住吉神社。
小名浜市街地の北、藤原川と矢田川に挟まれた場所に鎮座。
式内社 住吉神社に比定される神社。
参道
国道から参道に入る所の社号標
社号標裏側
表が県社、裏が郷社。県社昇格の際に裏返したんでしょうか。
参道入口から神社までの中間地点に石鳥居
境内入口の両部鳥居
ここを右手に入ると駐車場なのですが、鳥居脇の部分が狭く先がよく見えないので対向車にお気を付けください。
境内
鳥居の先、太鼓橋を渡ったところに狛犬
右手に手水舎
神門
右手の小さな方が参拝門、左の大きな方が御神門と書かれています。参道をまっすぐ進めば参拝門を通ることになります。御神門を通ってはいけないとかの決まりがあるかどうかは不明(特に注意書き等はなし)。斜めから撮っているのは、正面に木が生えているためです。
社殿横に磯山
神社Webサイトによれば、第三紀層の砂れき岩でできた岩山で、地盤が陥落して尾根の頂が残ったもの、あるいは小規模の地殻変動により隆起したものと考えられており、昔は遠浅の海岸であったことを示す海食の跡が山の所々にある、とのこと。
社殿
拝殿
扁額
本殿
本殿の彫刻
当社は延喜式内社で、タケノウチノスクネが奉祀したと伝えられる
本殿は三間社(正面4.78メートル、側面3.12メートル) の流れ造りで、棟札によると、寛永18年(1641)に 当時の泉城主の一族内藤氏によって再建され、元来北向きに建てられていたのを貞享元年(1684)に東向きにかえたという。
正面中央一間は板唐戸、円柱の上下・大瓶束・本殿や向拝の軒組みなどはほぼ禅宗様になっているが、正面両脇の柱間をはじめ、側壁・三方欄間・脇障子にはめこまれた花獣・四天王などの厚肉の彫刻や、大瓶束・円柱に付した獅子、あるいは手挟みなどの彫刻はほとんどが後補のものとみられる。幣殿と拝殿は近年の改築である。
江戸時代初期の本県の神社建築のひとつの様式を知る上で、貴重な建造物である。
社殿後方には多数の岩と石祠
境内社
諏訪神社
雷神社
久須志神社
不明社
『平成祭データ』に北野神社の記載があり、他に確認できなかったのでこちらがそうかも。
神社から山を挟んで南側に摂社の住吉八幡神社があります。
鳥居
拝殿
本殿
社殿後方に磯山
上に見える柵みたいなのはなんでしょうか。磯山は磐座だったとも考えられるそうなので、もしかすると今も何かしら祭祀されているのかも。
月見の池?
右手前に湯殿山の碑
後ろの岩の上の碑には古峯神社と彫られています。
足尾神社
住吉神社から住吉八幡神社への道の途中、民家の前に鎮座。一見磐座のようにも見えます。
由緒
御祭神
住之江三神 表筒之男命 中筒之男命 底筒之男命
御由緒
人皇十二代景行天皇の御代に時の大臣武内宿祢が勅命を奉じて東北地方を巡視した折、この地が海陸共に要害の地であり東北の関門に当るので航海安全と国家鎮護のため東北の総鎮守として祀られた。
御神徳
厄払いの神 清祓いの神
御祭神は、竜宮に坐します海の神でありまして常に潮満玉と潮干玉をお持ちになり、参拝者の願いは潮満玉の霊妙な働きを顕現し、潮干玉を以って禍(厄)を祓いご守護下さるといわれております
出世神 学問芸術の神
和歌三神(住吉社 天満宮 玉津島社)の一柱に数えられており、学問芸術の神として、また出世神として初宮詣受験進入学等のおり近郷近在より多くの参詣があります。
交通安全 海上安全の守護神
神功皇后の三韓征伐のおり航路の安全を護り、海が大時化になると舳先に現れて無事凱旋することができたところから海神として航海安全の神として霊験あらたかであります
安産の守護神
同じく三韓征伐の折りは、産月間近な神功皇后の玉体を守って安産の霊験をあらわされ無事応神天皇を出産され、そのことが住吉の大神の御神威の賜として広く崇敬をあつめております
商業繁栄の神 商売繁盛の神
三韓征伐は、矛を使わずして諸外国に稜威を示すこととなり、年々貢ぎ物の使者が我が国を訪れるようになり、そのため商業の道が拓かれました。よって商業繁栄の神、商売繁盛の神として広く崇敬をあつめております。
例大祭
十月十二日 十三日の両日
