倭文神社(倉吉市志津)

倭文神社。

倉吉市志津に鎮座。倉吉市役所関金庁舎の北2.7kmほどの場所。

式内社 倭文神社(久米郡)に比定される神社。

境内

一の鳥居。ちょっと神社から離れた場所にあります。

 

一の鳥居の位置。

 

社頭

 

狛犬

 

二の鳥居

 

社号標

 

神門

 

手水舎

 

狛犬

 

案内札

さんの木

この木のある部分に触ると子宝を授かり安産をすると言い伝えます。

「ある部分」とは、木の洞の中に見える部分でしょう。いかにも子宝を授かりそうな形です。

社殿

拝殿

 

本殿

境内社

荒神社

 

荒神社の狛犬

 

荒神社脇の石祠

 

神輿庫?

由緒

境内由緒板

創立年代は不詳であるが、当社は延喜式神名帳(西暦927年平安時代)記載の神社(式内社)であって、古くは志津大明神又は三ノ宮志津大明神とも称した。

神階は高く、往古より武門武将の崇敬篤く、庶民の信仰また盛ん、中世には国主山名氏、吉川氏、南條氏などに崇敬され、社殿の建立、社領の寄進を受けたが、慶長年間、中村伯耆守により社領を没収された。江戸時代に入っては藩主の尊信篤く社殿の建立・修復、社領の寄進が行われ、池田家の祈願所として隆昌を極めた。

鎮座地の志津は社号の倭文と同じである。

倭文とはシヅオリのつまった形で、シヅは「日本古来の文様」、オリは「織り」であると言われる。したがって、倭文は日本古来の織物を意味し、読みはシヅオリがシヅリ・シドリに、さらにシヅへと転じたものであろう。(古くは清音)

往時この一帯は日本古来の織物、即ち倭織が盛んであったという。このことからして当社は、この地に移り住んだシヅオリを業とする技能集団、「倭文部」の一族が氏神として機織の祖神「武葉槌神」をお祀りしたのに起因することは明らかである。やがてその里がシツ(志津)となったものと考えられる。

又、経津主神(一説には武葉槌神とも)が中津国平定の詔勅により出雲へ進発の時、御陣営を堅められたのがこの地で、当社はその神跡であると伝えている。当社より北200米余の地に「神津井」と称する井がある。往昔、諸神の軍営中飲料に当てられたとされる井で、今も祭事には神水として神前に供している。

往昔より祭礼の際、室町時代の軍神祭の様式に倣った神幸式が行われたが、幾多の変遷を経て江戸時代の末期再興、大名行列の様式になり今日に至っている。

明治4年郷社に列し、大正2年近在の4社を合併、昭和17年県社に昇格、昭和30年福富神社が分離、御祭神は、6柱となる。

拝殿に掲げられている由緒。電球の傘のせいで中央部下が隠れてしまいました。この部分が判読できる写真が見つかりましたら、追記します。

 

創建時期は不詳。

由緒によれば、当地に移り住んだ倭文部の一族が機織の祖神・武葉槌神を祀ったことに始まるとされます。

鎮座地志津の地名はシヅオリ→シヅリ・シドリ→シヅと転訛したもののようです。

また、経津主神(一説には武葉槌神とも)が出雲出征の時に陣営を張った地であり、当社はその神跡とも。

当社の北200m程の場所に「神津井」と称する井戸があり、諸神の軍営中に飲料水としたとされ、今も御神水として神前に供えられているといいます。

神階について。

文徳実録や日本紀略に伯耆国の倭文神が神階を授けられた記事が見えます。

しかし、当時より伯耆国には川村郡にも倭文神社(現湯梨浜町大字宮内鎮座の一宮倭文神社に比定)が存在していたため、どちらを指すのかが明確ではありません。

『式内社調査報告』『日本の神々』では一宮であることから神階授与の記事にある倭文神は川村郡の倭文神社を指すものであろうとしています。

なお、伴信友は『神名帳考証土代』にて「案ズルニ文徳実録当国ノ神社六社ニ加階ノコトミユレド倭文神ハ一社ニテ此帳ノ六社ニアハズ、サレバ此倭文ハ川村郡ナルガ錯レタルニテ実は大帯孫神ニアラタムベキココチス」と述べ、文徳実録の斉衡3年(856)8月乙亥(5日)条に見える大帯孫神は当社ではないかとしています。

 

かつては神宮寺が2寺あり、武将の崇敬篤く、山名氏、吉川氏、南條氏などによる社殿の建立・社領の寄進があったといいますが、中村伯耆守により社領没収。周辺には「神楽田・御供田・籠田・王殿・カワケ田・行田・使者田・神田・神主屋敷・燈明田・山田・橘・王代・祭所」等の字名が残っているそう。

その後は池田家の祈願所となり社領の寄進等あり隆盛を極めました。

明治4年郷社、昭和17年県社列格。

 

祭神

主祭神は経津主神、武葉槌神、下照姫命。

明治以前は武葉槌神ではなく、武甕槌神が祭神とされていました。

明治になって祭神が倭文神であると盛んに言われ出し、大正頃に武葉槌神が祭神に加えられたようです。

しかしここで、武甕槌神は祭神から外されてしまいます。

『特選神名牒』に「建御雷神は建羽雷神なるをあやまりしものなるべし」との記述があるので、混同による誤りだとされて外されてしまったのでしょうか。

由緒にもある通り、当社は経津主神が出雲出征の時に陣を張った地とされます。

この出雲出征=国譲りの際には武甕槌神も同行しています。

『式内社調査報告』で述べられている、武甕槌神はこの地に関係ある神であり、武葉槌神が加えられたからといって外される神ではない、という意見は一考の余地があるのではないでしょうか。

なお、合祀の三神を祀っていた元の神社は以下の通り。(3社とも大正2年2月26日合併)

・北谷村大字尾田字中峯鎮座村社尾田神社(伊弉諾命)

・北谷村大字福本字峯鎮座村社新宮神社(伊弉冉命)

・北谷村大字福本字宮ノ峰鎮座村社福本神社(誉田別命)

御朱印

御朱印はあります。

倉吉市福富の福富神社そばの宮司さん宅で拝受可。

当社に関しては、御朱印情報も連絡先もネット上にありませんでしたので、観光情報サイトから倉吉観光マイス協会さんに電話で問い合わせ。

宮司さんに連絡を取っていただき、無事御朱印を頂けました。御朱印希望の方は事前アポを取っておいた方がいいと思われます。

 

アクセス

非常に説明しづらい場所にあります。

わかりやすいルートとしては、倉吉市役所関金庁舎から県道50号を北上。

ここで左折ししばらく道なり。

ここで右折し200mほど進むと境内に出ます。

境内脇に駐車可。

神社概要

社名倭文神社(しどりじんじゃ)
旧称

志津神社

志津大明神

三宮明神

住所倉吉市志津209
祭神

経津主神

武葉槌命

下照姫命

合祀

伊弉諾命

伊弉冊命

誉田別命

社格等

式内社 伯耆国久米郡 倭文神社

日本文徳天皇実録 斉衡三年八月乙亥(五) 大帶孫神 従五位上

旧県社

伯耆国三宮

御朱印あり
駐車場あり

コメント