伊達神社(和歌山市園部)

伊達神社。

和歌山市園部に鎮座。

式内名神大社 伊達神社の論社。

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境内

社頭・鳥居

 

社号標

 

参道

 

手水舎

 

狛犬

社殿

鳥居と拝殿

 

拝殿

 

本殿

境内社等

境内社一覧

社殿周囲に多数鎮座しています。どの境内社にもちゃんと社名と祭神の表示がなされていて、丁寧に祀られている印象を受けます。

 

恵美須神社

 

五社神社、天満神社

 

大人神社、妙見神社

 

畦神社、赤財神社・八幡神社、大人神社

 

天磐座神社

 

早尾神社

 

粟島神社

 

住吉神社

 

春日神社

 

樟神社

 

八幡神社

 

稲荷神社

 

八王子神社

 

金峯神社・天照大神

 

社殿横の御神木(クスノキ?)

 

燈籠

由緒

伊達神社由緒略記

祭神

五十猛命(いたけるのみこと)

神八井耳命(かむやいみみのみこと)

例大祭 十月十三日

当神社は、延喜式内名神大社で、神代より御鎮座と伝えられております。五十猛命は素戔嗚尊(すさのをのみこと)の御子で、日本全国に木種を繁殖された木の神様で、国つくりに力を注がれ、別の名を「有功(いさおし)の神」(有功の地名の由来)、「伊達(いたて)の神」(神社名の由来)と申し上げます。古代木の国(紀伊の国)を治められ、気の神様、厄難除けの神様、いのち神様ともいわれております。

神八井耳命は神武天皇の御子で、源平盛衰記に名のある園部兵衛重茂はこの神の後裔といわれ、園部の氏神様でございます。朝廷からは位を授けられ、本国神名帳によると正一位を授けられました。当社と、中野島村志摩神社、和田村静火神社の三神を紀三所の神と称え奉られました。中世以降は平井、大谷、善明寺、園部の氏神様として、お祀りされてまいりました。

 

伊達神社由緒略記

祭神

五十猛命 木の神様、気の神様、厄難除けの神様、いのち神様

神八井耳命 園部の氏神様

例大祭 十月十三日

当神社は、延喜式内名神大社にして世に園部一の宮と称せられ神代よりの御鎮座なりと伝えられる。五十猛命は素戔嗚尊の御子にして、大八洲に数々の木種を繁殖し給い、かつ国土経営の功績顕著なるをもって、別の名を「有功の神」と申し上げる。また神八井耳命は神武天皇の御子にして、園部の氏神に当らせ給う。源平盛衰記に名のある園部兵衛重茂はこの神の後裔であるという。

「続日本後記」仁明天皇承和十一年(八四四)の条に「紀伊国ノ従五位下伊達、志摩、静火ノ神ニ正五位下ヲ授ケ奉ル」とあり、その後、本国神名帳によると遂に正一位を授けられたという。また、神名「伊達」は伊太氐にて山東荘に鎮まりませる伊太祁曽神と同神なり、土人当社を一宮大明神と称う。当社に中野島村志摩神社、和田村静火神社の三神を紀三所の神と称え奉るという。

創建時期は不詳。由緒では神代からの鎮座とされています。

 

続日本後紀 承和11年(844)11月辛亥(3日)条に「奉授紀伊国従五位下志摩神。伊達神。静火神並正五位下」とあるのが正史の初見。この後も当社と志摩・静火の三社は六国史上では必ず同時かつ同位に昇階しています。この三社は紀三所の神・紀三所社と称されたといいます。

紀三所社については、『紀伊続風土記』巻之十二名草郡神宮郷太田村の廃紀三所社の項に「伊達志摩静火三神を祭るを紀三所といふ国造家旧記に此地に祭ることを書す今廃絶せり」とあり、三社をまとめて祀っていたこともあるようです(創建からそうなのか、ある時期からまとめたのかは不明)。

また『住吉大社神代記』は摂社船玉神社について「今謂う、紀国に斎祀る紀氏の神なり。志麻神、静火神、伊達神の本社なり」とします。

 

文徳実録 嘉祥3年(850)10月乙丑(21日)条に「紀伊国伊達神。志摩神。静火神。並加従四位下」三代実録 貞観元年(859)正月27日甲申条に「紀伊国従四位下伊達神。志摩神。静火神並正四位下」同貞観17年(875)10月17日丙寅条に「紀伊国正四位上伊達神。志摩神。静火神並授従三位」と見え、延喜式神名帳では「紀伊国名草郡 伊達神社 名神大」として名神大社に列せられています。

『紀伊国神名帳』では正一位とされていますが、昇叙の時期は不明。

 

中世紀に素戔嗚尊を合祀し祇園牛頭天王と称した、と『紀伊続風土記』にありますが、現祭神には入っていません。また同書には「織田信長公の軍兵本国に乱入の時社殿も破却せられ文書の類皆紛失せり」とあります。事実とすれば天正5年(1577)でしょうか。

