伊曽乃神社(西条市中野甲)

伊曽乃神社。

西条市中野甲、伊予西条駅の南2kmほどの所に鎮座。

式内名神大社 伊曽乃神社に比定される神社で、戦前は国幣中社、現在は神社本庁の別表神社。

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参道

一の鳥居

 

参道

 

二の鳥居

 

二の鳥居前の社号標

 

狛犬

 

参道

正面に御神木の楠と手水舎。右手に神門。

 

手水舎の奥へ進むと注連柱

お祓いを受ける車用の入口のよう。

 

伊曽乃大社の碑

 

神門前の狛犬

 

神門

社殿

拝殿

 

本殿

 

拝殿手前に木花開耶姫命の像

境内社

御先神社

案内札

御先神社

祭神 猿田毘古神

天孫降臨にあたり御先導をされた国神

 

鎮守神社(又野神社)

案内札

鎮守神社(又野神社)

祭神 又野の村上平兵衛 宇高の高橋孫兵衛

仝 高橋彌一左衛門

宝暦3年(1753年)西条藩主頼淳公定府(江戸在住)で当時西条藩の苛政に窮苦した農民は藩庁に哀訴嘆願するも容れられず加茂川原に集まり強訴、三祭神は首謀者として捕らえられ宝暦4年江戸藩邸よりの御赦免状が間に合わず加茂川原で斬刑、後日藩公その死をあはれみ三公の霊を当社境内に祀る

 

瑞枝神社

案内札

瑞枝神社

祭神 祖霊並久門家祖神

神葬者霊魂に併せて天正の陣に歿せられし久門一族の祖神を祀る

 

山王神社

案内札

山王神社

祭神 大山咋神

明治42年船形の鎮守神を合祀

厳島神社

祭神 多紀理毘賣命 市寸島比賣命 多岐都比賣命

古く境内桜間の池に祀られた神と併せて下町厳島神社の仝祭神を併せて祀る

妙見神社

祭神 八千鉾神

大国主命のまたの名 古来縁結び、病気平癒の神として崇められ船形の鎮守神を合祀

 

山王神社の手前にはミニ狛犬

 

天満神社

案内札

天満神社

祭神 菅原道真公 大物主命 可々背男命 大山積命 神田大明神

古来天神さまとして崇められ文化11年(1814年)に勧請せられた

その后大正3年加茂村荒川鎮座天満神社を合祀す

学問の神様として合格成就に霊験あらたかである

 

加茂・神戸両郷内諸社遥拝所

境外末社の遥拝所だそうです。

 

境内社ではないですが、寒風山トンネルの岩塊

案内札

寒風山トンネルの岩塊

この岩塊は寒風山トンネルの坑内工事現場で採取され平成7年7月高知県との県境到達の記念として鹿島・大成共同企業体より当社へ奉納されたものです

石の名称 泥質片岩(黒色片岩)

石を採取した場所 四国山脈寒風山峰より地底まで890米 坑口より2849米の地点

神事 昭和63年10月22日 起工式安全祈願祭

   平成元年2月10日 作業坑口付安全祈願祭

   平成6年8月25日 2500米到達祭

   平成7年7月27日 県境到達記念安全祈願祭

 

神門の向かいに鳥居

境内社の古茂理神社の鳥居です。

 

案内札

古茂理神社

祭神 木花之佐久夜毘賣命

大山津見神の娘で石長毘賣の妹、美人の神様にて神武天皇の御祖々母にあたられ後世安産育児の神として信仰あり

中野村(現在の中野)の産土神

 

古茂理神社拝殿

 

古茂理神社本殿

 

古茂理神社のそばにあった社

 

案内板

国指定重要文化財

与州新居系図

これは、新居氏の一族である東大寺戒壇院の長老示観国師凝然が、弘安4年(1281)に伊予の豪族新居氏の家系を消息文の紙背へ詳細に書いたもので3.6メートル余りの横系図である。

伊曽乃神社の祭神である武国凝別命の子孫が新居氏とよばれ、系図には、上は一条天皇の頃から下は後宇多天皇の頃までおよそ300年間にわたって12世500人が書かれている。

この新居系図は、和気系図、海部系図と共に日本三大古系図とよばれている。

由緒

由緒板

伊曾乃宮畧記

祭神 伊曾乃神(天照大神 武國凝別命)

社格 名神大社 旧国幣中社

宝物 與州新居系圖(国指定重要文化財)

   伊曾乃大社祭禮繪巻(市指定文化財)

