倭文神社(倉吉市志津)

倭文神社。

倉吉市志津に鎮座。倉吉市役所関金庁舎の北2.7kmほどの場所。

式内社 倭文神社(久米郡)に比定される神社。

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境内

一の鳥居

ちょっと神社から離れた場所にあります。

 

一の鳥居の位置

 

社頭

 

狛犬

 

二の鳥居

 

社号標

 

神門

 

手水舎

 

狛犬

 

参道両脇に注連柱のように立つ木

 

倉吉市保存林 志津・倭文神社の森

指定番号 21

指定年月日 昭和61年1月10日

主な樹種 イチョウ、ムクノキ、タブノキ、スギ、ヤブツバキ、ケヤキなど

面積 6,952.78㎡

説明

創立年代不詳。式内社伯耆三の宮と称される。祭神は、織物の祖・倭文神武葉槌神を祀り、往古より織物産業の発祥の地であった。

社殿

拝殿

 

本殿

境内社

荒神社

 

荒神社の狛犬

 

荒神社脇の石祠

 

石仏?

 

神輿庫?

 

案内札

さんの木

この木のある部分に触ると子宝を授かり安産をすると言い伝えます。

 

「ある部分」とは、木の洞の中に見える部分でしょう

いかにも子宝を授かりそうな形です。

 

「ある部分」横の祠

由緒

式内社 伯耆三ノ宮 倭文神社

經津主神(ふつぬしのかみ 武勇の神)

主祭神 武葉槌神(たけはづちのかみ 機織・織物の神)

下照姫神(したてるひめのかみ 安産の神)

伊弉諾命

相殿神 伊弉冊命

譽田別命

例祭日 四月二十九日(昭和の日)

創立年代は不詳であるが、当社は延喜式神名帳(西暦九二七年平安時代)記載の神社(式内社)であって、古くは志津大明神又は三ノ宮志津大明神とも称した。

神階は高く、往古より武門武将の崇敬篤く、庶民の信仰また盛ん、中世には国主山名氏、吉川氏、南條氏などに崇敬され、社殿の建立、社領の寄進を受けたが、慶長年間、中村伯耆守により社領を没収された。江戸時代に入っては藩主の尊信篤く社殿の建立・修復、社領の寄進が行われ、池田家の祈願所として隆昌を極めた。

鎮座地の志津は社号の倭文と同じである。

倭文とはシヅオリのつまった形で、シヅは「日本古来の文様」、オリは「織り」であると言われる。したがって、倭文は日本古来の織物を意味し、読みはシヅオリがシヅリ・シドリに、さらにシヅへと転じたものであろう。(古くは清音)

往時この一帯は日本古来の織物、即ち倭織が盛んであったという。このことからして当社は、この地に移り住んだシヅオリを業とする技能集団、「倭文部」の一族が氏神として機織の祖神「武葉槌神」をお祀りしたのに起因することは明らかである。やがてその里がシツ(志津)となったものと考えられる。

又、経津主神(一説には武葉槌神とも)が中津国平定の詔勅により出雲へ進発の時、御陣営を堅められたのがこの地で、当社はその神跡であると伝えている。当社より北二百米余の地に「神津井」と称する井がある。往昔、諸神の軍営中飲料に当てられたとされる井で、今も祭事には神水として神前に供している。

往昔より祭礼の際、室町時代の軍神祭の様式に倣った神幸式が行われたが、幾多の変遷を経て江戸時代の末期再興、大名行列の様式になり今日に至っている。

明治四年郷社に列し、大正二年近在の四社を合併、昭和十七年県社に昇格、昭和三十年福富神社が分離、御祭神は、六柱となる。

 

式内社伯耆三ノ宮倭文神社由緒

経津主神 伊弉諾命

祭神 武葉槌神 伊弉冊命

下照姫神 誉田別命

創立年代不詳なれ共当社は延喜式神名帳記載の神社(式内社)にして古くは志津大明神又三ノ宮志津大明神とも称したり 往古より武門武将の崇敬厚く山名時代吉川元春南条宗勝諸公より社領の寄進社殿の建立あり祈願所なりしが慶長年間中村伯耆守に社領を没収せられ今は唯八町四方の御免地に字名のみ残れり

鎮座地志津は社号倭文と同一なり 書記集解に曰く倭文とは青筋の文布なり又古史伝に倭文は斯杼理と訓し斯豆於理の約したる言にして筋で織りたる物を云うなりとあり又「シドリ」とは「シヅリ」とも云い「シヅオリ」(筋織、倭織)の義にして倭織の盛なりし地ならん 隋って倭文神として機織の祖神武葉槌神を祀れるより起因せる事明かなり 又経津主神出雲御出征の時御陣営に当てられし地にして当社は其の神跡なりと伝う 当社より北二丁の地に神津井と称する井あり 往昔諸神の軍営中飲料に当て給いし水にして如何なる天変地異にも水質変化なく岩窟の奥深くより滾々と湧出る水に神代ながらの縁起を囁くものの如し

斯く由緒深遠なるを以って古くより養蚕の神 機織の神 農業の神 武運の神 学問の神 縁結の神 安産の神として今尚地方の信仰篤くに厚し

明治4年郷社に列し同四十年幣帛料供進神社に指定せられ大正二年福本神社 尾田神社 新宮神社 福富神社を合併す

昭和十五年 紀元二千六百年記念事業として社殿並境内の改修整備をなし昭和十七年五月二日県社に昇格す 昭和二十一年神社本庁に所属 昭和二十八年宗教法人として設立する 昭和三十年福富神社分離となり爾来志津、藤井谷、尾田、福本、仙隠の氏神として鎮り給う

例祭日 四月十九日

 