享保(1716~1736)頃までは当社が伊達神社とされていたようですが(続風土記に「享保六年境内四至榜示、禁殺生の制書を賜ふにも伊達社と書されしに」とある)、それ以降のいつ頃かに若山湊吹上神社(現・水門吹上神社 – 和歌山市小野町)が伊達神社を称して認められ、当社は園部神社と称するよう官命が下ります。明治期(?)に伊達神社に復称したようです。

 

明治14年郷社列格。

 

『紀伊続風土記』巻之八薗部村の伊達神社の項には「土人伝いふ今の宮居の北に旧宮山といふ小山あり古の宮居の場所にして今の宮居の後に迂したるなりとそ鳥居甚大にして今の宮居とは釣合す此は古のまゝの鳥居ならんか」とあり、現在地より少し北に旧鎮座地があったという伝承があるようです。今の園部公園のあたりでしょうか。

 

祭神は五十猛命。伊達を社名とする神社は、大半が五十猛命を祭神とします。

『紀伊続風土記』は伊達・志磨・静火の紀三所社を三神一連の神社とし、その祭神に須佐之男命の御子神である五十猛命・大屋津比売命・都麻都比売命をそれぞれあてています。

他二社についてこの説は疑問視され、現祭神は異なりますが、当社については五十猛命とみるのが一般的のようです。

松前健氏は『木の神話伝承と古俗』で、5世紀から6世紀に紀氏の水軍が活躍するのは紀伊山中から伐りだした船材での大型船建造によるものと推定し、その船材の神こそ山・樹木の神であるイタケル、イタテ、イタケソの神で、その神徳が紀氏の政治力の拡大によって伸長するにつれ五十猛命の木種分布神話が生まれ、伊達神が住吉の船玉神と同一視(前述『住吉大社神代記』の記述参照)されるようになったと述べています(『日本の神々』)。

 

配祀の神八井耳命は中世当地に居住した園部氏の祖とされることから、園部の氏神とされています。

『紀伊続風土記』は中世以降に祭神の父神神素盞嗚尊を合せ祀り祇園牛頭天王と称したとしています。

紀伊続風土記 巻之八 薗部村

村中にあり善明寺大谷平井薗部四箇村の産土神なり続日本後紀承和十一年奉授紀伊国従五位下志摩大達静火神正五位下文徳実録嘉祥三年三神並授従四位下三代実録貞観元年三神並授正四位下同十七年三神並授従三位とあり其後遂に正一位を授けらる神名伊達は伊太氐にて山東荘に鎮り座る伊太祁曽神と同神なり土人当社を一宮大明神と称ふ又当社並に中野島雑賀荘志摩神社和田村宮郷静火神社の三神を紀三所の神と称へ奉る其詳なる事は神社考定部に載たり当社中世に至り御父神素戔嗚尊を合せ祀りて祇園牛頭天王なとゝも称へ奉れり是によりて宝徳三年の祭文に京都祇園社と同し神なる趣を書せりされは式に載する所は一座なれとも後世にありては二座の神なり古神拝貴志荘より荘官衆馬十騎流鏑馬なり社頭も多く有しに信長公入国の時尽く滅却せりといふ神事は二月六月九月十一月十三日なり

土人伝いふ今の宮居の北に旧宮山といふ小山あり古の宮居の場所にして今の宮居の後に迂したるなりとそ鳥居甚大にして今の宮居とは釣合す此は古のまゝの鳥居ならんか又村中牛神二社八幡黒神妙見弁財天善明寺村住吉八幡二社権現牛頭天王八王子二社総計十三社皆当社の末社といふ

