館大学出版部, 1987
- 谷川健一編『日本の神々 神社と聖地 第十二巻 東北・北海道』白水社, 1984