多珂神社(南相馬市原町区高字城ノ内)

多珂神社。

南相馬市原町区高字城ノ内に鎮座。

式内名神大社 多珂神社の論社。

境内

常磐線の踏切付近に立つ大鳥居

 

扁額

 

社号標

 

境内入口の社号標

 

参道

 

石橋

 

鳥居

 

扁額

 

狛犬

 

手水舎

 

拝殿前の狛犬

社殿

拝殿

 

九曜紋

 

木鼻

 

扁額

 

拝殿内部の扁額

 

本殿

 

本殿の彫刻

境内社等

八坂神社・稲荷神社(社殿は多珂神社旧本殿)

 

扁額

 

雷神社

 

御神木

 

御神木根元にある青麻大権現碑

 

参道石橋の左手に橋

 

橋の先に祠と子牛田山神の碑。Wikipediaによると祠は子牛田山津見神社というようです。

 

祠の後ろに金比羅神社の碑

 

参道右手に入ったところに小祠

 

社殿左手に七福神像

由緒

境内威神碑

いにしへの文化の花開いたと伝へるここ多珂の郷に白木の神殿を仰ぐ今よりおよそ1070年前すでに名神大社として延喜式神名帳に列しわが国屈指の古社として多くの多珂社の首位にあり旧号を多珂大明神と称し祭神をいざなぎいざなみの2神とし又は多珂あらみたまの命とする

景行天皇の40年7月(日本書紀)皇子日本武尊東夷征伐の勅命を奉じて陸奥に下り各地に転戦し給ひ軍を太田川のほとりに進められ戦勝祈願のために大明神川原(大明神橋の名も今に残る)の近く玉形山に神殿を創建し給ふ(社伝)

仲哀天皇7年2月(社伝)暴風雨のために社殿大破し9月芦野平(現在の城ノ内)に遷し奉る

爾来上下の尊崇厚く藩政時代明暦元年4月藩主相馬忠胤資財を献じて社殿を修理

元禄年中藩主昌胤白符鷹の彫刻を納め享保9年昌胤社田1石9斗余を寄進せらる

明治6年郷社に列し昭和19年10月県社に昇る

常に地方の政治信仰文化の中心であったがこのたびまた氏子一同相はかり由緒の碑をこのうぶすなの社地に建て永く大神のいや栄をことほぎまつるといふ

社伝によれば、創建は景行天皇40年頃。

日本武尊が軍を太田川のほとりに進めた時、戦勝祈願のため大明神川原の近く、玉形山に神殿を創建したのに始まるといいます。

大明神川原は、多珂神社の西、原町区高字古内にあるといいます。

境内威神碑には「大明神橋の名も今に残る」とありますが、近くにその名の橋はなく詳細不明。

古内地区に大文字橋ならあるのですが。

玉形山もどこを指すのかは不明。山というか丘なら、古内地区の西に丘陵地があります。

仲哀天皇7年2月に暴風雨で社殿大破。

同年9月に芦野平(現社地)に遷座しました。

延暦15年(796)、従五位下に叙されます。(日本後紀)

康暦2年(1380)に藤原吉守が鰐口を寄進し、これは本殿内陣に掛けられているといいます。

明暦元年(1655)相馬藩主相馬忠胤の資材寄進により社殿修理。

元禄年間(1688-1704)藩主相馬昌胤が白符鷹の彫刻を奉納。

元禄、宝永の式内社調査を経て、文化12年(1815)の調査では、「高村の鷹大明神にして光明寺境にあり、社領1石 別当真応寺」と報告され式内社 多珂神社に比定されます。

が、これに対し貴船神社の祠官高玉丹波から異議が呈され、論争が起こります。(貴船神社の記事参照)

明治になり、当社が式内社、ということで落ち着いたようです。

明治6年郷社、昭和19年県社に列格。

 

御朱印

御朱印はあります。

社務所で拝受可。

ただし、当社は通常人がおらず、祭日付近だけ禰宜さんがいらっしゃいます。いただけるのはそのタイミング。(とは言え出られていることもあるので、事前連絡が無難です)

年中行事日程は以下の通り。

1月1日、2日 初詣

2月27日 祈年祭

4月18日 例大祭

6月30日 大祓

10月18日 秋祭

なおこの日程は毎年不変です(休日に合わせてずれることはありません)。

相馬小高神社の兼務社ではありますが、通常そちらで御朱印がいただけるのかは不明。

アクセス

国道6号のこの交差点を西へ。しばらく行くと踏切があるので渡ります。渡った先、左手に大鳥居が見えるので潜って直進。しばし行くと社務所脇に至ります。

そこを少し過ぎて右折し、参道入口の向かいに駐車場。

社務所前にも停められるんですけどね(地元の人はそちらに停めてました)。

神社概要

社名多珂神社(たかじんじゃ)
旧称鷹大明神
住所福島県南相馬市原町区高字城ノ内112
祭神

伊邪名岐大神〔伊邪奈伎命、伊邪那岐命〕(神社明細帳他諸書)

いざなぎいざなみの2神(境内威神碑)

多珂荒御魂命(奥相志、境内威神碑)

社格等

式内社 陸奥国行方郡 多珂神社(名神大)

旧県社

御朱印あり
駐車場あり

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