倭文神社。
東郷池の北東畔、御冠山の中腹に鎮座。
伯耆国一宮で、式内社 倭文神社に比定される神社。
境内
社号標
手水鉢
社頭石段
鳥居
扁額
「伯耆一ノ宮倭文神社」
狛犬
新しめ。
神門
参道
参道脇の巨岩
手水舎
狛犬
こちらは文政2年(1819)奉納の物。
裏参道入口の案内
社殿手前にあります。
裏参道(たぶん)
ちょっと通るのは厳しい状態になっています。
下照姫命が出雲よりこの地に降りられた際、この道を通って神社に移り住んだという伝えがあり、お付きの方が居住したと思われる石垣も残っているそうです。
なお、当社の北約2kmの海上(位置)に亀石という石があります。
下照姫が乗ってきた亀が石になったものだと伝えられています。
社務所裏手の井戸
社殿
拝殿
本殿
玉垣内にある小祠
横の碑には奉納紫石と記されていますが、詳細は不明。
社殿裏、「乳神さん」と呼ばれた御神木(タブノキ)の跡
昭和53年に強風で折れてしまったのだそうです。
昭和五十二年一月一日指定
広く一の宮さんと親しまれ、安産の神として信仰されている倭文神社の御神木であり、俗に乳神さんといわれてあがめられている。
目通り周囲六・七メートル、枝張りは南北十メートル、東西八・八メートルあり、樹齢は六百年と推定される。
この樹には乳房状の突起数個が見られ、またモチノキ・ナナカマドなど十四種もの草木が実生している貴重な古木である。
境内社
境内社はありません。
『鳥取県神社誌』によると、古くは80余りの末社が存在したそうですが、戦乱の結果嘉永年間(1848-54)には12社にまで減少。
これら12社も明治に入って廃され、今に至ります。
が、神社探訪 狛犬見聞録さんの当社記事を見ると、末社の写真が載っています。
私は見かけた記憶がないのですが、どこにあったんだろう…
伯耆一宮経塚
参道脇に、山の中へと続く道があります
ここが国指定史跡 伯耆一宮経塚の入口。大した距離はないですが山道なので、歩きやすい靴で行った方がいいでしょう。
この経塚は、平安時代後期に広がった末法思想のもと、康和五年(一一〇三)に築かれたものである。経塚の中央部から平石で組まれた石槨(せっかく)が発見され、その中には経典を納めた銅製の経筒や仏像、短刀、瑠璃玉などが納められていた。経筒には文字が刻まれており、僧京尊が弥勒仏の出現に備え功徳を施すことにより自他ともに成仏するようにという願いなどが記されている。出土品は国宝に指定されており、東京国立博物館に出品されている。
埋納年月日 平安時代後期 康和五年十月三日(西暦一一〇三年)
発掘年月日 大正四年十二月十一日
史跡指定年月日 昭和十年十二月二十四日
構造(石棺)
長方形で長さ一・二メートル、幅〇・九メートル、四方は約五センチメートル程度の輝石安山岩で構築されている。
出土品
一、銅経筒(平安時代) 一口
一、金銅観音菩薩立像(白鳳時代) 一軀
一、銅造千手観音菩薩立像(平安時代) 一軀
一、銅板線刻弥勒菩薩立像(平安時代) 一面
一、その他
銅鏡 二面、檜扇残片 一括、瑠璃玉 一括
短刀刀子残闕 一括、銅銭 二枚、漆器残片 一括
いずれの出土品も昭和二十八年に国宝に指定され、東京国立博物館に保存
この地は、古くから伯耆一ノ宮倭文神社の御祭神・下照姫命の墳墓と言い伝えられていた場所で、発掘の結果、経塚であることが判明した。
「元旦の朝に金の鶏が鳴く」という金鶏伝説のあった場所でもある。
経塚が築造されたのは平安後期の神仏混交の時代で、伯耆一ノ宮にも寺院(神宮寺)がいくつか建立されていた。
経塚から出土した国宝指定の銅経筒などは、当時の僧・京尊が埋納したものである。
経塚
当社が一宮と決定される根拠となった銅経筒の出土地。今は発掘跡のくぼみが残っているだけです。
経塚そばにあった石仏
台座に谷波山三十三番の文字が刻まれていましたが、西国三十三所の三十三番札所、谷汲山華厳寺のことかしら。
境外
神社までの車道沿いに岩が二つ
夫婦岩
安産岩
安産岩上の祠
脇の祠(あるいは燈籠か何かの一部か)
昔常に難産に苦しむ婦人が願をかけ満願の日に下照姫命が姿を現され参詣の帰途この安産岩で簡単に出産し爾来安産岩と称するようになったと云う。
石帯附属品銙出土地
安産岩から少し西の畑近くに標が建っています。
町指定有形文化財に「宮内の石帯」という物があるそうなので、それそのものか関係品が出土したばしょだと思うのですが説明がなく不明。
さらに下ったところに早稲田神社・国造屋敷跡の案内が出ています
案内の方に進むと奥に鳥居が見えます
鳥居手前に国造屋敷跡の標が建っています
藪と化していますが…
早稲田神社鳥居
石段
早稲田神社
早稲田神社脇の建物
神社近くにある宮内井戸の椿
木の根元に井戸?と石塔?
