大神山神社〔奥宮〕(大山町大山)

大神山神社奥宮。

中国地方の最高峰、大山の北麓に鎮座。

式内社 大神山神社に比定される神社で、神体山・大山信仰を起源とする神社。

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大山寺参道

南光河原駐車場のすぐ横、大山寺橋から見る佐陀川

夜、この撮影方向とは逆側には米子の夜景がきれいに見えるそうです。

 

大山寺参道

 

参道を進んだ先に大山寺山門

この石段手前で道が分かれ、直進すると大山寺、左折すると大神山神社です。

 

その分岐の角に建つ、天狗茶屋の前の狛犬

元は大山寺の物だったのか、こちらのお店で用意したのか。

大神山神社奥宮参道

分岐を左折し、大神山神社参道へ

ここで鳥居が現れます。

 

鳥居の後ろに遥拝所

ここから約700mのなだらかな登り坂。なだらかとは言ってもそれなりにしんどいので、登るのが困難な方のため遥拝所があるのでしょう。なおここから続く参道は自然石で造られていて、「日本一長い石畳の道」なのだそうです。

 

佐々木高綱の等身地蔵

案内板

宇治川の先陣争い以来の功によって、建久4年(1193)山陰道7ヶ国の守護として赴任の途中大病にかかり、大山寺の本尊である地蔵菩薩に祈ったところ病が全治したので、等身の地蔵を寄進したと伝えられるが、寛政8年(1796)焼失し、嘉永元年(1848)田中氏により石で再建されたものである。

焼失ってことは元は木像だったんでしょうか。

 

暗夜行路ゆかりの地の碑

石碑

志賀直哉(明治16年-昭和46年)は大正3年7月当地の宿坊蓮浄院に滞在した

長編小説「暗夜行路」の終章はこの時の体験をもとにして書かれている

 

無明の橋

この橋を渡ると一切の罪障が消滅するといわれています。

 

参道

自然石で造られている…つまりぼこぼこしていて歩きづらいので、しんどさはここに起因する気がします。

 

吉持地蔵

江戸中期の頃会見郡の長者吉持甚右衛門が経悟院住職豪堅に仲を持ってもらい寄進したもので大山寺の数多い地蔵の中で自然石にきざまれた数すくない地蔵である。

 

僧兵荒業の岩

大山寺の僧兵は一騎当千勇猛をもって知られており、常識では想像も出来ない荒業をしたと伝えられているが、その荒業の一つとしてこの岩から飛んだと伝えられ、この名がある。

 

金門

両側に迫っている岸壁を門に例えて、金門と呼ばれます。

現在の参道は昭和15年に整備されたもので、それ以前の旧参道は南光河原から金門を通って神門に続くものだったそうです(現在は堰堤が作られており通行不可)。夏至前後は金門の間に落ちる夕日が見られるとのこと。

 

賽の河原

 

銅鳥居

 

御神水

 

手水鉢

枝から水が出ています。枝の中ほどにパイプを差し込んでいるみたい。

 

神門

扉の向きが逆(閂が外側…社殿側でなく参道入口側についている)なので、後向き門とか逆門とかいわれています。

明治8年(1875)に神仏分離令によって大山寺の号は廃され、大山寺本坊西楽院の表門は大神山神社に引き渡されました。そうして現地に移設された際、逆向きになってしまったといいます。移転の時に向きを変えなかったから、とか言われていますが、真相は不明。

 

神門、内側から

 

狛犬

社殿

石段下から見る社殿

 

社殿と長廊

 

拝殿アップ

 

扁額

有栖川宮熾仁親王の揮毫。

 

奥宮大神輿

西日本一の大神輿

八角神輿では、西日本一の大きさといわれている。

平安時代から「大山神幸行列」が行われ、常に七基が繰り出されていた。その中でもこの神輿が最大のもの。担ぎ手が4、50人は必要。明治18年まで神幸行列が行われたがその後は行われていない。

平成14年10月、復元修理。

形式 両部神道式

高さ 3.2メートル

重さ 1トン

担ぎ棒 5.6メートル

 

本殿

 

本殿外壁には落書きが多くみられます

昭和の物が多いようです。

 

本殿と幣殿

 

大神山神社奥宮

この壮麗な建物は大神山神社の奥宮です。

大神山とは大山の古名で、大国主命(大黒さま)が祭ってあります。社殿は文化2年(1805)の建立といわれ、神仏混淆時代の神社の特徴である権現造りという形式で、中国地方でも大きい方の神社です。

