多伎神社。
今治市古谷、集落の奥から山の中へ続く道を少し入った辺りに鎮座。
式内名神大社 多伎神社に比定される神社。
境内
大鳥居
扁額
石鳥居
社号標
狛犬
禰宜屋敷古墳群1号墳
当1号墳は多伎川の左岸に造られた古墳である。
現在6基が確認されている。
当1号墳は無袖の横穴石室で、副葬品には須恵器・土師器・直刀・轡・鉄鍛や身につける装身具が出土している。石室は全長7m・幅2mあり、天井高2mが考えられる。
墳丘は直径13m前後の墳丘高3~4mが想定される。
主軸方向は北30度東を採っている。
遺物は美術古墳館に展示。
杯状穴(性穴)遺構
杯状穴遺構は、古くは弥生時代から近現代まで続けられている文化遺産と言われています。一説によると、遺構の目的は、戦場や各地におもむいた男性の帰宅を求めた精神的な祈願行為で生じた”たたき穴”で、前者の祈願穴に結び祈願を続けたと言われています。
社頭
社前を多伎川が流れており、八雲橋という橋がかかっています。
多伎川
松茸石
多伎神社の陰陽石の一つである。
今治藩主の命により、江戸藩邸に運んだが、藩主夫人が発病したので夢占いによると、もとの多伎宮へ帰りたいという石の願いがあったので、また江戸からここへ帰すと、夫人の病はすぐ直ったという伝説がある。
手水鉢
注連柱
拝殿前の狛犬
脇参道の鳥居
脇参道
社殿
拝殿
扁額
本殿
境内社
天満神社
越智神社
大仲神社
『式内社調査報告』に、朝倉村岡文書『越智郡神社仏閣』の内容として「往古、波多(秦)の長者が当社を現在地に移してその跡には竜神を奉祀し、波多氏が代々の祭祀を司ったが、その末裔が大仲と改めた」旨が記載されています。当社はその大仲氏に関連する神社でしょうか。
一宮神社
清水神社
社殿横の灯籠のような祠
伊勢大神宮と彫られていました。
境内の小さな建物
休憩所でしょうか。
社務所?付近にある祠
多伎神社古墳群
境内奥には多伎宮古墳群が広がっています
古墳を示す札はぽつぽつ立っているのですがほとんど埋もれているような状態
札も倒れているのが多い…
これは割とはっきりとしていました
多伎神社古墳群は、多伎川の上流が形成した扇状地奥の谷部にあり、東西約300m、南北約100mの範囲に分布しています。この谷間に多伎神社と15基あまりの古墳があり、このうち横穴式石室をもつ円墳が3基開口しています。
中でも5号古墳は大きく、直径約15m、高さ3mあまりの墳丘をもっています。石室は、両袖式の横穴式石室で、全長は6.2m、玄室の長さ約5m、幅約1.5m、高さ約1.9mです。構造は持ち送り式で天井石を6枚使用しています。羨道部では天井石を3枚使用しています。
指定前にくずれていた古墳数基も横穴式石室であることから、現存する古墳も多くは同形式(6世紀後半-7世紀前半頃)のものと見られています。なお社殿裏の1号墳のみ、小石を積み上げて造った積石塚と思われ、他の古墳との違いが見られます。
由緒
御祭神 多伎都比売命 多伎都比古命 須佐之男命
当神社は文献に「瀧之神」とあり、往古奥の院の磐座の信仰に始まり、崇神天皇の御代饒速日命六代の孫伊香武雄命「瀧の宮」の社号を奉り初代の斎宮になられたと記されています。
清和天皇の貞観二年(西暦八六〇年)神階を賜わり、大三島さん、伊曽乃さんと相並んで数度に渉り昇格し貞観十二年正四位上に昇りました。(三代実録)
醍醐天皇の延喜年間(九〇五年)式内大社(伊予国に七社)に列格の光栄に預かり、皇室より久しく特別の待遇に浴し国司、守護職、領主をはじめ庶民の信仰を集めました。
