朝倉神社。
高知市朝倉、高知大学朝倉キャンパスの北東に鎮座。
式内社 朝倉神社に比定される神社で、一説に土佐国二宮ともいわれる神社。
境内
社号標
重要文化財 朝倉神社本殿 の碑
参道入口
参道入り口の狛犬
一の鳥居
二の鳥居
三の鳥居
手水舎手前の狛犬
手水舎
四の鳥居
拝殿手前の狛犬
社殿
拝殿
扁額
本殿
明暦3年(1657)に2代土佐藩主山内忠義による再建。
由緒書によれば「建て方は切妻造り、唐破風の向拝を付けた珍しい形式。鋭角と直線の上部とは対照的に曲線的な唐破風は優雅。虹梁や斗供、蟇股…細部の造りも堅実且つ精緻。ところどころに極彩色だったという往時をしのばせる白、朱、緑の彩色。抑えた色だ。日本古来の様式の本殿は、神さびて、秀麗」。
建築様式は桃山時代のもの。実際の建築年代(明暦)より様式が古いのは土佐が中央から遠いために中央文化が普及するのに時間がかかったためだそうです。また、「馬には目隠しをしなければ、まばゆさに驚き通れなかった」との伝えもあります。
昭和の頃は傷んでだいぶ剥落していたようですが、平成に修理され、現在の綺麗な姿に。平成2年に修復が行われ、東照宮と同じ塗料が使われた、との情報がネット上で見受けられました。由緒書には平成6年の修復と記載があり、二度行われたのか、あるいは平成2~6年に渡って行われたのかは不明。
境内社
社殿左手
荒倉神社
荒倉神社狛犬
忠魂社
忠魂社狛犬
社殿右手
境内社の鳥居
鳥居前の狛犬
阿形の方はかなり欠けています。
倉稲神社
倉稲神社狛犬
八坂神社
ここだけ狛犬なし。
勅使石
神体山・赤鬼山
境内左手、境内社の横に神体山・赤鬼山の碑
標高約100mの赤鬼山は、古くより朝倉神社の御神体といわれており遠くからみると美しい円すい形の山容をなしている。このような山は、ときに奈良県の三輪山と同じように神のこもる神奈備山と呼ばれることがある。山の中腹から弥生中期の土器も発見されている。神奈備山として県史跡に指定されている。
赤鬼山(あかぎやま)の名は、斉明天皇崩御時に天皇の葬儀をうかがった鬼に由来するとか、山麓の朝倉古墳(後述)に住んだ鬼に由来するとかの説があります。この鬼とは何を示しているのか。山から葬儀の様子をうかがうというのが、何とも言えない不気味さを感じます。
碑の横に登山道らしき石段があるのですが、すぐに道が途切れてしまいます。
社務所で聞いてみると、登山口は神社から少し西に行ったところにあるとのこと。神体山ですが、特に禁足地ではないようです。
その登山口は朝倉古墳の入口からちょっと西(位置)。向かいに駐車場がありますが、月極っぽいので神社のを借りて歩いたほうがいいです。
ここから入ります
この登山口にも朝倉神社神体山の碑があります
しばらく舗装路を進み…
右手足元に小さな朝倉神社の碑がある辺りから登れそうだったのでここから登りました
実際にはもう少し進んだ辺りに神体山の碑があり、そこが登山口のようです。
木の間の緩い斜面を登っていきましたが、これが登山道なのかは不明。蜘蛛の巣だらけでした。
この辺が山頂だと思われます
特に何もありません。ビニール袋は目印なのかゴミなのか…
神社側に降りていくと朝倉神社神体山と書かれた標柱が建っています
近くの木とビニール紐が掛けられ注連柱のようになっていました
朝倉古墳
赤鬼山登山口の付近に、土佐三大古墳の一つ、朝倉古墳が存在します。県指定史跡で、円墳でしたが開墾時に削平され横穴式石室が露出しています。朝倉神社や朝倉古墳の存在から、赤鬼山を中心に古代豪族が成長したと考えられています。
登山口の50mほど手前、この階段を降ります(道路の反対側に案内あり)
膝下くらいまで草に埋もれていますがここを通ります
朝倉古墳
開口部と石室
朝倉古墳は、南国市岡豊町の小蓮古墳、中村市の古津賀古墳と並ぶ土佐の代表的な後期古墳のひとつである。封土は取り除かれ石室の石組は露出しているが、構造は両袖の横穴式石室である。遺骸を安置する玄室の奥壁は一枚岩で、長さ五・四m、高さ二・四m、側壁は二枚の石で二段積みである。玄室と外部との通路である羨道は、現存部で長さ二・六m、幅二・一三mを測る。
