奥津比咩神社(輪島市海士町舳倉島高見)

奥津比咩神社。

輪島の北約50kmの海上に浮かぶ、舳倉島に鎮座。

式内社 奥津比咩神社に比定される神社。

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境内

社頭

 

社号標

 

社号標2

 

社頭のケルン

舳倉島にはこのようなケルンがたくさんあるのですが、これは海が時化ると島が見えなくなることや、海女が潜る場所の位置を確認するための目印として設置されたそうです。積むと竜神様の供養となりエゴ草がよく採れるとか、アワビ採取の潜水場所を覚える「山だめ」になっているとも。

 

鳥居

 

扁額

 

参道

 

狛犬

 

獅子山に乗っています

 

参道

 

手水鉢

 

 

社殿

拝殿

 

扁額

 

拝殿本殿間の狛犬

 

本殿

 

本殿前の狛犬

 

社殿海側には石積みの玉垣

本殿周りはその上にブロック塀が設置されています。

由緒

奥津比咩神社

舳倉島の総本社で、鳳至郡に九社あった延喜式内社の一つである。江戸時代の初期に島内伊勢神社の地から現在地に遷座されたといわれている。俗に「西ノ宮」とか「舳倉権現」と尊称され、田心姫命を祭っている。

奈良時代に国主大伴家持卿が能登を巡行された時の長歌が万葉集に載っており、その中に「沖つ島 い行き渡りて 潜くちふ 鰒珠もが 包みて遣らむ」と詠まれている。

奥津比咩神社の横には、大和田神社があり、西組と大西組が管理している。

創建時期は不詳。

 

万葉集巻18に、大伴家持が天平感宝元年(749)、京の家に贈るための真珠を手に入れたいと願って詠んだ長歌と短歌がみえます。

長歌「珠洲乃安麻能 於伎都美可未尓 伊和多利弖 可都伎等流登伊布 安波妣多麻 伊保知毛我母(珠洲の海人の沖つ御神にい渡りて潜き取るといふ鰒玉五百箇もがも)…(以下略)」

短歌「於伎都之麻 伊由伎和多里弖 可豆久知布 安波妣多麻母我 都々美弖夜良牟(沖つ島い行き渡りて潜くちふ鰒玉もが包みて遣らむ)」等

短歌の「沖つ島」が舳倉島で、長歌の「沖つ御神」が奥津比咩神社だとされています。

 

また今昔物語集の巻26第9話「加賀国諍蛇蜈島行人助蛇住島語」及び巻31第21話「能登国鬼寝屋島語」にみえる「猫の島」は舳倉島に比定されています。

「加賀国諍蛇蜈島行人助蛇住島語」は、加賀国の釣人7人が猫の島に漂着、島の主である蛇を助けムカデを倒し、島に移住したという話。この大蛇=龍神=奥津比咩神とする見方もあります(ただ話の中では大蛇は人間の男に変身して釣人と接触しているのですが)。

この説話によると加賀国の熊田宮(能美市吉原町、位置)は当社の分社であり、島民は一年に一度この宮に参詣しているといい、また渡来する唐人はまず当島に寄港後、越前敦賀に渡ったとされます。

 

延喜式神名帳にみえる「能登国鳳至郡 奥津比咩神社」は当社に比定されています。

 

元は島の東部、現在伊勢神社の鎮座する地にあり、天和3年(1682)に当地に遷座したとされます(社地狭小で人家が密集していたためという)。

 

明治に入り村社に列格。

 

現祭神は田心姫命。

『式内社調査報告』は当社の創祀に関して「初めは漁業に従ふ海人等の信奉に発」したとし、『能登志徴』の「むかしは高麗・任那の使者来着せる要路なりし故に、遠島なる舳倉島に奥津比咩神鎮座し、その海辺なる輪島に辺津比咩神の鎮座るなるべし」との論から、大陸との航路の要衝をなす舳倉島に航海の安泰を祈る国家神として崇信されるに至った、としながらも「これが直ちに筑前の宗像の三女神と同一のものとは断定はできない」とします。