昭和五二年一月一日指定
このツバキは井戸の側にあることから井戸のツバキと称せられている。
この井戸は以前より区民の飲用水となっているほか、伯耆一ノ宮倭文神社参拝者にとっても、身を清め、のどを潤す憩いの場所として古くから親しみを持たれ、大切に保存されている。
目通り周囲一・五五メートル、枝張りが密にしてよく繁茂し、南北十メートル、東西八・八メートルで樹齢はおよそ二百年と推定される。
県道234号まで下り、少し北へ進むと出雲山展望台があります。
出雲山展望台
東郷池が見渡せます。駐車場あり。
その昔、出雲の大国主命の娘である下照姫命は、出雲国を出立され、羽合町宇野と泊村字谷との境にあたる字「仮屋ヶ崎」の海岸に着船された。ご休憩の後命は倭文神社の社地に住居をお定めになり、住民に安産の指導をされたが、故郷恋しさのあまり、日暮時になるとふさぎ込んだり涙したりされる日もあったという。そんな時、少しでも出雲に近づこうとの想いからか、この高台まで歩を運ぶと、遠く出雲国や出雲富士の方向に向かって何事か小声でつぶやかれていた。この姿を見た人々は命をおいたわしく思い、いつしかこの高台を出雲山と呼ぶようになったという。
この展望台に立って眺めると、東郷湖の向こうに羽合温泉や東郷湖羽合臨海公園、その向こうに茶臼山が見え、白砂青松の彼方には紺碧の日本海、西方はるかに中国地方最高峰の大山の雄姿がかすんで見える。
伯耆一円を見渡す、まさに一大パノラマの景観といえよう。
由緒
一、通称 伯耆一ノ宮
一、祭神 建葉槌命(主神)
下照姫命 外五柱
一、例祭日 五月一日
一、由緒 伯耆国の一ノ宮として御冠山の中腹に位置し、広く安産の神として信仰されている。創立年代は不明であるが、出雲大社御祭神大国主命の娘下照姫命が出雲から当地に移住され、安産の普及に努力された。
創立当時、当地方の主産業が倭文(しずおり)の織物であったので倭文部の祖神建葉槌命に当地と関係の深い下照姫命を加えて祭神としたもので、その後倭文の織物が姿を消し、安産信仰だけが残り、安産守護として崇敬され、参道横には安産岩も伝えられている。
平安時代延喜式神名帳(西暦九二二年)には当神社の名がみえ、神階は度々昇進し、天慶三年(西暦九四〇年)には従三位から正三位に進んでいる。その後正一位に昇進されたとみえ「正一位伯州一宮大明神」と刻した勅額と称する古額が現存している。
住古の社殿広大で、千石の御朱印地を有したと伝えられ、鎌倉時代の東郷荘絵図には東郷湖附近に点々と一ノ宮領の文字がみえている。
然し戦国時代荒廃、天文二十三年(西暦一五五四年)尼子晴久社殿を造営神領七十石寄進。後神領中絶したが、元亀元年(西暦一五七〇年)羽衣石城主南条宗勝これを復旧した。
天正年間羽柴秀吉を迎え討つべく、吉川元春(毛利の武将)橋津の馬の山に在陣するや、当神も兵営とせんとしたが、元春の子元長は霊夢を感じて、兵を馬の山に引いている。その後御冠に入った秀吉との対陣は有名である。
羽衣石城の南条元続当社の荒廃を嘆き、神領を収め、新地を寄せ代官をして社領の監査を厳ならしめたという。
徳川時代は池田藩主の祈願所となり、天正年間の戦乱で中絶した神輿渡御を延享二年(西暦一七四五年)再興し、藩老和田氏から境内警備のため鉄砲六人を附されている。
明治以降県社であったが、昭和十四年国幣小社となった。
一、安産岩 神社境内に至る迄の参道横にある。
昔常に難産に苦しむ婦人が、古来から安産の神として信仰の厚い伯耆一ノ宮に願いをかけて日参し、満願の日下照姫命の霊夢を感じ、参詣の帰途この岩で安産したので、以来安産岩と称するようになったという。
一、下照姫命御着船の地 羽合町宇野と泊村宇谷の中間の御崎に、出雲より御着船されたと伝えられるが、その近くに化粧水と称し、船からおあがりになって化粧を直すのにお使いになった水が伝えられている。
一、国宝 伯耆一ノ宮経塚出土品(東京国立博物館に展示されている)。
一、史跡 伯耆一ノ宮経塚。
(附)馬の山古墳群は、当神社より丘続きの位置に存在する。