紀伊続風土記 巻之十六 神社考定之部上 名草郡

右貴志荘園部村にあり延喜式神名帳名草郡伊達神社名神大本国神名帳名草郡座天神正一位伊達大神即此御神なり園部村に在すを以て土人園部神社といふ伊達は伊太氐にて山東荘に座せる伊太祁曽神と同神なり延喜神名式に陸奥国丹波国に伊達神社各一社あり又出雲国に韓国伊太氐神社六社あり 按するに書紀一書曰素盞嗚尊帥其子五十猛神降到於新羅国居曽尸茂梨之所又曰初五十猛神天降之時多将樹種而下然不殖韓地尽以持帰云々とあり此文の如く五十猛命初新羅国に降り給ひし事あるをもて韓国の名を負はせ奉れるなり 又韓国伊太氐奏神社 按するに式の印本奏訛りて奉に作る今改めて書す伊多伎夜神社各一社あり又播磨国射楯兵主神社二座とあり何れも同神なるへし土人此御神を一宮大明神と称ふ 寛永記に出たり 是と山東荘伊太祁曽神は本国にて一宮の称あり 承久の綸旨延元奉書等に出たり 此御神これと同神に座すを以て同く一宮と称へ奉れるなり初五十猛命大屋津姫命妻津姫命三神一所に鎮まり座しに 此事伊太祁曽神社の条に詳に書せり 大宝二年に勅命ありて三所に分ち遷し奉れり是今の山東荘和佐荘平田荘に在せる御神なりかく三所に分れて鎮まり座せとも其土地南より北に連なりて一連の神なり又此伊達神は中野島村に鎮まり座せる志摩神社和田村に鎮まり座せる静火神社と相連れる御神にて即五十猛命大屋津姫命妻津姫命三神を祀れるなり其土地北より南に連りて又一連の神なりされは古より神位を授けらるゝに此三神は必同時にして然も同し位階を授けられ神名帳に神名を書すにも三神相並へて書せりこれ一連の神なる故なるへし是に因りて此三神を紀三所の神と称へ奉る事国造家旧記卜部兼倶卿の神名式頭注及紀実俊の承安四年解状等に見えて皆一連の神なる証とすへし此三神を二連に祀り奉る事深き由縁も御座へき事なれとも其事今詳ならす但此御神神代の昔より本国に鎮まり座して世の中に大造の功を立給ひしを以て朝廷の御崇敬も他に異なる御事にて世の人の仰ぎ奉れる事も類希なる故にても有るへし然れは此御神は五十猛命一座を祀り奉りしに中世に至りて御父神素盞嗚尊を合せ祀りて祇園牛頭天王とも称へ奉れり 寛永記に出たり 是に因りて宝徳三年の祭文に東都祇園社と同し神なる趣を書せり 祭文に曰就中彼洛都祇園林下枌榆並甍守人法此園部荘葛城麓者総社並扉利人民 是素盞嗚尊を合せ祀れるよりかくはいひしなりされは合せ祀れる事も近き世の事にあらされは式に載する所は一座なれとも今にては二座の神なり古は社領も多く神宝文書の類も数々伝へしに織田信長公の軍兵本国に乱入の時社殿も破却せられ文書の類皆紛失せりといふ然れとも享保の頃まても神名伊達神社なる事は世に明なれは享保六年境内四至榜示禁殺生の制書を賜ふにも伊達社と書されしに近世に至りて伊達の神名を他に移されて此神を園部神社と称ふへき官命あり是妄誕の説を唱へて官を欺き神明を誣る者の所為に出て信用すへきに非されは今其誤を明弁す詳なる事は若山湊吹上神社の条に書すを以てここに贅せす

御朱印

御朱印はあります。

宮司さんは常駐されてはいないので、要事前連絡。

アクセス

和歌山市駅の方から国道26号を北上し紀の国大橋を渡り、少し行くと「岩出・加太↖」の案内があるのでそれに従い国道を降ります(分岐点)。

降りたところの大谷交差点(位置)を右折。

2kmほど先の交差点(位置、ファミマ和歌山園部店を過ぎたところ)で左折。

直進し突き当りまで行くと、右手前に鳥居が見えます。

参道左手に天理教の建物(天理教津和分教会)があるのですが、それを左からぐるっと回り込む形で神社境内に入ると駐車場に出ます。この天理教教会の北側の道(神社境内に続く道)が超狭いので注意。

 

神社前に駐車場案内が出ていました

言葉での説明よりずっとわかりやすいと思います。

 

—2022年追記—

2021年?に鳥居左手に駐車場が新設されたようです(位置)。県道から来るとそのまま入れるので楽そう。2~3台くらい停められそうな大きさです。以前からの駐車場が今も使えるのかは不明。

神社概要

社名伊達神社(いたてじんじゃ)
通称
旧称

一宮大明神

祇園牛頭天王

園部神社

住所和歌山県和歌山市園部1580
祭神

五十猛命

配祀(合祀?)

神八井耳命

現配祀神

素戔嗚尊

『紀伊続風土記』
社格等

式内社 紀伊国名草郡 伊達神社 名神大

続日本後紀 承和十一年十一月辛亥(三) 伊達神 正五位下

日本文徳天皇実録 嘉祥三年十月乙丑(廿一) 伊達神 従四位下

日本三代実録 貞観元年正月廿七日甲申 伊達神 正四位下

日本三代実録 貞観十七年十月十七日丙寅 伊達神 従三位

旧郷社

札所等
御朱印あり
御朱印帳
駐車場あり
公式Webサイト
備考往古は日前宮にほど近い一ヵ所に志磨神社・静火神社とまとめて祀られていたという

参考文献

  • 「伊達神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
  • 「伊達神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
  • 式内社研究会編『式内社調査報告 第二十三巻 南海道』皇學館大学出版部, 1987
  • 谷川健一編『日本の神々 神社と聖地 第六巻 伊勢・志摩・伊賀・紀伊』白水社, 1986
  • 仁井田好古『紀伊続風土記 第1輯』臨川書店, 1990
  • 明治神社誌料編纂所編『府県郷社明治神社誌料 下巻』明治神社誌料編纂所, 1912(国会図書館デジタルコレクション 219-220コマ