例祭日 十月十五日

成務天皇7年 137年 創祀

天平神護元年 765年 伊予国初の神戸(十烟)を授かる

仝2年 766年 全国初の神位(従四位下)に叙す

永治元年 1141年 神位(正一位)の極位に叙す

寛文10年 1670年 西条藩主松平頼純公より社地寄進さる

昭和15年 1940年 國幣中社に列格

昭和57年 1982年 皇太子(浩宮親王殿下)御親拝

当社は第12代景行天皇の皇子武國凝別命が伊予の国土開発の大任をおび此の地に封ぜられた時伊勢神宮より天照大神を奉斎し此の地に祀る後に命の子孫である伊予三村別氏により天照大神と始祖武國凝別命とを合わせ祀り伊曾乃神と称するを神社のはじめとす

奈良時代には皇室の尊崇厚く新羅遠征や南海道の海賊平定などの国家的行事の奉幣祈願が数多く斎行され伊予国第一の大社として社運隆々と栄え全国で始めて神位を授かるに至る

また延喜式神名帳にも名神大社としてその名を知られる

江戸時代には絢爛豪華な祭禮で知られるだんじりみこしの奉納がはじまり歴代藩主からも手厚く保護され今なお連綿と当時の時代絵巻を受け継いでいる

昭和15年 県社から國幣中社に昇格し社殿は入蜻蛉造から現在の神明造に改められ当時のままに伊予国有数の古社として威容を保っている

創建は社伝によれば成務天皇28年(158)。

景行天皇の皇子武国凝別命(御村別の祖)が当地開拓にあたり、皇祖天照大神を祀ったことに始まるといいます。

 

神社の由緒書によれば「命の御子孫は伊予三村別氏としてこの地方にひろがり栄え、天照皇大御神に始祖武國凝別命をあわせ祀りました。これが当社の創祀であります」。

ただ、武国凝別命も成務天皇も景行天皇の子のため、成務天皇28年の時点で既に武国凝別命が始祖として扱われているとは考えづらいです。成務天皇28年には武国凝別命が天照大神を祀ったのが当社の原型で、その後子孫の御村別氏が武国凝別命を合わせ祀ったのが現在の祭神となった始まり…ではないでしょうか。

 

新抄格勅符抄によると、天平神護元年(765)に神戸10烟を授けられたとあります。

続日本紀 天平神護2年には「伊豫国神野郡伊曽乃神…授従四位下。充神戸…五烟」と、我が国初の神位奉授の記録があります。

三代実録 貞観8年(866)閏3月7日壬子条に「伊豫国従四位上礒野神…授正四位下」同12年(870)8月28日戊申条に「授伊豫国…正四位下礒野神…正四位上」同17年(875)3月29日壬子晦条に「授伊豫国…正四位上礒野神…従三位」と昇叙を重ねます。

承平4~5年(934~935)に海賊平定の御祈願の奉幣があり(『日本紀略』『本朝世紀』)、海賊鎮圧の功のためか天慶3年に正二位に昇叙(『長寛勘文』)。

その後、国内諸神同時増階の類例から、永保元年(1081)に従一位、永治元年(1141)に正一位を授けられたと推定されているようです(『伊曽乃神社志』)。

延喜式神名帳では「伊豫国新居郡 伊曽乃神社」として名神大社に列しています。

 

崇徳天皇の御祈願と共に勅額を賜ったそうですが、その後の戦乱で大破。後に回収され、現在は社宝になっています。

 

天正13年(1585)に小早川勢の進攻により社殿は焼失。

当社社家は兵火を免れた御神体を土佐国寺川村(現高知県吾川郡いの町寺川)に奉遷。

慶長11年(1606)に神宮寺金光院の跡地である現在地に遷座。

 

正保年間(1644~48)以降、神領がない状態にあったものの、寛文11年(1671)西条藩主松平頼純が社領高三石を寄進。以降も藩主の崇敬があり、寄進が続いたようです。

 

明治初年には「伊予国第一県社」に指定されますが、その時点で祭神不詳とされていたため官社には認められず。

明治神社誌料に「天照大御神 一座神不詳」とあるので、明治末の時点でも明示していなかった様子。

その後の昇格運動の末、昭和15年にようやく国幣中社に昇格。祭神を伊曽乃神と称するようになりました。

 

なんでも最近は、「ISOの神社」の語呂からISO取得成功・永続祈願もしているそうです。

 

 

なお、上述の通り三代実録では「礒野神」、類聚国史では「磯野神」の表記。伊曽大明神社、伊曽乃宮、磯野大明神とも称したとのこと。

「いそ」は「いさ」の転訛で、「いさ」は神聖の意。よって伊曽乃は神野であり、神野に鎮座する神ゆえ伊曽乃神社という、という説があります。

この説に基づけば、伊曽乃神という神名も祭神固有の名称ではなく、伊曽乃(神野)に坐す神という意味だと考えられます。

 

祭神は、天照大神荒魂と武国凝別命。二柱を「伊曽乃神」と総称しています。

 

