地御前神社(廿日市市地御前)

地御前神社。

廿日市市地御前、広電宮島線地御前駅の南500mほどに鎮座。

厳島神社の境外摂社で、かつては厳島神社の外宮と称されていた神社。

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境内

神社前、線路の向こう側に広がる海

画面右端の島がおそらく宮島。

 

線路向こうから見た社地

 

神社右手の方に歩行者用踏切があります

 

神社前の道路、すぐ南にある外宮橋

 

鳥居海側から

扁額は「厳島外宮社」

 

鳥居神社側から

扁額は「地御前神社」

 

狛犬

 

手水鉢

 

由緒書?

 

井戸?

社殿

拝殿

江戸時代頃までは社殿のすぐ手前まで海が迫っており、鳥居は厳島神社のように海中に建っていたのだそうです。

 

本殿

大きな拝殿が前にあるので、全容を収めることはできません。すぐ後ろをJRの線路が通っています。前方を広電、後方をJRに挟まれている境内です。

境内社

御客人宮

御祭神は天穂日命、活津彦根命、正哉吾勝勝速日天忍穂耳命、天津彦根命、熊野櫲樟日命で、厳島神社の御客人宮と同じ。

由緒

厳島神社摂社 地御前神社々記

広島県佐伯郡廿日市町地御前鎮座

一.御祭神

御本宮は厳島神社の御本宮の御祭神と同じく、市杵島姫命を中心として、田心姫命、湍津姫命の所謂宗像の三女を奉斎せり。御客人宮の御祭神は厳島神社の御客人宮の御祭神に同じ。

二.御由緒

御鎮座の年代は祥らかならざるも、社伝には厳島神社、(御本宮、内宮)と同じと云ひ伝えられ、即ち御本宮御鎮座の年、推古天皇の端正元年大歳葵丑の年である。明治御維新までは、厳島神社御本宮を内宮、地かたの御前の御本宮を厳島外宮と称えたり。御奉斎の厳島大明神は「道主貴」と称え奉り、専ら、天孫を助け奉り、常に天孫の為めに、海陸の安全を斎ひ奉り給ふ神なれば、古来皇室及国家の鎮護、海陸の守護神として、盛んに、上下の尊信敬拝を受けさせ給ふ。厳島御本宮の御鎮座記によれば、佐伯の郡の住人佐伯鞍職に幽事を治め、百王を鎮護す。と示現ありしと云ふ。この御鎮座の所を合浦といふ。

三.祭日

陰暦五月五日御陵衣祭。雅楽舞「後の舞」。流鏑馬神事あり。端午の節句。

陰暦六月十五日管弦祭御洲堀神事。

陰暦六月十七日厳島御本宮管弦祭。

社伝によれば創建は厳島神社と同じ推古天皇元年(593)。

明治以前は厳島神社を本宮・内宮と称し、当社を外宮と称していたといいます。

 

仁安3年(1168)の『伊都岐島社神主佐伯景弘解』には、外宮分として六間一面桧皮葺宝殿と三間一面同宝殿をはじめ19宇の社殿が挙げられており、また御旅所や神宮寺等も有する壮大な神社であったようです。

 

明治5年(1872)に地御前村共有社外宮神社として独立、村社に列格。

 

その後、大正3年(1914)に厳島神社の摂社となっています。

現在も独立した神社ではなく、厳島神社摂社。

『広島県神社誌』によれば、拝殿再建を機として厳島神社摂社に列せられた、とあります。

拝殿は明治24年に暴風雨で倒壊、大正3年に再建されたそうで若干間があります。

拝殿再建において資金面で問題があり、厳島神社摂社となることで資金の援助等を得られたとかの経緯があるのかもしれません。元々関係が深かったことも大きいと思いますが。

 

現在の本殿は、宝暦10年(1760)造営。宝暦5年(1755)火災に罹った後に再建されたものです。

平安時代後期の姿を忠実に再現している…のだそうです。

御朱印

御朱印の有無は不明。

確認するとすれば厳島神社でしょうか。地御前大歳神社で管理されているという情報もあり。当社は無人です。

アクセス

地御前駅の南600mくらいのところにある地御前神社前交差点(位置)で、国道2号から西に入って広電の踏切を渡ります。

踏切渡ってすぐ右折(北方向)するとすぐ神社です。

社殿の道路挟んで向かいに駐車スペースあり。

神社概要

社名地御前神社(じごぜんじんじゃ)
通称
旧称厳島神社外宮
住所広島県廿日市市地御前5-17
祭神

市杵島姫命

田心姫命

湍津姫命

天照大御神

国常立尊

素盞嗚命

社格等

厳島神社摂社

旧村社

札所等
御朱印不明
御朱印帳
駐車場あり
備考

参考文献

  • 「地御前神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)

コメント

  1. sazanamiziro より:

    なかなかりっぱなお社なんですね。
    線路があるから、それが分からなくなっているということなんでしょうか。

  2. たんぽぽろぐ より:

    >sazanamiziroさん
    こんにちは。
    そうですね。社殿は現在の物も立派で、風格があります。
    今は拝殿のすぐ前が道路、さらに前後を線路に挟まれてしまったので景観や雰囲気が失われたしまった感はあります。
    古い絵図をご覧いただくと、かつての在りようが窺えるかと思います。