これは元々、舳倉島と七ツ島を漁業の舞台としていたのは現・輪島市名舟町の漁民であったのが、近世初頭に優秀な漁法を有する筑前国鐘ヶ崎の漁民が当地に渡来し、名舟漁民は撤退を余儀なくされたらしいことから、古代の海人と近世以降の海人に繋がりが見いだされない点に基づくようです。つまり宗像大社と同一の信仰は近世になってから持ち込まれた可能性がある、と言いたいのだと思われます。

実際に石川県神社庁による由緒では「近世初期、筑前国より渡来の海士又兵衛以下12名が舳倉島を根拠として漁業を営むようになって深く崇信し、海士の故郷宗像神社の信仰と相まって、当社を産土神と仰ぐようになった」とあります。

ただそれ以前から宗像信仰がなかったという根拠もなく、龍神信仰が存在したこと以外はよくわかりません。

 

『能登国式内等旧社記』は祭神を奥津媛命、『大日本史』や文政7年・明治元年の書上は市杵嶋姫命とします。

小宮

舳倉島島内には7つの小宮があります。

大和田神社

奥津比咩神社の境内、社殿のすぐ東に隣接して鎮座(位置)。

 

鳥居と社殿

祭神等、詳細は不詳。

八坂神社

奥津比咩神社の少し北に鎮座(位置)。

 

奥津比咩神社から八坂神社への道

この辺りは何もありません(後述の遺跡はありますが)。海風が厳しいからでしょうか。

 

案内板

 

夏だったので道は雑草に埋もれていました

 

鳥居と社殿

 

社殿後方にケルン

金毘羅神社

八坂神社の北西に鎮座(位置)。

 

案内板

 

こちらも道はやや埋もれ気味でした

 

鳥居と社殿

 

新しめな燈籠

 

昔の社殿の瓦でしょうか

 

金毘羅神社と八坂神社

舳倉島の北側中央に建っている神社で、前方が金毘羅神社西側が八坂神社である。それぞれ小岩組と出村組が管理している。島にある七つの小宮の一つである。前者は航海安全後者は防疫神として心身の健康を祈願する島民のよりどころである。二つの神社の間には「深湾洞遺跡」、その北西には「シラスナ遺跡」が点在して、弥生、古墳、奈良、平安の複合遺跡ともいわれている。

また、舳倉島で目に付くのが石積み(ケルン)の多さである。島内には70あまりのケルンがあり石を積むことが竜神様の供養となってエゴ草がたくさん採れるようになると言い伝えられている。また、江戸時代に起きた海難事故のあと、低い島を少しでも高く見せて海上からの標識となるように積み上げたともいう。アワビ採取の潜水場所を覚える「山だめ」としても利用されている。

無数のケルンがそびえる光景は舳倉島ならではの情緒を醸し出している。

※注意:石積み(ケルン)を動かさないで下さい。

無他神社

金毘羅神社の北東、龍神池の畔に鎮座(位置)。

 

無他神社遥拝所

池の東を通る道沿いに鳥居と標が建っています。

 

池の畔の祠

ネットではこちらを無他神社として紹介しているサイトが多いのですが、手前の遥拝所とは10m程度しか離れておらず、敢えて遥拝所を設けている理由は不明。

後ろの竜神池は決して水が枯れず、竜宮城に繋がっているともいわれるため、あくまで地上部分は祠も含めて遥拝所なのかもしれません。

 

竜神池

 

池の北東にある観音堂

 

観音堂そばのケルン

 

竜神池と観音堂

藩政末期に一旭上人という僧が島にやって来て毎晩観音堂に島民を集めて説教をしていた。ところが、いつも末座に若い女がじっと聞きいっているので、ある晩上人がたずねると、女は「私はこの池に棲む竜なのです。難破船の錨の毒にあたって死んだのですが、未だに成仏できずにいます。どうか助けて下さい。」と涙を流してたのむのだった。

