島穴神社。
市原ICの西2km強、市原市島野に鎮座。
式内社 嶋穴神社に比定される神社。
境内
一の鳥居
この辺りに西の国道16号から内房線の線路を跨ぐ道路が作られるようで、工事中でした。
勅願所島穴神社碑(二代目)
初代は境内にあります(後述)。
側面には三代実録の神階授与の記述
背面には再建日「弘化四年丁未六月初午」
島穴神橋
宮之橋
この橋は参拝者が歩いて渡れるように造られた御影石の歩行者用橋です
車の通行は危険ですのでご遠慮ください
社号標
旧社号標
二の鳥居
手水舎
狛犬
社殿
拝殿
扁額
寛政九年、江戸幕府老中松平定信(左少将源定信、白河楽翁)富津砲台築造の折、侍臣・田井柳造をして当社を参拝せしめ海防安全並びに幕府の安泰を祈願、その後毎年祈願をなし、文政十年(一八二七)自筆の扁額を奉納
本殿
境内社等
祓神(御神木)
旧勅願所碑
左の歌碑
中央の歌碑
- 御神木・いちょうの由来
名あるもの―古木いちょう。島穴神社の社内にあり、その木は朽ちて皮のみ存したが、分れて一本宛の木となれり…
天保年間(一六三〇~)「房総三州漫録」に記されている。
- 向かって右の碑
延喜式内 上総国
表 勅願所嶋穴神社 海上郡 嶋穴神社
今属 市原郡
裏 寛政元巳酉祀林鐘吉旦
(寛政元年巳酉の年六月の吉き日に祀る—-の意)
*この碑は右の年に一の鳥居側に建てられたが、そのご損傷のため現在地に移された。現在一の鳥居際の「勅願所碑」は弘化四年に再建されたものである。
- 中央の碑
四方の海に仰げばさぞなもみじにも花にも風はさはらざりけり
弘化四年(一八四七)千種有功卿(公家・歌人)献詠、明治十三年建立
- 向かって左の碑
太敷くも建てて護れる島穴のふた柱こそ世々に動かね
嘉永元年(一八四八)堀川康親卿(公家・歌人)献詠、明治年間建立
こちらも御神木?
出羽三山参拝記念碑と社殿修繕記念碑
- 向かって右の碑は
出羽三山参拝記念 参道敷石奉納者連名碑
氏名は裏面に刻まれている
- 向かって左の碑は
明治二十五年の社殿修繕記念碑
かや葺屋根を銅板に葺替えた
この時、社殿の完成を祝い県知事から献詠された歌
島穴の神のみいつを仰ぐらしゆたかになびく四方のたみ草
千葉県知事 従四位 藤嶋正健
疱瘡神社
大六天神社
八雲神社
天神社
子安神社 愛宕神社 淡島神社
浅間神社
厳島神社
小御嶽神社碑
石祠
石祠
石祠
出羽三山供養塚
道祖神碑
昔の鳥居?
神饌田
この田んぼでは毎年五月に「お田植祭」が九月に「抜穂祭(ぬきほさい)」が斎行され収穫米は四季折々のお祭りに神様に供えられ節分祭には撒餅として善男善女に頒たれます
平成十六年の収穫米は千葉県代表米として伊勢の神宮の神嘗祭(かんなめいさい)に際し天皇陛下がお作りになられたお米と共に天照大神さまに奉献されました
由緒
島穴神社は「延喜式」所載の上総五社の内の一社で、景行天皇の四十年(約一八〇〇年前)日本武尊(やまとたけるのみこと)が風鎮めの神 志那都比古尊(しなつひこのみこと)を奉祀、のち同天皇が当地に行幸の折、日本武尊・倭比売尊(やまとひめのみこと)を合祀されたのが初めである。
社殿は今から約五百年前の戦国時代に一度焼失し、現本殿は約二百年前の天明年間に再建、旧拝殿は約百四十年前の嘉永年間に再建され、明治二十五年茅葺屋根から銅板に葺替えられた。
近年老朽化甚しく氏子から改築の議起こり改築委員会を結成、氏子崇敬者からの浄財約六千万円をもって本年一月着工、工程終始順調に進み十一月半ば本殿改築、幣殿・拝殿新築、境内整備を終え十一月十八日夜御神霊を本殿に遷し、本日雲一つない好天のもと氏子総出で盛大な奉祝祭を挙行、事業の完成を祝った。
今後とも末永く鎮まりまして当地域の平安と発展に輝かしい貢献をなされるように祈ります。
島穴神社縁起(当社社司 和田義雄著)
千葉県市原郡東海村鎮座延喜式内県社島穴神社は世に所謂上総五社を以て称せらるゝ一にして、景行天皇の四十年、皇子日本武尊の御創建せられし所に之れ有り、御祭神は風神志那都比古尊に座し、相殿に日本武尊、倭比売尊を合祀す。御鎮祭の縁起は、尊御東征の時、相模の国走水より海路上総国に渡らせ給はんとせらるゝに際し、海上遂に暴風に遇はせ給ひ御船殆ど覆らんとせられければ、従ひ奉りし妃弟橘姫命大いに愕かせ給ひ、尊と共に大和の国龍田の風神を拝せられ、恙なく上総の地に着かせ給はば、必ず大神の御神霊を其の地に奉祀し以て報賽の誠を致さんと御祈願あらせられ、尊の御命を贖い奉らんとて自ら狂瀾の中に入らせ給ひければ、忽にして暴風止み、事なく上総の地木更津に着かせ給ひたるに依り、尊は妃の志を追はせられ、当地に風神を鎮祭せられて御祈誓を果させられ、(中略)景行天皇五十三年冬十月、天皇上総に至らせ給ひ、尊の神霊を当社に御親祭あらせられたるに依り、後世年紀不詳尊と故尤も深き姨宮倭姫尊を合祀せられたりと云ふ。
