津秦天満宮(和歌山市津秦)

津秦天満宮。

和歌山市津秦に鎮座。

式内社 麻為比売神社を合祀しているという説のある神社。

境内

社頭の踏切

 

社号標

 

鳥居

 

注連柱

 

狛犬

 

鳥居

すぐ後ろの建物は(おそらく)社務所

 

鳥居横の石碑

 

手水舎

 

社殿

社殿(被殿)

和歌山県神社庁の神社紹介に「拝殿(木造銅瓦葺 3,3㎡)」と「本殿(木造檜皮葺春日造 4,95㎡)」の記述があり、被殿が2つをまとめて覆っているものと思われます。

扁額

 

祭神の書かれた額

境内社等

麻爲比賣神社碑

かつては当社の南100mの所にあったものを大正7(1918)年に遷したとされます。

 

恵比須社(津秦七恵比須)

 

稲荷神社

 

稲荷神社のお狐さんと狛犬

 

野槌神社(牛神さん)

 

野槌神社横の牛

 

野槌神社後方の牛

 

弁財天社

 

役行者(行者神変大菩薩、大日聖不動明王、八大龍王)

 

役行者由緒札

御由緒

御祭神

行者神変大菩薩

御真言 おんぎゃくぎゃくえんのう うばそくあらんきゃそわか

大日聖不動明王

御真言 のうまくさんまんだァ ばァざらだん せんだァ まァかろしゃだァ そわたやうん たらたァかんまん

八大龍王

御真言 のうまくさあまんだァ ばァぼだなんめえきゃァ さにえいそわか

 

今から百五十年前(安政二年)より津秦地区の百姓は信仰心厚く大和の大峰山へ参拝して御分身を勧請して以来年毎に各家庭持ち廻りにてお祭りして居りましたのを昭和五十二年九月、津秦農業委員会各位に依り此の所に御殿を造営し九月二十八日より祭祠するにいたりました

 

楠の木

高さ30m、周囲5m30cm

 

こちらも御神木?

 

神楽殿

由緒

津秦天満宮御由緒

当神社は、菅原道真公を主祭神とし、「知恵の神」「学問の神」として崇敬され、「津秦の天神さま」として親しまれている。

延喜元年(九〇一年)菅原道真公が大宰府に向われる途中、和歌吹上の浦に船をつけられ、当時、入海であった津和田村の「千早の杜」(現当社地)をたずねられ、御子好寛公を神前の郷、中務家に預けられ、

「ふりかえりかえり行くかも別れにし千早の杜の見ゆるかぎりは」

と名残りを惜しまれた遺跡である。

紀伊続風土記によれば、筑紫の安楽寺より菅原道真公の画像を勧請したとも、また当地の天神を敬信していた農民が京都の北野天満宮に参詣した時の霊夢により、社殿を建てたとも伝えられている。その後、御神体が一時、行方不明になっていたが、寛永年間(一六二七年)御神体を社殿に納め奉斎の盛儀を挙げて現在に至っている。

 

境内の御祭神

  • 麻為比賣社

延喜式神名帳に記載されているが、詳細は不明である。享保年中(一七二五年)命により石碑を建てた。(現当地より南百メートルの社地に)その後、大正七年(一九一八年)に津秦天満宮に合祀され石碑も現在地に移し祭祀されている。

  • 中言社

本殿に合祀、当地方の産土神としての守護神(名草彦命、名草姫命)

  • 野槌社(牛神さん)

農耕の神、「クサ」できものを治してくれる神

瓦製の牛は全国的に有名

  • 弁財天社

芸術の神、芸ごと上達の神、七福神

  • 稲荷社

厄除、家内安全、五穀豊穣の神

  • 恵比須社

津秦の里を守る七恵比須神を祭祀

商売繁昌、家内安全の守護神

  • 行者神変大菩薩、不動明王、八大龍王の堂

大峯不動尊の分身、津秦の里の崇敬者が持ちまわり奉祀していたが昭和五十二年当社境内に祭祀

津秦天満宮由緒

伝承によれば、昌泰4年(901)、菅公が大宰府に左遷される途次、和歌吹上の浦に船をつけ、当時入海であった津和田村の「千早の杜」をたずね、「わがたよる千早の宮のます鏡くもらぬすがたうつしてぞゆく」「ふりかえりかへり行くかも別れにし千早の杜の見ゆるかぎりは」と詠み、御子・好寛公を隣村の神前の中務家に預けたとされます。

この「千早の杜」は当社境内地だとされています。

神社自体の創建時期は不詳ですが、『紀伊続風土記』は筑紫安楽寺(太宰府天満宮)より菅原道真公の画像を勧請したとし、また当地の菅公を敬信していた農民が北野天満宮に参詣した時の霊夢により社殿を建てたという伝えもあります。