江戸時代今治藩の祈願所として、雨乞祈願のたびごとに藩主の参拝あり、七日間の祈願は中日迄を本殿で、後半を奥の院の磐座にて一社伝来のしきたりによって執り行われ、必ず霊験をいただいたのであります。
広大な境内地の愛媛県指定史蹟三十数基の群集古墳からは古い歴史を由緒が伺われ、多伎川の清流と照葉樹を中心とした自然林は全国でも有数、まさに神様のお座します所であります。
創建時期は不詳。
社伝によれば、奥の院の磐座信仰に始まり、崇神天皇のときに饒速日命六代の孫伊香武雄命が「瀧の宮」の社号を賜り初代斎宮になったといいます。
その後大宝2年(702)に多伎神社に改称。
三代実録によれば、貞観2年(860)閏10月20日癸亥条に「授伊豫国従五位上瀧神従四位下」、同8年(866)閏3月7日壬子条に「伊豫国従四位下瀧神…従四位上」、同9年(867)2月5日乙亥条に「授伊豫国従四位上瀧神正四位下」、同12年(870)8月28日戊申条に「授伊豫国…正四位下…瀧神…正四位上」と、10年の間に4度の昇叙。この神階は伊予では大山積神・伊曽乃神に次ぎ、阿波・讃岐・土佐の一宮よりも一階級高いもの。安芸の厳島神社が貞観9年に従四位上だったといいますから、相当なものです。
延喜式神名帳においては「伊豫国越智郡 多伎神社」として名神大社に列しています。
一説には、越智氏の宗社大山祇神社が海上の大三島に鎮座していたため、陸地での祭祀のため代わりに多伎神社を祀ったともいわれます。
往古は別当寺が11寺(光林寺・竹林寺・歓喜寺など)あったと伝えられています。
江戸時代には今治藩の雨乞祈願所となり七日間の雨乞が行われました。前半は本殿で、後半は奥の院で行われたそうです。
幕末期だけでも文政6年、天保2年、嘉永5年、同6年の4回の実施が記録されています。
また社殿の造営も寛永13年をはじめ複数の記録が残ります。
明治4年には郷社、同13年には県社に列格。
かつては多伎宮、瀧宮牛頭天王、瀧宮、瀧神社、多伎宮牛頭天王等とも称されました。
『伊豫國神名帳』によれば多伎不断大願大菩薩とも。
祭神は現在、多伎都比売命、多伎都比古命、須佐之男命の三柱とされています。
『特選神名牒』ではこの中でも多伎都比売命を主神としています。
『豫州二十四社考』では牛頭天王。
『愛媛面影』では祭神不詳。或いは素盞嗚命。一説に大己貴女多伎比賣命。
奥の院
前述のとおり、当社の始まりは奥の院の磐座信仰と言われます。
この奥の院は川上巌(かわかみのいわお)、フスベ岩と呼ばれる巨岩。
場所は当社から多伎川を1kmほど上った地点の山中。現在は境外摂社・磐座神社という扱いになっているようです。
フスベ岩の場所は大体この辺り
(33度59分37.06秒 132度59分17.19秒、33.993629,132.988107あたり。Google mapリンク。埋め込みのGoogle mapは別ページで開くとピンが消えるのでよくないですね)
奥の院への道は以下の通り。
- まず多伎神社前の車道を山の方へ進む。
- しばらく進むと箒桜の立て看板があり、その少し先に山に入る道がある。
- その道に入って、多伎川沿いに進む(途中小さな沢を2つほど渡る)。
- しばらく行ったところで沢を右手に渡って急斜面を直登。
3の時点で山歩きに慣れていないと辛い道(高低差はないが足場不安定な箇所多数)で、案内板もないので道を知らないと迷う可能性もあります。4に至ってはロープを使って登る急斜面でかなりハードです(ロープがあるおかげでルートはわかりやすいですが)。
