宗形神社(米子市宗像)

宗形神社。

米子駅東南2kmの宗像に鎮座。

式内社 胷形神社に比定される神社。

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境内

国道と神社の間に掛かる橋

 

社号標

 

看板

 

一の鳥居

 

狛犬

片方は面影すらないというか、狛犬だったかどうかもわからない…

 

御幸場。例大祭で使用される御旅所だそうです。

ただ、明治元年までは宗像地内のセイゴ谷という場所にある天児屋根命・太玉命を祀る小祠まで神幸がおこなわれていたとのこと。

 

手水舎

 

二の鳥居

 

扁額

 

随神門

 

随神門内に彩色された狛犬

 

灯籠の後ろに鳥居の残骸のようなものが

 

神門の先の参道

 

新しめな狛犬

 

とっとりの名木100選の樹 宗形神社のクス

 

御神木?

社殿

拝殿

 

扁額

 

本殿

境内社

荒神宮

 

御神輿殿

 

境内社か蔵か…

由緒

宗形神社 鳥取県米子市宗像二九八番地鎮座

一.御祭神

田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命ほか十八神

※三女神は天照大神・素盞雄命の御子神

一.祭日

例大祭 五月三日

例祭 十一月三日

歳旦祭 一月一日・大祓祭 七月丗一日・新嘗祭 十一月二十三日

一.由緒

  • 創建年代は不詳であるが、往古宗像氏族が、祖先神である宗像三女神を奉じて九州からこの地に来着し、これを斉祀したのが起源と伝えられている。
  • 平安初期の斉衡三年(八五六)に宗形の神に神階従五位上が増叙された旨、文徳実録(日本六国史の一)に所載されている。
  • 醍醐天皇の延長五年(九二七)に勅撰された延喜式神祇の巻に、伯耆国六社(会見郡では胸形神社と大神山神社)の一として、国幣小社に列格されている。
  • 戦国時代には武将の崇敬篤く、尼子晴久は弘治二年(一五五六)に、宮ノ谷の山頂に鎮座していた社を現社地に遷して新しく社殿を建立し、社領三百石を寄進した。吉川元春(毛利元就の二男)は、更に社領一二〇石を加増寄進すると共に、太刀及び兜(典型的桃形の逸品で社宝として所蔵)を奉納した。中村伯耆守は、社殿修造用材百本を寄進した。
  • 藩政の卋には、歴代の因伯藩主の崇敬篤く、当社を藩の祈願所に指定し、制礼の建立や池田家々紋を幕提灯に使用方を裁許し、池田慶徳は自ら社参祈願を行った。
  • 社名は、宗形(文徳実録)、胸形(延喜式)、宗像(明治初年まで)、宗形(明治四年以降)と変遷を重ねて現在に至る。

一.御神徳

延喜式内郷社宗形神社は、平安の古より国史、文献に名を連ね、千数百年の歴史を有する当地方の古社であり、会見郡の鎮守・宗像庄の大社として尊崇され、海陸交通・厄除開運の守護神として御神威高く、又虫封じの神としても霊験顕著でその名が高い。

一.神社と古墳

神社を中心として周辺に密集分布する宗像古墳は、県下有数の古墳群であるが、これは当地方が、古くから神社との関り合いの中で生成発展して来たことを物語るものであり、往古の社会・文化探求上での重要遺跡として斯界の注目を集めている。

創建時期不詳。

 

『明治神社誌料』に「旧記を按ずるに、往時当地方一帯の入海なりし頃、宗形神船に乗り給ひて此地に御著ありて、やがて鎮座せられたり、其御船を留め給ひし処を御船塚と称し、今尚其名を存す」とあります。

米子市長砂町の小林というところが宗形神の上陸地といわれ、船は石と化し御船塚と呼ばれたとも。

この御船塚は戦前まで田畑の一角に砂地として残されていたものの、戦後は水田→宅地となって現在は面影なしだそう。

 

その後、宗形神は御船塚の南約200メートル、宮ノ谷の山頂(現社地の北300メートル強)に鎮座。

弘治2年(1556)に尼子晴久が現社地に奉遷するまではそちらに鎮座しており本宮と呼ばれ、山腹には断水することのない清泉があり、奉遷後も本殿のあった山頂には数多の小石があったと伝えられますが、明治2年民有地となり、現在は土取りによって破壊されてしまったとのこと。

 

ともあれ、このように宗像神が現れて鎮座したという伝承ですが、実際のところは上掲の当社由緒書にもあるように、宗像氏族が九州からこの地にやってきて、祖先神である宗像三女神を祀ったのが始まりではないでしょうか。