その後御神体が行方不明となるも、社頭の梅の木にかかっているのが見つかり、寛文12年(1672)に社殿に納められました。

かつては日前神宮・國懸神宮の摂社でした。旧社格に関する記述が資料に見当たらず、戦前まで摂社であったのか、あるいは無格社であったのかは不明。

紀伊続風土記 天満宮

西津秦村村中にあり昔筑紫安楽寺より書像を勧請す祠の巽に別当安楽寺あり故に安楽の天神といひしを寺今廃せりといふ 或云此里の農民に常に天神を敬信し或は聖像を作り或は神像を書く者あり或時京都北野社に詣しに霊夢ありて此里に帰り社を建つ其後神体見えさる事有りて一月余を経て社領の梅樹にかゝれり寛文年中神体を殿内に納むといへり委くは国造昌長作の神帰本殿記に見えたり 国造家永仁元徳の旧記に此社のことを載す又天正十三年法楽連歌一軸国造家に蔵む

麻為比賣神社由緒

創建は不詳。

延喜式神名帳に見える「紀伊国名草郡 麻爲比賣神社」は現在廃絶しているのですが、その合祀先が当社、津秦天満宮であるという説があります。

享保年中(由緒に1725とあるので享保10年か)、国主の命で当社から南100m程の場所(当時は宮郷津秦村)に「麻爲比賣神享保甲辰」と刻んだ碑が建立され、大正7年(1918)に当社境内の現在地に遷されたとされています。

「当社から南100m程」の所を麻爲比賣神社の跡として碑を建てた理由は、『国造家正平二十年検田取帳』に「知和夜二段知和夜姫敷地」、『康永二年段別帳』に「有家郷千和屋免許」「有家郷知和屋森」と見え、この「知和夜・知和屋」が前述由緒に見える「千早の杜」の千早と通じることからのようです。

現在、当社の配祀神として知波夜比賣神の名が見え、知波夜比賣神(知和夜姫)=麻為比売神として祀っていると思われます(社殿扁額にも麻爲比賣大神とある)。

 

しかし、『特選神名牒』は「知和夜姫」と「麻為比売神」は別の神であるとして、上記説に疑問を呈しています。

特選神名牒

今按續風土記式社考にこの社今廢せり宮郷津秦村の田中にあり享保年中國主より石を建て麻為比売神享保甲辰九字を鐫みて本社の址とさだめたりと云りされと續風土記此義疑はし按に舊此地は有家郷の内なりしを近世津秦領となれり國造家正平に十年檢田取帳に知和夜二段知和夜姫敷地また康永二年段別帳に有家鄕千和屋免許また有家鄕知和屋森とみえたる地にて此社は知和夜姫なる事明らかなり麻爲比賣神社廢絕して所在詳ならさるより漫に此神をさして麻爲比賣とせしなるへし 知和夜姫神詳ならす延喜式備後國三谿郡知和夜比古神社三次郡知和夜比賣神社舊事紀國造本紀以天火明命五世孫知波夜命定賜國造又天神本紀乳速日命廣湍神麻續連等祖とあり されと麻爲比賣神他に求むへきなけれは姑之を記して疑を存すと云り附て後考に備ふ

 

なお元々石碑があったと思われる辺りは現在民家と農地で、特に跡らしき物はないように見えます。

 

紀伊続風土記 麻為比売神

西津秦の南一町許にあり今社廃す享保年中命ありて石を建て麻為比売神享保甲辰九字を鐫むこれ延喜式載する所の麻為比売神社本国神名帳載する所の従四位上摩為比売神とせるなり然れとも此義疑はし按するに旧此地は有家郷の内なりしを近世津秦領となれり国造家正平二十年検田取帳に知和夜二段知和夜姫敷地また康永二年段別帳に有家郷千和屋免坪また有家郷知和屋森と見えたる地にて此社は知和夜姫神なる事明らかなり麻為比売社廃絶して所在詳ならさるより謾に此神をさして麻為比売とせしなるへし 知和夜姫神詳ならす延喜式備後国三次郡知和夜比古神社三谿郡知和夜比売神社旧事紀国造本紀以天火明命五世孫知波夜令定国造又天神本紀乳速日命広湍神麻続連等祖とあり 然れとも享保中定らるゝ所にして麻為比売神他に求むへきなけれは姑くこれを記して疑を存すといふ

御朱印

御朱印はあります。

神社すぐそばに宮司さん宅があるので、そちらでお願いすればいただけます。

アクセス

日前宮前の和歌山市秋月交差点から県道136号を南へ。

600mほど行ったところで、和歌山電鐵の踏切を渡ります。この踏切は狭いので注意。

踏切を渡った所に駐車場あり。

神社概要

社名津秦天満宮(つはたてんまんぐう)
住所和歌山県和歌山市津秦83
祭神菅原道真公
配祀

天照皇大神

知波夜比賣神

木花咲耶比賣神

中言神

稲荷神

草野比賣神

社格等

式内社 紀伊国名草郡 麻爲比賣神社(合祀)

旧日前神宮・國懸神宮摂社

御朱印あり
駐車場あり

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