そこで、翌朝、島民が池の水をくみ上げたところ池の底から大小二体の骨が見つかった。骨は樽四杯分にもなった。

この母子の竜骨は、法蔵寺分院に葬られた。人々は父親の竜が現在も近くの海に生息していると考え神として祭って無他神社とした。

この竜神池は周囲約180mあり、底が竜宮城に通じていて決して水が枯れることは無いといわれている。

この観音堂は中北組と上北組が管理している。

恵比須神社

島の北東端に鎮座(位置)。

 

竜神池からの道

 

外観

 

鳥居と社殿

 

手水鉢

 

漁場基点標

 

日本海

 

恵比須神社

島の北東に位置し、漁業繁栄の祈願所で、恵比須大神を祭っている。島にある七つの小宮の一つで恵比須組と大北組が管理している。

舳倉島へ一斉渡島の行っていた頃は、島へ着くとまず自分の所管の小宮へ組の全員が集まって今年の稼業の安全祈願を行い、お神酒五升飲んで夜を明かした。この行事を「ゴショウヅイヤ」(五升通夜)と呼んでいる。

そして、それが済むと島民全員が総本社の奥津比咩神社に集まり、区長が主宰して一年間のいろいろな決まり事を相談する総会を開き、最後に全員で飲み明かしたといわれる。これが「ナカマヅイヤ」(仲間通夜)である。

また一年の稼業を終えて一斉離島する時はその逆で「レイヅイヤ」(礼通夜)が行われていた。

弁天社

港湾内の小島に鎮座(位置)。

 

鳥居と社殿

橋がないので渡ることはできません。祭事の時のみ船で渡るのかも。

外周がコンクリートで固められていますが、元は普通の小島だったのでしょうか。

伊勢神社

島の東部に鎮座(位置)。

当社の鎮座地は奥津比咩神社が天和3年(1682)まで鎮座していた地だといいます。

別記事にて記述。

 

その他の祠

奥津比咩神社の南にある小祠

詳細不明。Googlemapでは大牟田神社と登録されていますが…

 

小祠近くの海に面した石積みの山

案内MAPに築島と表示されている場所っぽいのですが詳細不明(1枚目と2枚目は別のだと思うので、築島と呼ばれるのは片方だけかも…)。大型のケルン?

シラスナ遺跡

神社の北に古墳時代前期から平安時代の遺跡、シラスナ遺跡があります。

製塩土器や貝殻・魚骨・獣骨(アシカ、ウシ)などが発掘されています。

 

神社西側から出て北方向へ向かうと…

 

案内板

 

草に埋もれていてよくわからず…

 

この他、島内には弥生前期の深湾洞遺跡という遺跡もあります。

へぐら愛らんどタワー・舳倉島灯台

島の中央辺りにへぐら愛らんどタワーと舳倉島灯台があります。

 

八坂神社から林の中の道を抜けていくと…

 

2つの塔

左が舳倉島灯台、右がへぐら愛らんどタワー。

 

へぐら愛らんどタワーは高架配水塔の下部スペースを利用した施設です

最上部が貯水槽。海水を浄化して飲用水にしているのだそうです。

 

5階まで展示スペースです

 

舳倉島

ごあいさつ

本市最北の地でもあります舳倉島は、本土より北方約50km、北緯約38度、東経約137度に位置した周囲約5kmの小さな島で、渡り鳥の中継地として、野鳥の数が多いことで全国的に知られており、その種類は300を超え、全国で最も多いと言われています。

この度、金沢大学名誉教授藤則雄氏を団長とし、各方面の専門家により構成された北國新聞社舳倉島・七ツ島自然環境調査団が行った舳倉島に関する調査が終了し、研究成果の一部を本市に寄贈していただくこととなりました。

舳倉島に関する研究成果は、現地舳倉島において、実際に島を訪れた方々に見ていただくことこそが大変重要であると考え、この場所で展示することにいたしました。舳倉島の自然・歴史・環境などに対する関心を深める機会になれば幸いに存じます。