明治の初期に発掘され、須恵器・馬具などが発見されたといわれるが、遺物は存在しない。構築時期は石室構造からみて七世紀前半と考えられる。
由緒
朝倉神社は天津羽羽神と天豊財重日足姫天皇を祭り福寿延命の神、文化の神治政の神であります。
上古社の御山は開発の神である天津羽羽神のヒモロギ(神体山)として御山全体を崇教の対象として畏敬せられ、やがて文化に伴い朝日さす南東の麓より拝むべく現在の所に社殿を建てられたので此の赤鬼山こそ古代宗教の名残りで県指定の史跡地で西南隅麓の古墳と共にゆるがせに出来ない土地柄であります。天津羽羽神は古代より此処に鎮座まします国中稀な古社で、後の世の遷座とか御分神とかではなく、極めて深い由緒をもち土佐の国風土記や、日本書紀等の古典にも載せられ、又延喜年間の神名帳にも国幣として登載せられた所諭式社であります。
斉明天皇七年朝倉宮に行幸せられ仮の御殿を丸木で造られたので木の丸殿と申されました。御子天智天皇は「朝倉や木の丸殿に我居れば名乗りをしつつ行くはたが子ぞ」と御詠みになられておられます。そしてのち天智天皇の勅語により斉明天皇を朝倉の宮に合せ祀られたとの事であります。又土佐物語には朝倉神社の事と題し一巻を面白く物語っております。当神社はもと勅願所で当時使用せられた勅使石は今に残って居りますし、又国の祈願所で正一位高加茂大明神橘の広庭の宮とも申しました。又武家の崇敬もあつく現在の社殿は二代忠義公が明暦四年に傾いたのを興されたものであります。建築は室町時代の手法を含む江戸初期の建物で、日本古来の様式に唐天竺の様式を加味して絶頂の技をつくし極彩色のところなどは日光東照宮の例でその優美さは「馬には目かくしをしなければまばゆさに驚き通れなかった」と伝えられ地方には珍らしい模範的建物であります。
昭和二十四年二月十八日国宝に指定され同二十五年八月二十九日重要文化財に指定されました。
先賢谷秦山先生は式社考で深く考証せられ、又藤原雅澄先生は「天津羽羽神のちはひと千世はへむのむみ民等の心足らひに」と其の神徳を高く尊く詠まれております。夏祭りは七月廿四日で当日参道に設けられる明治初期画匠巨作の台提灯と祭神女神にちなむ活花奉納演芸等は夏の夜の美しい饗応であります。例祭は十一月十日で行事があります。
創建時期は不詳。
日本書紀によれば、斉明天皇7年(661)、天皇は百済救済のため難波を出帆して西征の途につき、伊予熟田津を経て娜大津に至り、朝倉橘広庭宮を本営としたとされます。また、「天皇、朝倉橘広庭宮に遷りて居ます。是の時に、朝倉社の木を斮り除ひて、此の宮を作る故に、神忿りて殿を壊つ。亦、宮の中に鬼火見れぬ。是に由りて、大舎人及び諸の近侍、病みて死れる者衆し」とあり、社の木を切って朝倉宮を造営したために神が怒り災いが起ったとあります。
この朝倉橘広庭宮について通説では、福岡県朝倉市山田あるいは須川が、朝倉社は麻氐良布神社(福岡県朝倉市、式内社)が比定されています(百済救済軍派遣のために遷ったことから考えても筑紫が妥当)。
しかし、風土記逸文や延喜式に朝倉神社が見えることから、古来より資料に土佐説が散見されます。
当地の伝説では赤鬼山の木を切って山麓に営んだのが朝倉宮とされています。木の丸様という呼び名も、赤鬼山から伐り出した丸木による俄造りの橘広庭宮を「木の丸殿」と称したとする伝承に由来するそうです。つまり、こちらでは朝倉橘広庭宮・朝倉社=朝倉神社ということになっているようです。
筑紫説が定説ではありますが、土佐朝倉説は伝承として根付いています。
当地には干娜大津・苅谷ヶ崎・橘谷(宮谷)・小屋谷・釣井元・除岩・張規(針木)・小磐嶽・陵などの行在所にまつわる地名が残り、神社南にある鵜来巣(うぐるす)山に斉明天皇の陵があるともいわれています。鵜来巣山には今でも入ることはできないとか。
新古今和歌集に収録の天智天皇の和歌「朝倉や木の丸殿にわがをれば名のりをしつつ行くは誰が子ぞ」も一般的には筑紫にいたときの歌とされていますが、土佐では、鵜来巣山の麓にあった苅萱関を通過するときに名乗りをして通ったために詠まれた歌という伝えがあるのだそうで。
