静火神社。
和歌山電鐵竃山駅の南約500m、天霧山という小さな山の山頂に鎮座。
式内名神大社 静火神社に比定される神社。
境内
参道入口
津波避難場所の看板が目印。
小さく静火神社の案内が出ています
石仏
割と新しめな舗装路
社頭
ここまで5分もかかりません。
鳥居
社号標
手水鉢
社殿
拝所
手前に写り込んだ碑(そのものは撮り忘れ)に平成28年の文字が見えます。拝所、鳥居、社号標、手水舎などは新しいので、この時に一新されたのだと思われます。
社殿
こちらは社地改修前のもの(ネット上で確認)と屋根の色以外差異がないように見えます。
由緒
創建時期は不詳。
『住吉大社神代記』に、三韓征伐の際に使った船を武内宿禰をして祀らせたのが志麻、静火、伊達の三社とあります。
元は東200mほどの田の中に鎮座していたとされ、旧地に比定される場所に石碑が建っています(新道建設に伴い、現在は歩道上)。
続日本後紀 承和11年(844)11月辛亥(3日)条に「奉授紀伊国従五位下志摩神。伊達神。静火神並正五位下」とあり、この後も当社と志摩・伊達の三社は六国史上では必ず同時かつ同位に昇階しています。この三社は紀三所の神・紀三所社と称されたといいます。
文徳実録 嘉祥3年(850)10月乙丑(21日)条に「紀伊国伊達神。志摩神。静火神。並加従四位下」、三代実録 貞観元年(859)正月27日甲申条に「紀伊国従四位下伊達神。志摩神。静火神並正四位下」、同貞観17年(875)10月17日丙寅条に「紀伊国正四位上伊達神。志摩神。静火神並授従三位」と見え、延喜式神名帳では「紀伊国名草郡 静火神社 名神大」として名神大社に列せられています。
『国造家旧記』によれば、日前・国懸神宮境内に国造家先祖の天道根命を祀る「草宮」があり、9月15日にはここに静火神を神幸させる静火祭が行われた(静火社廃絶後も儀式は継続されたという)とされ、国造家の信仰に静火社が関係していたことが伺えます。
『紀伊続風土記』によれば永仁(1293~99)以前に廃絶したとされますが、長享元年(1487)の日前宮文書に粢散米1斗をあてた旨の記述が見え詳細は不明。
その廃絶については、紀の川の流路が北に変わったり、周辺の海がなくなったりしたことにより衰微したため、と推測されます(『式内社調査報告』)。
享保9年(1724)に元社地である天霧山(薬師山)頂に復興。
明治6年村社列格。
明治42年に竃山神社末社の稲荷神社に合祀されるも、昭和25年に住民の希望によって元の天霧山(薬師山)に祠が造営され還座。現在は竃山神社の境外摂社となっています。
祭神は『式内社調査報告』によれば静火大神。
ネット情報ではこの説を採っているところがほとんどですが、公式情報は確認できません(本務の竈山神社由緒書では当社について触れていない)。旧地の石碑に「静火大神様」とあるので間違いないとは思いますが、竈山神社で直接確認してみたいところ…
『平成祭データ』によれば火結神。社家の鵜飼氏文書によるものだそう。
『紀伊続風土記』は紀三所神を三神一連の神社として、須佐之男命の御子神の五十猛命・大屋津比売命・都麻都比売命を祀るものとし、当社には都麻都比売命をあてています(実際のところ志磨・静火は大屋津比売命・都麻都比売命いずれか決めかねていますが)。
『日本の神々』はこれに対し、紀伊国がもともと木国で木材の産地だったことから、文字通り鎮火神ではないかとします。
紀伊続風土記 巻之十五名草郡神宮下郷和田村
天霧山にあり旧地は是より東一町半許田中字静火といふ地にあり今の地に遷座の年暦詳ならす当社大に衰廃して殆煙滅に至りしに享保九年国命ありて其旧地に碑を建て静火社旧地の五字を鐫み又当社方三尺五寸を造営ありて神鏡を納め社地牓示等を定めらる抑此神の和田郷に鎮り座せる事国造家旧記等に著明なり然れとも永仁以前既に廃絶せりといふ国造家記曰境内に草宮といふあり九月十五日草宮の庁にて静火祭といえる神事あり暦応応永の神事記に見えたり若は往古静火大神草宮へ神幸の時の祭式にて右社退転後も草宮にては九月十五日の儀式はのこれるにや祀神或曰火雷命或曰火結神又曰常州久慈郡静神社と同神なりといふ皆神名の文字によりて説をなす他に稽拠なし按するに古記の国字に書せしにはしちゐ或シツ井と書けり是古称なり是に拠るに静火は地名と思はる此より東南二十町許に朝日村五箇荘あり阿左韋と称ふ静火は此に封せる名にて志豆韋と称ふへし朝日村より和田村まて平