古事記というおよそ一三〇〇年前に編纂された日本の歴史書に当社の御祭神、下照姫はおよそ次のように書かれています。
『下照姫は大国主命の娘として生まれました。大国主命はその優れた技術で国作りをなさいました。そんな折、天照大御神は高天原より天稚彦という神を遣わし、出雲の国譲りを要求しました。ところが天稚彦は下照姫と恋に落ち、戻ることはありませんでした。下照姫と天稚彦の幸せな日々は長くは続かず、天稚彦は、天照大御神から遣わされた雉を射殺したことが原因で射殺されてしまいました。下照姫は泣いて悲しみ、その声は高天原まで届きました。』
当社には、下照姫は一匹の亀の導きによりここ伯耆国宇野の海岸に着船し、現在の当社の地に住まいを定めて農業指導や医療普及、安産の指導に努めこの地で最期を遂げたと伝わります。
創建時期は不詳。
資料上の初見は大同3年(808)の『大同類聚方』。
「□利薬 □□川村郡倭文神主之家尓所伝方、元波下照姫神方也」とあります。
神階については、文徳実録 斉衡3年(856)8月乙亥条に「伯耆国…倭文神…従五位上」、日本紀略 天慶3年(940)9月4日丙寅条に「伯耆国従三位倭文神…正三位」とあり、正三位まで進んだことがわかります。
また、「正一位伯州一宮大明神」と記された勅額が現存することから、時期不明ですが、正一位まで昇進したものと思われます。
但し、正史の記述については、倭文神社は川村郡の当社以外に久米郡にも同名社があり、上記には明記がないためどちらを指すかが明確でなく、また一宮についてもどちらの倭文神社を指すのかについて結論が出ていませんでした。
これらについては、大正4年に当社境内裏山(経塚)より発掘された銅経筒に刻まれた願文に「康和五年十月三日山陰道伯耆国河村東郷御座一宮大明神」とあることから、正史の神階授与及び伯耆一宮は当社と結論付けられました。
伯耆国の神に対する神階叙位の記事を見ると、斉衡3年(856)に伯耆神・大山神・国坂神が正五位下、倭文神・宗形神・大帯孫神が従五位上(文徳実録)、貞観9年(867)に伯耆神・訓坂神・大山神が正五位上(三代実録)、天慶3年(940)に倭文神が正三位(日本紀略)を授与されています。
斉衡3年時点では伯耆神(波波伎神社)の方が上位ですが、貞観9年以降はその名が見えず、また天慶3年には倭文神社が正三位に昇叙しています。
このことから、もとは伯耆神(波波伎神社)が伯耆一宮であり、貞観~天慶の頃にその地位が逆転したものと思われます(理由は不明)。
延喜式神名帳にみえる「伯耆国川村郡 倭文神社」は当社に比定されています。
その後戦国時代、大永年中(1521~27)に兵火により焼失、社領没収。
天文23年(1554)尼子晴久社殿造営、神領70石寄進。
後に神領途絶えるも、元亀元年(1570)南条宗勝これを復旧。
慶長5年(1600)社殿焼失。
寛永の始め社殿造営。
その後社殿大破(時期不明)、文化15年(1818)造営。
明治5年2月県社列格。
先述の通り、大正期に伯耆一宮であることが決定したことにより、昭和14年11月1日国幣小社に昇格。
現在の主祭神は建葉槌命。
相殿神として下照姫命・事代主命・健御名方命・少彦名命・天稚彦命・味耜高彦根命。
ですが、古くから下照姫が主祭神とされていたようです。
当社の初見は先述の通り大同3年(808)の『大同類聚方』ですが、「□利薬 □□川村郡倭文神主之家尓所伝方、元波下照姫神方也」と既に下照姫の名が見えます(ただし大同類聚方は偽書説あり)。
また、下照姫が出雲から海路羽合町宇野と泊村宇谷の中間の御崎に着船したという伝承に関して、宇野には「石船」とも「腰掛岩」とも呼ばれる大岩や、「化粧水」と呼ばれる白濁した泉があるそうです。
当社付近は住居に定められ、当社の鎮座する宮内集落には「下照姫命の従者の子孫」と信じている人も多いといいます。
さらに安産岩や「乳神さん」と呼ばれた御神木など、下照姫命に関する伝承は数多く残っているのですが、倭文神(建葉槌命)に関する伝承は皆無なのです。