参道の途中にある神門は、門の表裏が反対になっているので「後向き門」と言われています。

いずれも国の文化財に指定されており、毎年6月初めの山開き祭はここで行われます。

 

案内板

国指定重要文化財

大神山神社奥宮(指定年月日 昭和63年12月19日)

本殿・幣殿・拝殿

末社下山神社本殿・幣殿・拝殿

当社は、古代、中世に修験霊場として栄えた大山寺の大智明権現社として大山信仰の中心であったが、明治の神仏分離により大神山神社奥宮となった。当地はかつて大山寺の諸堂・諸院が立ち並んでいた地域の最奥にあたり、文化2年(1805)に建てられた現在の社殿は、京都と地元の2人の大工棟梁により建てられ、同じ幅の本殿、幣殿、拝殿に長大な翼廊がとりつくのが特徴である。本殿内部は素木であるが、本殿正面の向拝や、幣殿内部の天井は、漆や金箔、花鳥絵で飾られている。左手に位置する末社、下山神社は、奥宮社殿と同時期の建築で、奥宮社殿と同様、本殿と幣・拝殿が一体化した複合社殿で、現在の奥宮社殿より古い形式を留めていると考えられている。幣殿の天井に草花の絵を描くほかは素木のままとし、本社社殿と差異をみせている。奥宮は境内の環境もよく、社殿は規模雄大な複合社殿で、意匠・技法もすぐれた江戸時代末期を代表する神社建築であり、末社もあわせて価値が高い。

県指定無形民俗文化財

大山のもひとり神事(指定年月日 平成23年11月25日)

毎年7月14日、15日に大山で行われる神事。「もひ」とは水の古語で、文字通り水を取るための神事である。14日に大神山神社奥宮で夕祭が行われた後、15日深夜1時半の派遣祭を経て大山山頂へ向かい、頂上付近の石室で神祭執行後、霊水と薬草を採取する。

江戸時代は、大山寺により写経と経筒埋納を伴う弥山禅定として行われていたが、廃仏毀釈を受けて現在の大神山神社奥宮を主体とする形に変わった。

大山山頂で霊水と薬草を採取することから大山の原初信仰を残している点、廃仏毀釈という大きな変化を受けながらも行事が続けられている点で、貴重な無形民俗文化財といえる。

なお、幣殿内部の天井画や彩色は昇殿参拝することにより拝観可能です。初穂料300円。昇殿すると、音声案内で解説してもらえます。

撮影禁止だと思うので(確認してないけど聞くまでもないでしょう)、写真はありません。見応えありますので、参拝の際にはどうぞ。

境内社等

下山神社

 

お狐さん

 

下山神社本殿

 

社殿下のほうにある穴、きつね穴

里を駆け巡った狐がその様子を神に知らせるための穴。2つあります。

 

下山神社由緒略記

祭神 下山大明神(渡邊源五郎照政命)

元徳二年(一三三〇)大神山神社を尊信した、備中郡司渡邊日向守一子照政公は参拝の帰路奇過に遇い不慮の最後を遂げ人々これを憐れみ大山下山の地に子祠を建て下山神社と呼んだが数々の霊験あり。後、夢のお告げにより、此の地に奉遷したもので、多くの武将の信仰があり現在の社殿は代々の信仰が篤かった石州津和野の領主亀井隠岐守矩賢公が文化二年(一八〇五)に再建されたもので重要文化財に指定されて居ます。

 

弁財天社

弁財天社由緒

昔から女神の中でも最も美しい三神と伝へられ、海上交通の目標であった大山は同時に生活と農耕の水の神でもあり、福を授けらる神として現在地にお祀りしてあったが寛政八年(一七九六)に本社共に焼失し、現在の社は平成十年(一九九八)東京の美安達子氏の発願寄進に依り再建されたものである。

大山津見神は山を守り給う神として古くよりの信仰のある神様で有る。

 

弁財天社本殿

 

大神山神社のダイセンキャラボク

由緒

大神山神社奥宮略由緒

大山は太古より大己貴命が鎭り坐すお山として大神岳又は大神山と呼び此の所を神祭りの場として居ました。

奈良朝時代より修験道、更に仏教が入り神仏習合説のもと大神に大智明権現の偁名を奉り神官社僧により奉仕し平安時代には此の奥の宮を中心として三院百八十坊僧兵三千の西日本一の霊山となり以来時勢により盛衰を重ねて居ましたが明治八年神仏分離令に依り大神山神社奥宮となり元の様に純然たる神社となりました。