社伝によれば、創建は景行天皇40年(114)。
日本武尊が東征中、相模から上総へと渡る際に暴風に見舞われます。そこで弟橘姫命が龍田大社の神に「安全に上総国まで航行させてくれるならば、必ずその地に風鎮めの神を祭り報恩感謝の誠を尽くします」と祈り海中に身を投げると、暴風はやみました。
日本武尊命は弟橘姫命の遺志通り志那都比古尊を祭る神社を建立した、というのが始まり。
その後景行天皇が当地へ行幸の際(127)、日本武尊と倭比売尊を合祀。
延喜式神名帳の「上総国海上郡 島穴神社」および、三代実録 元慶元年(877)5月17日丁巳条にみえる「上総国従五位上勳五等…嶋穴神…正五位下」の嶋穴神は当社に比定されています。
当社由緒では元慶8年(884)に正五位上勲五等を授けられたとありますが、三代実録にはこの記述は見当たりません(勅願所碑には類聚国史同とあるが、類聚国史の元慶年間の神階授与が記載されていたと思われる神祇部巻十七、十八は現存しない)。
ただ、元慶8年7月15日癸酉条において当社を除く上総の式内社が全て昇叙されており、元慶元年に当社とともに正五位下に叙せられた姉前神、橘神(橘樹神)、飯富神(飫富神)は正五位上を授けられているので、三代実録(の写本)の記載漏れなのかもしれません。正五位上授与が当社の由緒著者による推測なのか、何らかの伝承があるのかは不明。
治承4年(1180)源頼朝から神田36石の寄進。
明治6年郷社列格、同12年県社昇格。
例祭は現在7/25ですが、かつては7/20であり、姉埼神社と同日でした。
同日であった頃は、当社の神輿が姉崎へ、姉埼神社の神輿が島野へ来るというのが例となっていたそうです。
当社の北、内房線の線路を挟んだ辺りが当社の旧地といわれており、「島穴社原地碑」と書かれた石碑が建っています。これについては別記事にて。
御朱印
御朱印はあります。
宮司さんは常駐されていないので、事前連絡をおすすめします。
アクセス
ルートはいくつかありますが、どこから来ても神社周辺は道が狭いので注意。
例として市原IC方面から来るなら、IC北の京葉高校入口交差点(位置)を西に入って道なりに進みます。
1.6kmほど行くと信号のある十字路(位置)にあたるので、右手に。
500m弱行くと島穴神社の案内が出ている(位置)のでそれに従い左へ。
少し行くと右手に踏切がある分岐(位置)に出るので、逆の左へ。次の分岐(位置)を右に行くと神社前へ(最後の分岐から神社までの道はとても狭い)。
社務所脇に駐車場(位置)。
—2022年追記—
社頭に建設中だった八幡椎津線・青柳海保線が2021年に開通したので、国道16号からのアクセスが容易になりました。
国道16号から千種海岸の交差点(位置)で東に折れ、青柳海保線(千種通り)に入ります。2kmほど行くとカーブがあり左手に鳥居が見えます。カーブ途中で左手に入る道があるので(位置)そちらへ。
300mほど先(位置)を左折して前川にかかる橋を渡り、100mほど先で用水路?を渡ったら(位置)左折。100m先(位置)を左手の道へ行くと神社へ。
ストリートビューで見ると、前川を渡る手前に「島穴神社経路←」の案内板が出ています。しかしそれに従うと島穴神橋の南詰に出てしまい、宮之橋を車で渡れない以上駐車場に行けません。宮之橋の手前にわずかにスペースがあるので(位置)そこに停めてよいのであればいいのですが…あるいは新たに駐車場が作られているのかもしれません。
神社概要
社名 | 島穴神社(しまあなじんじゃ) |
---|---|
通称 | – |
旧称 | – |
住所 | 千葉県市原市島野1129,1130 |
祭神 | 志那都比古尊 |
合祀 | 日本武尊 倭比売尊 |
社格等 | 式内社 上総国海上郡 嶋穴神社 日本三代実録 元慶元年五月十七日丁巳 嶋穴神 正五位下 日本三代実録 元慶八年七月十五日癸酉 嶋穴神 正五位上(※三代実録に記述見えず、社伝に基づく) 旧県社 |
札所等 | – |
御朱印 | あり |
御朱印帳 | – |
駐車場 | あり |
公式Webサイト | – |
備考 | 旧地は線路挟んで北側 |
参考文献
- 「島穴神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 「島穴神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
- 式内社研究会編『式内社調査報告 第十一巻 東海道6』皇學館大学出版部, 1976
- 谷川健一編『日本の神々 神社と聖地 第十一巻 関東』白水社, 1984
- 明治神社誌料編纂所編『府県郷社明治神社誌料 上巻』明治神社誌料編纂所, 1912(国会図書館デジタルコレクション 542-543コマ)