途中から分岐し、天道ヶ頭に登ってからフスベ岩まで下るルートもあります。ロープを使うほどの急登はありませんが、それなりにきつい道です。
以下は実際に行かれた方の記録。
YAMAPの方に載っている地図の行き(西側)が急登(ロープを使う)の最短ルート、帰り(東側)が天道ヶ頭経由のルートです。
社伝によれば、当社は往古、高市郷と朝倉郷の氏神で、ある時に一方の氏神にしようとなり、奥の院の岩の向いている方角で決めようということになりました。結果、岩は高市郷を向いていたので高市郷の氏神になった、といいます。
また、多伎神社から奥の院に至る参道にはかつて天然記念物の「箒桜」がありましたが、落雷で枯死してしまった模様。
文政6年の大旱魃で雨乞祈願をした際、神社と奥の院の中間ほどで神主が桜の枝を織って御座所を掃き、その枝を地面に刺したものが大樹になったとされています。
朝倉宮の伝承
地元の伝承では、斉明紀にある朝倉宮は筑前朝倉ではなく当地であったとされており、斉明天皇が当地の朝倉宮で崩御したと上朝倉の飯成神社(位置)の旧記に記されているのだそうです。
当地、旧朝倉村は和名抄に朝倉の名が見えるように古くから「朝倉」と呼ばれていたようであり、斉明天皇に関わる伝承もあるそうで(斉明という字名もあるんだとか)、何らかの関連があるようにも思えます。
四国では土佐の朝倉神社にも朝倉橘広庭宮の伝説がありますね。
御朱印
御朱印はあります。
姫坂神社にて拝受可。
アクセス
県道155号、鹿ノ子池から少し南東に行ったあたり(位置)で南西に曲がります。道端に「多伎宮」と書かれた小さい案内が立っています。
そのまま直進すると、前方に赤い鳥居が見えますので鳥居に向かって道なりに進みます。鳥居の先に進むと右手に社務所とおぼしき建物があります。そこの前に駐車できます。
社頭にも駐車スペースあり。
神社概要
社名 | 多伎神社(たきじんじゃ) | |
---|---|---|
通称 | – | |
旧称 | 多伎宮 瀧宮牛頭天王 瀧宮 瀧神社 多伎宮牛頭天王 多伎不断大願大菩薩 | |
住所 | 愛媛県今治市古谷乙47 | |
祭神 | 多伎都比売命 多伎都比古命 須佐之男命 | 現祭神 |
牛頭天王 | 『豫州二十四社考』 | |
素盞嗚命 | 『愛媛面影』 | |
大己貴女多伎比賣命 | 『愛媛面影』 | |
社格等 | 式内社 伊豫国越智郡 多伎神社 名神大 日本三代実録 貞観二年閏十月十七日癸亥 瀧神 従四位下 日本三代実録 貞観八年閏三月七日壬子 瀧神 従四位上 日本三代実録 貞観九年二月五日乙亥 瀧神 正四位下 日本三代実録 貞観十二年八月廿八日戊申 瀧神 正四位上 旧県社 | |
札所等 | – | |
御朱印 | あり(姫坂神社にて授与) | |
御朱印帳 | – | |
駐車場 | あり | |
公式Webサイト | – | |
備考 | 南西山中に「川上巌」「フスベ岩」と呼ばれる奥の院(磐座)あり |
参考文献
- 「多伎神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 「多伎神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
- 式内社研究会編『式内社調査報告 第二十三巻 南海道』皇學館大学出版部, 1987
- 谷川健一編『日本の神々 神社と聖地 第二巻 山陽・四国』白水社, 1984
- 明治神社誌料編纂所編『府県郷社明治神社誌料 下巻』明治神社誌料編纂所, 1912(国会図書館デジタルコレクション 330-331コマ)