社伝および旧記によると、祭神ははじめ一座で伊曽乃神といったといい、そのはじめの一座は主神天照大神の荒魂で、後に武国凝別命を加えて二座となったといいます。

天照大神は本殿内陣の正中に奉斎され、武国凝別命はその左に奉斎されているのだそうです。(『西条市誌』)

これに基づけば伊曽乃神=天照大神荒魂ということでしょうか。

 

『大日本南海道伊与国古神社祭神禄』『延喜神名式比保古』等では天照大御神・武国凝別命としています。

天正期に社殿等一切を焼失の後は、「不奉窺」「御神名不知」とされました。

しかし、天保13年(1842)の『西條誌』巻之八・伊曽乃神社の項には、祭神として、天照皇太神と別雷尊が記されています。

 

 

この時点では祭神から武国凝別命が外され別雷尊が加えられていたのか、あるいは書き間違いなのか。

和名抄に新居郡賀茂郷の名が見えたり、社前の川は加茂川であることから、往古より賀茂氏の影響下にあり元来別雷尊は祀られていたのか。

 

ちなみに上掲西條誌の伊曽乃神社項には「同書(※続日本紀)孝謙紀ニ云、天平宝字二年三月壬午、伊豫ノ國神野ノ郡ノ人少初位上ノ賀茂直馬主等、賜フ賀茂伊豫ノ朝臣ノ姓ヲ、同書稱徳紀ニ云、神護景雲二年夏四月乙酉、伊豫ノ國神野ノ郡ノ人賀茂直人主等四人リニ賜フ姓伊勢賀茂ノ朝臣ヲ」との記述もあります。

天正の兵火でそれ以前の記録は全て燃えてしまった以上正確なところはわからないのだと思いますが…

 

この祭神のことを含む伊曽乃神社のことについては以下のサイトにて詳しく述べられています。

 

民間伝承「石鎚神社の投石」

民間伝承では、伊曽乃の神は女神だそうで、次のような話があります。

 

昔、石鎚の男神と伊曽乃の女神が加茂川のほとりで出会い、恋仲となり女神は結婚を迫るのですが男神は石鎚山での修業があるため断ります。石鎚山は女人禁制のため同行はできず。

そこで男神は「山頂から三つの大石を投げるので、真ん中の石が落ちたところに館を建てて待つように」と言って山に登ります。その後三つの石が飛んできて、真ん中の石が落ちたところに建てられた館が伊曽乃神社の始まりである、と。

それから男神は修業を終えて、無事に女神と結婚したのだそうです。

修業中、「もしも女神がこの山にのぼってきたらどうしよう」と気が気でなかった男神は天に逃げ登ろうとして思わず右足をあげてしまったので、石鎚大権現の像は右足をあげているのだ…なんてエピソードも織り込まれていて何だか微笑ましい言い伝えです。

 

一の鳥居脇にあるこの巨石が、飛んできた真ん中の石と言われる「石鎚神社の投石」

案内板などはないのでちょっとわかりづらいかも。私も参拝時は知りませんでしたが、意味ありげに置いてあったので撮っておきました(よかった)。

御朱印

御朱印はあります。

境内社の古茂理神社の御朱印もあるようです。

社務所で拝受可。

アクセス

国道194号の国道11号との交点(加茂川橋交差点)より少し手前あたり(位置)を南へ入ります。

直進すると鳥居がありますので、その右脇の道を進みます。100mほど先に駐車場案内があるので、それに従い左に折れ、参道を横切って150mほど行くと駐車場入口(位置)があります。

神社概要

社名伊曽乃神社(いそのじんじゃ)
通称
旧称

礒野神

磯野神

伊曽大明神社

伊曽乃宮

磯野大明神

住所愛媛県西条市中野甲1649
祭神

伊曽乃神

(天照大神の荒魂・武國凝別命の総称)

現祭神

天照皇太神

別雷尊

『西條誌』
社格等

式内社 伊豫国新居郡 伊曽乃神社 名神大

続日本紀 天平神護二年四月甲辰(十九) 伊曾乃神 従四位下

日本三代実録 貞観八年閏三月七日壬子 礒野神 正四位下

日本三代実録 貞観十二年八月廿八日戊申 礒野神 正四位上

日本三代実録 貞観十七年三月廿九日壬子晦 礒野神 従三位

旧国幣中社

別表神社

札所等
御朱印あり
御朱印帳
駐車場あり
公式Webサイトhttp://www.isonojinja.or.jp
備考

参考文献

  • 「伊曽乃神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
  • 「伊曽乃神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
  • 式内社研究会編『式内社調査報告 第二十三巻 南海道』皇學館大学出版部, 1987
  • 谷川健一編『日本の神々 神社と聖地 第二巻 山陽・四国』白水社, 1984
  • 明治神社誌料編纂所編『府県郷社明治神社誌料 下巻』明治神社誌料編纂所, 1912(国会図書館デジタルコレクション 335コマ