創建時期は不詳。

由緒によれば、当地に移り住んだ倭文部の一族が機織の祖神・武葉槌神を祀ったことに始まるとされます。

 

鎮座地志津の地名はシヅオリ→シヅリ・シドリ→シヅと転訛したもののようです。

また、経津主神(一説には武葉槌神とも)が出雲出征の時に陣営を張った地であり、当社はその神跡とも。

当社の北200m程の場所に「神津井」と称する井戸があり、諸神の軍営中に飲料水としたとされ、今も御神水として神前に供えられているといいます。

 

文徳実録 斉衡3年(856)8月乙亥条に「伯耆国…倭文神…従五位上」日本紀略 天慶3年(940)9月4日丙寅条に「伯耆国従三位倭文神…正三位」と、伯耆国の倭文神が神階を授けられた記事が見えますが、当時より当国には川村郡にも倭文神社(現湯梨浜町大字宮内鎮座の一宮倭文神社に比定)が存在していたため、どちらを指すのかが明確ではありません。

『式内社調査報告』『日本の神々』では、一宮であることから神階授与の記事にある倭文神は川村郡の倭文神社を指すものであろうとしています。

なお、伴信友は『神名帳考証土代』にて「案ズルニ文徳実録当国ノ神社六社ニ加階ノコトミユレド倭文神ハ一社ニテ此帳ノ六社ニアハズ、サレバ此倭文ハ川村郡ナルガ錯レタルニテ実は大帯孫神ニアラタムベキココチス」と述べ、文徳実録の斉衡3年(856)8月乙亥(5日)条に「伯耆国…大帯孫神…從五位上」と見える大帯孫神は当社ではないかとしています。

 

延喜式神名帳にみえる「伯耆国久米郡 倭文神社」は当社に比定されています。

 

かつては神宮寺が2寺あり、武将の崇敬篤く、山名氏、吉川氏、南條氏などによる社殿の建立・社領の寄進があったといいますが、中村伯耆守により社領没収。

周辺には「神楽田・御供田・籠田・王殿・カワケ田・行田・使者田・神田・神主屋敷・燈明田・山田・橘・王代・祭所」等の字名が残っているそう。

その後は池田家の祈願所となり社領の寄進等あり隆盛を極めました。

 

明治4年郷社、昭和17年県社列格。

 

 

主祭神は経津主神、武葉槌神、下照姫命。

明治以前は武葉槌神ではなく、武甕槌神が祭神とされていました。

明治になって祭神が倭文神であると盛んに言われ出し、大正頃に武葉槌神が祭神に加えられたようです。

 

しかしここで、武甕槌神は祭神から外されてしまいます。

『特選神名牒』に「建御雷神は建羽雷神なるをあやまりしものなるべし」との記述があるので、混同による誤りだとされて外されてしまったのでしょうか。

 

由緒にもある通り、当社は経津主神が出雲出征の時に陣を張った地とされます。

この出雲出征=国譲りの際には武甕槌神も同行しています。

『式内社調査報告』で述べられている、武甕槌神はこの地に関係ある神であり、武葉槌神が加えられたからといって外される神ではない、という意見は一考の余地があるのではないでしょうか。

 

なお、合祀の三神を祀っていた元の神社は以下の通り。(3社とも大正2年2月26日合併)

  • 北谷村大字尾田字中峯鎮座 村社尾田神社(伊弉諾命)
  • 北谷村大字福本字峯鎮座 村社新宮神社(伊弉冉命)
  • 北谷村大字福本字宮ノ峰鎮座 村社福本神社(誉田別命)

御朱印

御朱印はあります。

倉吉市福富の福富神社そばの宮司さん宅で拝受可。

当社に関しては、御朱印情報も連絡先もネット上にありませんでしたので、観光情報サイトから倉吉観光MICE協会さんに電話で問い合わせ。

宮司さんに連絡を取っていただき、無事御朱印を頂けました。御朱印希望の方は事前アポを取っておいた方がいいと思われます。

 

アクセス

非常に説明しづらい場所にあります。

倉吉西IC(位置、2022時点での北条湯原道路終点)から県道34号を西へ。

1.5kmほど先の横田交差点(位置)を左折し県道288号へ。

1.5kmほど先の福本交差点(位置)を左折し県道50号を南下。

600mほど先の分岐(位置)を右手の道に入ると、冒頭の一の鳥居があります。

1.8kmほど先の十字路(位置)を左へ。

300mほど先(位置)で左折して、200mほど行くと参道前に出ます。

駐車場はありませんが、社頭の公民館脇辺りに駐車可。

神社概要

社名倭文神社(しどりじんじゃ)
通称
旧称

志津神社

志津大明神

三宮明神

住所鳥取県倉吉市志津209
祭神

経津主神

武葉槌命

下照姫命

合祀

伊弉諾命

伊弉冊命

誉田別命

社格等

式内社 伯耆国久米郡 倭文神社

日本文徳天皇実録 斉衡三年八月乙亥(五) 大帯孫神 従五位上

伯耆国三宮

旧県社

札所等
御朱印あり
御朱印帳
駐車場なし(境外路肩に駐車可)
公式Webサイト
備考

参考文献

  • 「倭文神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
  • 「倭文神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
  • 式内社研究会編『式内社調査報告 第十九巻 山陰道2』皇學館大学出版部, 1984
  • 鳥取県神社誌編纂委員会編『新修鳥取県神社誌 因伯のみやしろ』鳥取県神社庁, 2012
  • 鳥取県神職会編『鳥取県神社誌』鳥取県神職会, 1935(国会図書館デジタルコレクション 181-182コマ
  • 明治神社誌料編纂所編『府県郷社明治神社誌料 中巻』明治神社誌料編纂所, 1912(国会図書館デジタルコレクション 867-868コマ