野の中に溝渠を穿ちて南北二所に樋あり樋地中に入る事浅く露を以て浅樋といふ文字を朝日と書て村名とす樋地中に在を以て下樋といふ下を志豆と訓するは下枝なとの例なり下樋は今伏樋といふ是なり文字静火を書て神名とするならん応永検注帳に樋免といひ樋堤敷なといふものあり今も此辺溝渠を穿ち樋を作る所多し古の形状思ひ合すへし然して此神伊達志摩二神と合せて紀三所神と名く承和以後屡位階を授けらるゝことあるに必三神相連る位階を授けらるゝ事貴志荘園部村伊達神社の条に載せたれは此に贅せす是を以て考ふるに伊達を一宮とし志摩を二宮とし静火を三宮とすと見えたり祀神都麻都比売命なるへし或は大屋津姫命ならんか猶詳に神社考定部に弁す
紀伊続風土記 巻之十六 神社考定之部上 名草郡
右神宮下郷和田村にあり延喜式神名帳静火神社名神大本国神名帳正一位静火大神即是なり此神其鎮まり座せる地和田村天霧山の東の山足田中にあり田地の字今猶静火といふ国造家旧記に此社永仁以前より既に廃絶せりといふ享保九年神祠の衰廃せしを振起し給ひし時其地に石を建て静火社旧地の五字を雕み其西の方天霧山の上に小祠を営み社地の四至等を定められたり此御神の事は伊達志摩神社の条下に論せし如く紀三所の其一社にて三神一連に祀り奉れる例を推していふ時は祀神は都麻都比売命或は大屋津姫命ならんか神名の静火は地名に因りて称へ奉れるなり国造家旧記静火を仮字に書せしは志ちゐ又はシツイと書せり朝日静火を阿左韋志豆韋と唱るは音便に従ふなり慶長検地帳田地の字志津韋あり今の静火の地なり其艮四町許に樋浦といふあり是亦火といひ日といふ樋の事なる証とすへし地名静火といへる由は是より東南二十町許に朝日村あり静火はこれに封せる名にて文字朝日静火何れも漢字にて字義を取れるには非す朝日村より和田村の静火まて平野の中に溝渠を穿ちて南北二所に樋あり按するに水を穿ちて中を空にし水を通するものを世俗ヒといふ文字は楲の字を用ふへし世俗皆樋の字を用ふれは姑これに従ふ樋の地中に入る事浅く露れたるを浅樋といふ樋の地中にありて上に露れさるを下樋といふ下を志豆と誦するは下枝なとの例なり下樋は今いふ伏樋なるへし因りて浅樋の字を朝日と書きて村名とし下樋の字を静火と書きて神名とせりと思はる今も此辺溝渠を穿ちて樋を作せる所多し古の形状思ひ合すへしされは静火の地名にして他義あらさるは後人火の一字に泥みて或は火雷命或は火結神或は常州久慈郡静神社と同神ならんといへるは皆伊達の三神一連なる事を知らさる臆説なり
御朱印
御朱印はあります。
竃山神社で拝受可。
アクセス
竈山神社の北東角の十字路から東に進み、1つ目の信号(位置)で左の細い道に入ります。
その先のカーブミラーがあるところ(正面の道が狭くなるところ)で左折して100mほど行くと、最初の写真の看板が見えてきます(位置)。
駐車場はないので、竃山神社の駐車場を借りるのがよろしいかと思います。
神社概要
社名 | 静火神社(しずひじんじゃ) | |
---|---|---|
通称 | – | |
旧称 | – | |
住所 | 和歌山県和歌山市和田 | |
祭神 | 静火大神 | 現祭神(?) |
火結神 | 社家鵜飼氏文書 『平成祭データ』 | |
都麻都比売命 | 『紀伊続風土記』 | |
社格等 | 式内社 紀伊国名草郡 静火神社 名神大 続日本後紀 承和十一年十一月辛亥(三) 静火神 正五位下 日本文徳天皇実録 嘉祥三年十月乙丑(廿一) 静火神 従四位下 日本三代実録 貞観元年正月廿七日甲申 静火神 正四位下 日本三代実録 貞観十七年十月十七日丙寅 静火神 従三位 旧村社 竃山神社摂社 | |
札所等 | – | |
御朱印 | あり | |
御朱印帳 | – | |
駐車場 | なし | |
公式Webサイト | – | |
備考 | 旧地は東200mほどの田の中(現在は新道建設に伴い歩道上) |
参考文献
- 「静火神社跡」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 「竈山神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
- 式内社研究会編『式内社調査報告 第二十三巻 南海道』皇學館大学出版部, 1987
- 谷川健一編『日本の神々 神社と聖地 第六巻 伊勢・志摩・伊賀・紀伊』白水社, 1986
- 仁井田好古『紀伊続風土記 第1輯』臨川書店, 1990