総社跡。
府中町本町、現在は総社会館の建っている場所。
安芸国総社で、式内社 多家神社の論社とされたものの、同じく多家神社の論社である松崎八幡宮との論争の末に廃社とされた総社の跡地。
境内跡
総社跡地に建つ総社会館
総社阯碑
総社址碑
敷地内に大きな岩がありましたが総社があった頃からのものなのかな
由緒
総社は、国司が国内の神社を巡拝するかわりに国中の神霊をまつっていた神社である。
府中の総社は、在庁官人となった田所氏が安芸国で力を得た平安時代終わりごろ建てられたものと思われ、鎌倉時代初めの資料には惣社の名が記されている。また田所文書によれば、温品村・佐西郡(佐伯郡)・三田小越村などに6町余りの免田が認められていた。
江戸時代には府中北部の氏神社として、春の卯花祭や秋祭りの流鏑馬などでにぎわった。しかし『延喜式』に記された多家神の所在をめぐって南部の八幡社と争いが絶えず、明治7年(1874)に創建された多家神社に合祀された。
総社・角振(山王)社・田所宅の様子
創建は平安時代末頃、阿岐国造家佐伯氏の後裔、田所氏によるものといわれます。
当社は安芸国総社で、他国のそれと同様に、国司が国内神社を巡拝する手間を省くため諸祭神を勧請合祀した神社でした。
文献上の初見は建久9年(1198)の正月日付の平兼資解(田所文書)。
安芸国衙領注進状(田所文書)や沙弥某譲状(同文書)にも見え、前者によれば確実なものだけで六町一反の免田があったことがわかります。
『芸藩通志』は『安芸国神名帳』所載の風伯明神・野打掃明神・若宮明神・鳴電明神・府守明神・道通明神・椙樌明神が祀られていたし、社内の阿支国地主神も同帳所載の阿芸都彦明神であろう、とします。
この阿支国地主神=阿芸都彦明神が正しいとすると、この神は三代実録 貞観9年(867)10月13日戊寅条にみえる「授安藝国…従五位上安藝都彦神正五位下」にあたるのかもしれません。
また椙樌明神を三代実録 貞観9年(867)10月13日戊寅条にみえる「授安藝国…正六位上…榲樌神…従五位下」の榲樌神、風伯明神を同書元慶7年(883)12月28日庚申条にみえる「安藝国正六位上風伯神…従五位下」の風伯神にあてる見方もあるようです(ただ当社は総社だったため、別に祀られていた二神の分祀の可能性もある)。
江戸時代には府中北部の氏神として卯花祭や流鏑馬で賑わったとされますが、府中南部の松崎八幡宮と互いに延喜式神名帳にみえる「安芸国安芸郡 多家神社 名神大」であることを主張し合って争いが続きました。
明治4年(1871)、広島県の斡旋により、松崎八幡と総社を廃し、新たに一社を設けることとなりました。社地は両社の中間且つ、神武天皇駐蹕所埃宮の伝説をもつ誰曾廼森に決定。
広島城三の丸稲荷社の社殿が移築され、明治7年(1874)に多家神社が創建。
総社と松崎八幡宮は廃社となりました。この時、紛争の元になるという理由から両社の古文書・古記録の類は全て焼却されてしまったということです。
この辺りの事情を慮っているのか、『明治神社誌料』多家神社の項には当社と総社のことは一切書かれていません。
当社の祭神は、多家神社に合祀され、相殿神となりました(主神が神武天皇とされ、当社と松崎八幡宮の祭神は相殿神に)。
廃社前の祭神は不明ですが、総社なので安芸国内式内三座の祭神と同じと思われます。
あるいは、『芸藩通志』にあるように風伯明神・野打掃明神・若宮明神・鳴電明神・府守明神・道通明神・椙樌明神、そして阿支国地主神(阿芸都彦明神)か。
明治神社誌料には相殿神として50柱以上が記されていますが、多家神社は当社と松崎八幡宮を合祀した後、村内小社を多数合祀しているので、どの祭神が総社祭神であったかは判断ができませんでした。
なお、この総社跡から西へ200m程の場所に、田所氏の末裔が今も宮司を務める、田所明神社が鎮座しています(未訪・位置)。
御朱印
跡地なのでありません。
アクセス
多家神社の北を流れている川(榎川)があります。この川沿いの道を多家神社前から北東に進みます。500mほど行くと総社橋交差点があります(位置)。
ここを左に曲がるとすぐに総社会館があります。この総社会館が総社跡地です。
駐車場はないので、多家神社の駐車場を借りて歩きましょう。
多家神社へのアクセスは当該記事参照。
神社概要
社名 | 総社跡(そうじゃあと) | |
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通称 | – | |
旧称 | 総社 | |
住所 | 広島県安芸郡府中町本町3-2-23 | |
祭神 | 風伯明神 野打掃明神 若宮明神 鳴電明神 府守明神 道通明神 椙樌明神 阿支国地主神(阿芸都彦明神) | 『芸藩通志』 |
安芸国式内社三座神? | 当サイト仮説 | |
社格等 | 式内社 安芸国安芸郡 多家神社 名神大 日本三代実録 貞観元年正月廿七日甲申 多家神 従五位上 日本三代実録 貞観元年四月廿七日壬子 多家神 従四位下 日本三代実録 貞観九年十月十三日戊寅 安藝都彦神 正五位下(境内の阿支国地主神)(?) 日本三代実録 貞観九年十月十三日戊寅 榲樌神 従五位下 日本三代実録 元慶七年十二月廿八日庚申 風伯神 従五位下 安芸国総社 | |
札所等 | – | |
御朱印 | なし | |
御朱印帳 | – | |
駐車場 | なし | |
公式Webサイト | http://www.takejinja.net(多家神社公式) | |
備考 | 松崎八幡宮との式内社論争の末明治7年廃社、多家神社に合祀 |
参考文献
- 「総社跡」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 式内社研究会編『式内社調査報告 第二十二巻 山陽道』皇學館大学出版部, 1980
- 谷川健一編『日本の神々 神社と聖地 第二巻 山陽・四国』白水社, 1984