多家神社(府中町宮の町)

多家神社。

府中町宮の町、榎川沿いに鎮座。

式内名神大社 多家神社並びに安芸国総社の後継社。

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境内

社号標

「延喜式内名神大多家神社」「神武天皇東征御留蹕霊地」と2面に書かれています。

 

手水舎

 

狛犬

後でGoogleマップを見ていて気付きましたが、えの宮公園の入口にも狛犬がいるようです。

 

表参道一の鳥居

 

鳥居扁額

表裏両側にあり。裏側の扁額は「二品熾仁親王謹書」とあるので、表の扁額は有栖川宮熾仁親王によるものでしょう。

 

階段上二の鳥居

 

手水舎

 

式内社 古事記・日本書紀ゆかりの地碑

 

神馬像が2体も

 

狛犬

 

境内図

社殿

注連石と拝殿

 

拝殿

 

扁額

 

拝殿脇に狛犬

顔は擦り減ってしまっています。

 

中門

 

本殿

境内社等

石段下、えの宮公園の方にある貴船神社

 

社殿右手の天神社

 

宝蔵

県指定重文なんですが、修理中でした。

 

多家神社の宝蔵

この宝蔵は明治7年(1874)の多家神社創建に際して移築された広島城三の丸稲荷社の社殿の1棟である。

校倉造と呼ばれる建築様式で、太い材木(校木)を四方に組上げて壁とする建築方式である。柱はなく、壁が桧皮葺の屋根を支えており、通気性がよく宝物の保存に適している。一般的な校倉造では組上げる校木に三角形に近い五角形の材を使うが、この校倉は四角形に近い六角形の材を用いている。これは「信貴山縁起絵巻(国宝)」に描かれているものと同じであるが、現存する校倉では外に例がない。江戸時代後期の校倉の好例であるといえる。

この宝蔵は、収蔵されている神輿や校木形状の希少性だけではなく、現存する数少ない広島城の建築物としても重要である。

 

神楽殿

 

神輿蔵

神武天皇聖蹟顕彰碑

多家神社南西に神武天皇聖蹟顕彰碑が建っています(位置)。

駐車場はないので多家神社から歩きましょう。

 

碑は草むらの奥にあります

 

神武天皇聖蹟 埃宮 多祁理宮 顕彰碑

由緒

※どちらの由緒も内容同一

由緒板

安芸国開祖 多家神社(埃宮)

主祭神 神武天皇(神倭伊波礼毘古尊、勝利開運、事始、政治の神)

    初代天皇(紀元前六六〇年即位)

    安芸津彦命(安芸国の開祖神)

相殿神 神功皇后(第十四代仲哀天皇の皇后){交通、厄難除}

    応神天皇(第十五代天皇)     {安産、育児の神}

    大己貴命(大国主神、招福開運、商業、医薬、健康、縁結びの神)

摂末社 貴船神社(高竜神、別雷神、大山津見神)

由緒

この地は、神武天皇が日本を平定するため御東征の折、お立ち寄りになられた所と伝わる。『古事記(七一二年完成)』に阿岐国(安芸国)の多祁理宮に神倭伊波礼毘古命(神武天皇)が7年坐すとあり。『日本書紀(七二〇年完成)』には埃宮に坐すとある。この多祁理宮あるいは埃宮という神武天皇の皇居が後に当社となった。平安時代になると、菅原道真が編し始めた「延喜式」(九二七年完成)に安芸国の名神大社三社の一つとして多家神社の名が記され、伊都岐島神社(厳島神社)、速谷神社とともに全国屈指の大社とあがめられた。当時の主祭神は安芸国を開いた安芸津彦命ほか六柱の神々であった。中世になると武士の抗争により社運が衰え、江戸時代には南氏子(松崎八幡宮)と北氏子(総社)に分れ、互いに多家神ないし埃宮を主張して論争対立が絶えなかった。そこで明治六年(一八七三)になって、松崎八幡宮と総社を合わせ、「誰曽廼森」(現在の社地)に、旧広島藩領内で厳島神社に次いで華美を誇った、広島城三の丸稲荷社の社殿を移築して多家神社を復興した。明治7年県社となった。その後、多くの村内小社を廃して多家神社に合祀した。大正四年(一九一五)九月、社殿を焼失したが、全県的な奉賛を得て大正十一年四月、今日の本殿、拝殿などを再建、境内の整備を行った。なお、境内の宝蔵は三の丸稲荷社より移築した社殿の唯一の遺構であり、今となっては広島城内にあった現存唯一の建物として貴重である。

現在、県指定文化財となっている。

たれその森について 「誰曽廼森」と記されている。神武天皇が、当地の者に「曽は誰そ」とお尋ねになったことからこの名がついたといわれている。

延喜式神名帳に見える、当初の多家神社の創建時期は不詳。

 