祭礼の際、鵜来巣山に神幸することがあったといい、『朝倉宮縁起』には「むかしは當社此山に建立なりけるをいつれの時にか今の地に移り奉りし故ニ今にいたるまて祭禮の時神輿此山へミゆきありて旅所に准セらる」とあります。斉明天皇伝説によるもののようですが、あるいはかつては本当に鵜来巣山に鎮座していたのかも。
現在のうぐるす緑地が鵜来巣山だと思われます。ただ、陸軍の土採りによって山の形は変わってしまっているとのこと。
延喜式神名帳にみえる「土佐国土佐郡 朝倉神社」は当社に比定されています。
戦国時代に神社南方に朝倉城を築いた本山梅慶は、赤鬼山の木を伐採して災害にあったため、村民は伐木を忌むようになったといいます。
江戸時代の明暦3年(1657)、藩主山内忠義が神社を再興。
明治5年県社列格。
村民はこれを不服とし、教部省へ官国幣社への昇格を願い出るものの認められず、県社に留まりました。
当社は土佐二宮とされることもあります。これは祭神が一宮の后神のためとも、宮居が高大で祭儀も古風を伝え万事一宮についでいたためとも。
国内祈願を土佐神社と交代で行ったともいいます。
ただ、土佐二宮は現在一般に小村神社とされています。
11月23日の秋祭り(幣殿での祭祀は11月10日)では、「なんもんで踊り」が奉納されます。
これは「なんもんで(南無阿弥陀仏)」と唱えながら、太鼓と鉦と扇を持った老若男女が踊るもので、高知県下に広く行われる「こおどり」の一種。ただ、現在は少年少女によって行われるそう。
高知市指定の無形文化財となっています。
現祭神は天津羽羽神と天豊財重日足姫天皇(斉明天皇)。
土佐国風土記逸文に「土左の郡。朝倉郷あり。郷の中に社あり。神のみ名は天津羽羽神なり。天石帆別神、今の天石門別神のみ子なり」と記載があります。
天津羽羽神は朝倉郷の開拓神であると伝えられ、元来の祭神はこの神のみだったと考えられるとのこと。
この天津羽羽神については色々と説があります。
『皆山集』では味鋤高彦根命の后神は天御梶日女神であると述べ、その天御梶日女神は天津羽羽神と同一神としています。また、天津羽羽神の別名として、阿波咩命、阿波々神、阿波神を挙げています。
風土記逸文に見える天石帆別神を天津羽羽神の別名とする説もあります。
斉明天皇については、天智天皇の勅語によって合祀されたとされています。
御朱印
御朱印はあります。
社務所で拝受可。
私の参拝時には社務所に宮司さんがいらしたのでいただけましたが、お留守の時もあるようなので事前連絡を入れた方がよいかも。
アクセス
JR朝倉駅の150mほど西(位置)を北に入ります
その先JRの踏切を渡ると正面が参道。
車は参道進入禁止、その左脇の道(上画像)をしばらく進むと駐車場があります
神社概要
社名 | 朝倉神社(あさくらじんじゃ) | |
---|---|---|
別名 | 木の丸様 | |
旧称 | – | |
住所 | 高知県高知市朝倉丙2100 | |
祭神 | 天津羽羽神 天豊財重日足姫天皇〔斉明天皇〕 | 現祭神 |
味鋤高彦根命 | 『朝倉宮縁起』 | |
天御梶日女神 | 『皆山集』 | |
社格等 | 式内社 土佐国土佐郡 朝倉神社 土佐国二宮 旧県社 | |
札所等 | – | |
御朱印 | あり | |
御朱印帳 | – | |
駐車場 | あり | |
公式Webサイト | http://asakurajinja.yamanoha.com/ | |
備考 | 神社背後の赤鬼山が神体山 |
参考文献
- 「朝倉神社」ほか, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 「朝倉神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
- 教部省編『特選神名牒』磯部甲陽堂, 1925(国会図書館デジタルコレクション 440コマ)
- 式内社研究会編『式内社調査報告 第二十三巻 南海道』皇學館大学出版部, 1987
- 谷川健一編『日本の神々 神社と聖地 第二巻 山陽・四国』白水社, 1984
- 明治神社誌料編纂所編『府県郷社明治神社誌料 下巻』明治神社誌料編纂所, 1912(国会図書館デジタルコレクション 406-407コマ)