現在の社殿は重要文化財に指定され文化二年(一八〇五)の建築で日本最大級の権現造り、内部には彩色豊に長大な柱や長押の白檀塗は日本一と云われて居ります。

正面の社号額は明治維新政府の総裁であった有栖川宮熾仁親王の揮毫である。

創建時期は不詳。

『鳥取県神社誌』『国幣小社大神山神社記要』によれば、大神山神社は当地に創建されたとされていますが、当地は汗入郡に属しており、また防寒の設備が不十分な上代に定住して奉仕したとは考えにくいため、確認できる最古の社地、大神谷(現西伯郡伯耆町丸山)が創祀の地と考えられています。

 

『今昔物語』に「今伯耆ノ国大山ト云フ所ニ詣テ、二世ノ求ム所ヲ祈リ願ヘ、彼ノ権現ハ地蔵菩薩ノ垂迹大智明権現ト申ス」とあることから、奥宮は大山寺僧が大己貴命を大智明権現として祀った社と思われます。

『今昔物語』の成立が12世紀初頭と考えられることから(諸説あり)、奥宮は12世紀には存在していたとみられます。

 

当初は大山寺僧が独自に大智明権現を祀る祠であったため、本社と奥宮には現在のような関係はなかったようです。いつ頃明確に本社・奥宮(冬宮・夏宮)の関係が成立したのかは不明。

 

続日本後紀 承和4年(837)2月戊戌(5日)条に「伯耆国…會見郡大山神…奉授従五位下」文徳実録 斉衡3年(856)8月乙亥(5日)条に「伯耆国…大山神…加正五位下」三代実録 貞観9年(867)4月8日丁丑条に「伯耆国正五位下…大山神…正五位上」とみえる大山神、並びに延喜式神名帳にみえる「伯耆国会見郡 大神山神社」に当社をあてる説があります。

 

大永2年(1522)あるいは天文23年(1554)戦火により社殿焼失、天文24年(1555)復興。

その後奥宮は長く大山寺の支配下にあったため、本社と奥宮の関係は忘れられ、祭神すら不明となってしまいます。

 

明治8年(1875)、神仏分離によって地蔵菩薩は大日堂(現在の大山寺本堂)に移されました。

本殿には本社から大己貴命の御分霊が奉遷され、正式に本社の奥宮に定められました。

 

御朱印

御朱印はあります。

通常の御朱印と、出雲國神仏霊場の御朱印があります。

拝殿入ってすぐ右の授与所で拝受可。

ちなみに、場所が場所のためか授与所が開くのは遅め、閉まるのは早めのようです。

10:00~15:00の間くらいなら大丈夫そう。

末社・下山神社の御朱印もこちらでいただけます。

また、オリジナル御朱印帳もあります(本社と同一)。

 

アクセス

米子市内から県道24号(大山道路)をひたすら走っていくと宿やお店、駐車場のある登山口へ着きます。

24号の起点は米子市二本木の大山入口交差点(位置)。

途中分岐もありますが、基本的に青看に大山の案内が出ていますので迷うことはないと思います。

 

駐車場はいくつかありますが、一部は冬季閉鎖。博労座駐車場や南光河原駐車場もクリスマス頃から3月末までは有料となります(スキーシーズンのため)。駐車台数はかなり多いですが、連休等は混むのでご注意。

神社概要

社名大神山神社〔奥宮〕(おおがみやまじんじゃ)
通称
旧称

大山智明権現

大山権現

住所鳥取県西伯郡大山町大山
祭神大己貴命
社格等

式内社 伯耆国会見郡 大神山神社

続日本後紀 承和四年二月戊戌(五) 大山神 従五位下

日本文徳天皇実録 斉衡三年八月乙亥(五) 大山神 正五位下

日本三代実録 貞観九年四月八日丁丑 大山神 正五位上

伯耆国二宮

旧国幣小社

別表神社

札所等出雲國神仏霊場第九番
御朱印あり
御朱印帳あり
駐車場あり
公式Webサイトhttp://www.oogamiyama.or.jp
備考米子市尾高に本社

参考文献

  • 「大神山神社奥宮」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
  • 式内社研究会編『式内社調査報告 第十九巻 山陰道2』皇學館大学出版部, 1984
  • 谷川健一編『日本の神々 神社と聖地 第七巻 山陰』白水社, 1985
  • 鳥取県神社誌編纂委員会編『新修鳥取県神社誌 因伯のみやしろ』鳥取県神社庁, 2012
  • 鳥取県神職会編『鳥取県神社誌』鳥取県神職会, 1935(国会図書館デジタルコレクション 15コマ