倭文神社という社名からして、創建当初の祭神は建葉槌命であるはず。
これについては、創建当初は織布技術集団である倭文部が当地に居住しており、その祖神・建葉槌命を祀ったと考えられています。
その後、下照姫が主祭神とされた経緯については、以下のような説が唱えられています。
①「新しい織物技術の流入により変化が生じ、建葉槌命を祀る必要がなくなり、村人と関係の深い下照姫命が主祭神とされるようになった」(式内社調査報告18巻)
こちらは、元々当地に下照姫命の伝承があり、当初より建葉槌命と並祀されていたが、やがて建葉槌命が忘れられ、下照姫命のみが祀られるようになったという見方。
ただ、延喜式神名帳では当社は一座とされており、並祀は考えにくいところではあります。
②「倭文神が忘れられ下照姫命のみが伝えられてきたのは、倭文部の居住地に出雲系の人々が移住したからではないかと想像される。根拠としては薄弱だが傍証として、下照姫命とともに移住した家族の伝承のあることが挙げられよう。彼らは下照姫命の現世利益の霊威を称えて勢力を張り、やがて先住の神を払拭したのではなかろうか。それは織物技術が普遍化し、倭文部集団の影が薄くなって以後のことであろう。」(日本の神々 神社と聖地7巻)
こちらは、当初の祭神は建葉槌命のみで、後に移住してきた出雲系の人々の奉ずる下照姫命の信仰が普及し、先住の神は追いやられ忘れられてしまったという見方。
近代に入り、昭和3年に祭神の変更がなされ、現在の建葉槌命を主祭神とする形になりました。
御朱印
御朱印はあります。
宮司さんがいらっしゃれば社務所でいただけますが、ご不在のこともあるようなので、念のため事前連絡が望ましいといえます。
アクセス
新川・浜入口交差点(山陰自動車道はわいIC出入口、位置)から南に進み、湯梨浜町役場入口交差点(位置)で左折し国道179号へ。
650mほど先(位置)で右折し、県道185号へ。1.2kmほど先(位置)で分岐するので、左手に進み橋を渡ります。
渡った先の十字路を右折し、3km弱道なりに行くと「伯耆一の宮 倭文神社 ←1km」の案内が出ていますので(位置)それに従い左折。その先道なりに走ると、行き止まりが境内入口となります(狭くうねうねした道なので注意)。
境内入口の少し手前の路肩(位置)が駐車場になっています。
徒歩なら、最寄りの松崎駅から3kmほどです。
神社概要
社名 | 倭文神社(しとりじんじゃ) |
---|---|
通称 | – |
旧称 | 一宮大明神 倭文大明神 |
住所 | 鳥取県東伯郡湯梨浜町大字宮内754 |
祭神 | 建葉槌命 |
相殿 | 下照姫命 事代主命 建御名方命 少彦名命 天稚彦命 味耜高彦根命 |
社格等 | 式内社 伯耆国川村郡 倭文神社 日本文徳天皇実録 斉衡三年八月乙亥(五) 倭文神 従五位上 日本紀略 天慶三年九月四日丙寅 倭文神 正三位 伯耆国一宮 旧国幣小社 別表神社 |
札所等 | – |
御朱印 | あり |
御朱印帳 | – |
駐車場 | あり |
公式Webサイト | https://www.sitorijinja.com/ |
備考 | – |
参考文献
- 「倭文神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 「倭文神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
- 式内社研究会編『式内社調査報告 第十九巻 山陰道2』皇學館大学出版部, 1984
- 谷川健一編『日本の神々 神社と聖地 第七巻 山陰』白水社, 1985
- 鳥取県神社誌編纂委員会編『新修鳥取県神社誌 因伯のみやしろ』鳥取県神社庁, 2012
- 鳥取県神職会編『鳥取県神社誌』鳥取県神職会, 1935(国会図書館デジタルコレクション 165-166コマ)
- 明治神社誌料編纂所編『府県郷社明治神社誌料 中巻』明治神社誌料編纂所, 1912(国会図書館デジタルコレクション 846コマ)