(現在は十月の第二日曜日とその前日に神祓行事を行う)
神事
勅使参向式・流鏑馬式・浦安の舞
境内の名勝
生木の橋、幽境、臥龍銀杏、磯山(蓬莱山とも云う)、月見の池
摂社 八幡神社(神功皇后)を祀る
創建時期は不詳。
社伝によれば、景行天皇の御世、武内宿禰が勅命を奉じて東北地方を巡視した際、陸と海との要害の地で、東北の関門にあたる当地に東北総鎮守として祀ったことに始まるといいます。
実際には、『住吉大社神代記』の成立以後、延喜式成立以前と考えられます(同書の「凢大神宮所在九箇處」(うち式内四社)のうちに記載ないため)。
ただし、同書の成立年代は未詳(一説には天平3年成立)のため、どこまで遡れるかは不明。
多くの住吉神社のように大阪の住吉大社から勧請分社されたのではなく、前述の通り当初より独立して成立した経緯を持っています。
続日本紀 延暦10年(791)4月乙未(5日)条に「近衛将監従五位下兼常陸大掾池原公綱主等言。池原。上毛野二氏之先。出自豊城入彦命。其入彦命子孫。東国六腹朝臣。各因居地。賜姓命氏。斯乃古今所同。百王不易也。伏望因居地名。蒙賜住吉朝臣。勅綱主兄弟二人。依請賜之。」とあり、常陸大掾池原公綱主が居地の名により住吉朝臣を賜ったことがみえます。
延喜式神名帳では「陸奥国磐城郡 住吉神社」とみえています。
延喜式神名帳には七社の住吉神社が記載されていますが、当社はその一つで、東国では唯一のものです(ほかは対馬・壱岐・筑前・長門・播磨・摂津)。
康平4年(1061)、前九年の役に際し冷泉天皇が勅使を派遣し、当社に奉幣、賊徒平定を祈願します(現在、10月の例大祭では、このことに由来する勅使参向式という祭事が執り行われます)。
源頼義は社殿を造営し、宝刀鵜の丸の剣を献じて武運を祈念されたと伝わります(『磐城風土記』では頼義を八幡太郎義家とし、宝剣が献じられたことにより劔宮大明神と称されたとも)。
ただし、この社殿造営・宝剣献納は摂社八幡神社の由緒とする説もあります。
江戸中期、平藩主内藤家にお家騒動が発生。
平城を睨んで建つ当社に原因があるとされ、社殿の向きが北向きから東向きへ変えられました。
この時に内藤家より幅5間長さ200間の参道が寄進されます。馬場としても使用されたというこの道は、現在も参道として使用されています。
明治4年郷社、昭和3年県社に列格。
当社を挟む藤原川と矢田川の氾濫により経済的には恵まれず、明治から昭和初期にかけては温泉神社の神職の兼務社となっていました。
戦後、専任の宮司が着任。
昭和32年に本殿が大改修、翌年には県重要文化財に指定されるなどを経て発展し現在に至ります。
御朱印
御朱印はあります。
社務所で拝受可。
アクセス
国道6号と県道66号が交差する住吉交差点のすぐ北(位置)に社号標が立っています。
社号標の所から横道(参道)に入り、西へ直進500mほどで神社です。
境内北東、道を挟んだところに駐車場(位置)。
神社概要
社名 | 住吉神社(すみよしじんじゃ) |
---|---|
通称 | – |
旧称 | – |
住所 | 福島県いわき市小名浜住吉字住吉1 |
祭神 | 表筒之男命 中筒之男命 底筒之男命 |
社格等 | 式内社 陸奥国磐城郡 住吉神社 旧県社 |
札所等 | – |
御朱印 | あり |
御朱印帳 | – |
駐車場 | あり |
公式Webサイト | http://www.sumiyosi-jinja.jp |
備考 | – |
参考文献
- 「住吉神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 「住吉神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
- 式内社研究会編『式内社調査報告 第十四巻 東山道3』皇學館大学出版部, 1987
- 谷川健一編『日本の神々 神社と聖地 第十二巻 東北・北海道』白水社, 1984
- 明治神社誌料編纂所編『府県郷社明治神社誌料 中巻』明治神社誌料編纂所, 1912(国会図書館デジタルコレクション 448コマ)