当地は神武天皇が東征の際に立ち寄ったとされる場所。

古事記では、阿岐国多祁理宮に7年、日本書紀では、埃宮に2か月ほど滞在したとされています。

この多祁理宮あるいは埃宮が、多家神社になったとされます。

(多祁理宮は、土佐国安芸郡の多気神社〔現:多気坂本神社〕との説もあり)

 

延喜式神名帳においては「安芸国安芸郡 多家神社 名神大」として安芸国名神大社三社の1つとされ、当時の祭神は安芸国開祖安芸津彦命他6柱だったとされます。

この安芸津彦命を、三代実録 貞観9年(867)10月13日戊寅条にみえる「授安藝国…従五位上安藝都彦神正五位下」の安藝都彦神にあてる説もあるようです。

また、当社の元社のうちの一つである総社の祭神であった(と芸藩通志に記載されている)椙樌明神と風伯明神の二神も、三代実録にみえる榲樌神、風伯神である説もあります。

椙樌明神と風伯明神が上述の「他6柱」に入っていたのか、あるいは総社だから他に鎮座していた二神も祀っていたのかは不明(後者の場合、国史見在社としての二社は別にあることになる)。

 

後に衰退し所在不明となり、江戸時代になると南氏子の松崎八幡宮と北氏子の総社が式内多家神社を主張して論争が絶えなくなりました。

明治になり、広島県の斡旋によって、両社の中間地点かつ神武天皇駐蹕所の伝説をもつ誰曽廼森に新たに多家神社を造営することが決定。

(誰曽廼森〔たれそのもり〕:神武天皇が滞在時、当地の人に「曽は誰そ」と尋ねたことに由来する名前)

明治6年(1873)に教部省認可が降り、廃祀となる広島城三の丸稲荷社を移築、明治7年(1874)に移築完了し創建、同年県社に列格しています。

松崎八幡宮と総社の古文書や古記録は紛争の元になるという理由から両社の古文書・古記録の類は全て焼却されてしまったということです(両社は多家神社創建に伴い廃社)。

なお『明治神社誌料』によると「明治4年郷社に列し」とあるのですが、この年は多家神社の創設が決まり神祇官の許可を得たという段階で、まだ神社は造営されていないはず。創設が決まった時点で社格も定められたのか、あるいは廃社にされた2社いずれかの社格だったりするのか(同書は事情を慮っているのか、多家神社項にて松崎八幡宮と総社について一切触れていない)。

 

社名の読みはオオイエ、オオノミ等諸説ありますが、現在はタケ説が有力で、当社の正式な社名も「たけじんじゃ」となっています。

 

御朱印

御朱印はあります。

社務所で拝受可。

アクセス

広島駅から県道70号を東へ行き、府中大橋を渡ります。

橋を渡ってすぐ先の大通り1丁目6番交差点(位置)を北へ曲がり、県道272号を進みます。1km弱行くと左手に府中町歴史民俗資料館があります(位置、ただし近いうちに移転となる模様)。その向かい(東側)が神社です。

駐車場は表参道(階段下)の社務所前とか、えの宮公園側とか(多分一の鳥居を潜って入れるはず…)。裏参道(階段上)の参道脇も駐車可のようです。えの宮光園の北(位置)から脇道に入り、100mほど先で右斜め後ろに折り返して上ると境内に出られます。

神社概要

社名多家神社(たけじんじゃ)
別名埃宮
旧称
住所広島県安芸郡府中町宮の町3-1-13
祭神

神武天皇

安芸津彦命

相殿

神功皇后

応神天皇

大己貴命

社格等

式内社 安芸国安芸郡 多家神社 名神大

日本三代実録 貞観元年正月廿七日甲申 多家神 従五位上

日本三代実録 貞観元年四月廿七日壬子 多家神 従四位下

日本三代実録 貞観九年十月十三日戊寅 安藝都彦神 正五位下

日本三代実録 貞観九年十月十三日戊寅 榲樌神 従五位下

日本三代実録 元慶七年十二月廿八日庚申 風伯神 従五位下

安芸国総社(合祀)

旧県社

札所等
御朱印あり
御朱印帳
駐車場あり
公式Webサイトhttp://www.takejinja.net
備考

参考文献

  • 「多家神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
  • 「多家神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
  • 式内社研究会編『式内社調査報告 第二十二巻 山陽道』皇學館大学出版部, 1980
  • 谷川健一編『日本の神々 神社と聖地 第二巻 山陽・四国』白水社, 1984
  • 明治神社誌料編纂所編『府県郷社明治神社誌料 下巻』明治神社誌料編纂所, 1912(国会図書館デジタルコレクション 82-83コマ