当社周辺は多数の古墳(真後ろにある宗像古墳群等)があり、築造時期は6世紀頃と推定されています。そこから、当社の創建も6世紀頃ではないかと考えられます(ただし、古墳群と宗像氏の関係は不明。また後代に遷座した当社は現社地後方の宗像古墳群を祭祀する目的で創祀されたとは考えにくい)。

 

文徳実録 斉衡3年(856)8月乙亥(5日)条に「伯耆国…宗形神…従五位上」とみえる宗形神、並びに延喜式神名帳にみえる「伯耆国会見郡 胷形神社」は当社に比定されています。

 

戦国時代には、武将の崇敬篤く、上述のように尼子晴久が宮ノ谷から現社地に奉遷、社領200石を寄進。

吉川元春は社領120石を寄進、大刀二振・兜一刎を奉納。

 

明治4年郷社列格。

 

現祭神は以下の通り。

主祭神:田心姫命・湍津姫命・市杵島姫命

相殿神:経津主命・武甕槌命・日本武命・上筒男命・中筒男命・底筒男命・誉田別命・伊弉諾命・伊弉冊命・大日孁命・素盞嗚命・大国主命

合祀神:倉稲魂命・天児屋根命・天太玉命・猿田彦命・鈿目命・阿蘇彦命・阿蘇姫命・保食神・月読命

 

主祭神の宗像三女神は社名、由緒からしても当然と言えますが、相殿、合祀神が非常に多いです。

これは多数の神社が合併され、境内社も合祀された結果。

 

合祀の詳細は以下の通り。

経津主命・武甕槌命・日本武命:成実村大字美吉字屋敷前田に鎮座していたが、天文8年(1539)の洪水で社地流出したため合祀

※下記6社は大正6年合祀

  1. 上筒男命・中筒男命・底筒男命:成実村大字日原字中尾山鎮座 無格社住吉神社
  2. 誉田別命:成実村大字石井字要害鎮座 無格社石井神社
  3. 伊弉諾命・伊弉冊命・大日孁命:成実村大字奥谷字谷奥山鎮座 無格社熊野神社
  4. 素盞嗚命:成実村大字美吉字屋敷前田鎮座 下飯生神社
  5. 大国主命:成実村大字美吉字屋敷前田鎮座 下飯生神社
  6. 素盞嗚命:成実村大字長田字笠頭鎮座 無格社陽田神社

倉稲魂命・天児屋根命・天太玉命・猿田彦命・鈿目命:明治元年に境外摂社を合祀

阿蘇彦命・阿蘇姫命:明治元年に境内末社を合祀

保食神・月読命:不明

 

『伯耆民談記』では祭神を天稚彦命としています。

これは、天稚彦命が高胸坂に返り矢を受けたという古事記の記述に基づき、胸坂と胸形の文字の近似から出た説のようです。

余談

上述の御船塚と旧社地、いずれの地も場所が不明確です。開発により元の様子がわからなくなってしまっているので、おおよその位置だけを頼りに探すのは難しそうです。

もし、この二つの場所をご存知の方がいらっしゃいましたら、教えていただければ幸いです。

御朱印

御朱印はあります。

社殿前に印が置いてあるので、自分で押印します。

 

こんな風に置いてあります

 

かつて宮司さんにお聞きした時には授与していないとのことでしたが、問い合わせが多くてこうなったのかもしれません。

アクセス

国道181沿いにあります。

米子駅の東南で山陰自動車道と交差するところより少し南。

 

ここで橋を渡ると、参道入口右手に駐車場あり。

神社概要

社名宗形神社(むなかたじんじゃ)
旧称

宗像神社

宗像大明神

住所鳥取県米子市宗像298
祭神

田心姫命

湍津姫命

市杵島姫命

相殿

経津主命

武甕槌命

日本武命

上筒男命

中筒男命

底筒男命

誉田別命

伊弉諾命

伊弉冊命

大日孁命

素盞嗚命

大国主命

合祀

倉稲魂命

天児屋根命

天太玉命

猿田彦命

鈿目命

阿蘇彦命

阿蘇姫命

保食神

月読命

社格等

式内社 伯耆国会見郡 胷形神社

日本文徳天皇実録 斉衡三年八月乙亥(五) 宗形神 従五位上

旧郷社

御朱印あり
駐車場あり
備考

現社地北約300m強の宮ノ谷が旧地

米子市長砂町小林に御祭神の上陸地「御船塚」

※いずれも詳細位置不明

参考文献

『式内社調査報告 第十九巻 山陰道2』 皇学館大学出版部 

 

『日本歴史地名大系 32 鳥取県の地名』 平凡社

 

『鳥取県神社誌』 鳥取県神職会


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