展示によせて

輪島市の沖合約50kmに位置する舳倉島、約25kmにある七ツ島は、日本列島のほぼ中心に位置し、大陸からの偏西風やフェーン現象による南風のほか、日本海を北上する対馬暖流と、千島列島に沿って南下する寒流(親潮)の影響を強く受けています。今回の調査は、日本の平均的な環境を知る上でも貴重な取り組みとなりました。

豊かな自然を残す両島は、未来の環境を探知する「センサー」の役割も果たしています。調査では30人余の研究者が現地に渡り、約半世紀前の状況と比較した上で、酸性雨や海洋漂着物についても総合的に検証してきました。

ここに展示されたのは研究成果の一部であり、ふるさとから地球の未来を考えていただければと願っております。

 

地形・地質

舳倉島の地質は、新第三紀約2000万年前および約1500万年前の輝石安山岩類と、第四紀(約10万年~5000年前)の海成段丘層の3~4岩層からなる。龍神池やその周辺の小池(西の池)では、硫化水素の発生が確認されたが、噴火口ではない。

約10万年前には気候の温暖化で灯台のある高さまで海面が上昇し、高位段丘が形成された。約2万年前には気候の寒冷化で海面が今より約100mも低くなり、島は能登半島と陸続きだったが、その後にも温暖化で海面が現在位まで上昇し、孤島となった。

 

舳倉島は渡り鳥の中継地となっており、多くの野鳥が観察できるとのこと

なのでバードウォッチングの聖地となっています。

 

5階バルコニーからは全島がパノラマ展望できるらしいのですが、閉鎖されていました

 

舳倉島灯台

~野鳥の楽園にそびえる灯台~

この灯台は、平坦な舳倉島の最も高い標高12メートルのこの地に建てられ、昭和6年(1931年)4月1日に初点灯しました。灯塔が34メートルと高くそびえ立ち、付近を航行する船舶の道しるべとして重要な役目をしています。

また、電波標識の無線方位信号所や気象観測施設も併設されています。平成17年(2005年)3月までは職員が常駐して管理していましたが、機器の自動化に伴い、現在は無人の施設で管理事務所から定期的に巡回管理しています。

位置 北緯37度51分05秒

   東経136度55分08秒

光り方 群閃白光 毎28秒に2閃光

光の強さ 59万カンデラ

光の届く距離 18.0海里(約33キロメートル)

高さ 地上から灯台頭部 約33.5メートル

   水面から灯火 約42.7メートル

管理事務所 七尾海上保安部

その他島内

輪島市立鳳至小学校舳倉島分校・上野台中学校舳倉島分校

現在は休校となっているそうです。

 

島内の風景

 

ニューへぐら

島への唯一のアクセス手段である定期船。ただこちらは既に引退しており、2019年4月に希海という新しい船が就航しています。

小型の船で、けっこう揺れるので船酔いする方は注意。航海時間も1時間半あるので…

 

舳倉島散策

輪島から北方約50kmに位置し、標高約13m、周囲約4kmの「絶海の孤島」で、七ツ島や能登半島と同じく火成岩で出来ている。

中央部にある竜神池を中心にして二度の火山噴火によって生成された島といわれ、すでに今昔物語の中にこの島を舞台にした説話が記述されている。

また、弥生時代から奈良時代にかけてアシカ猟が行われていた記録も残っている。

藩政期の初頭から、海士町の住民が八十八夜ころに一斉に渡島して、秋の中旬までアワビ、サザエ、海藻などを採取する潜水作業を行っていたが、町をあげての「島渡り」の風習は、昭和の後期からなくなった。

昭和43年には能登半島国定公園に指定され、すぐれた自然景観と貴重な動植物の保全が図られてきた。特に、日本有数の渡り鳥の寄留地として知られ、これまでに約300種もの野鳥が記録されている。

七ツ島

能登半島と舳倉島の中間に、七ツ島と総称される島々があります。

太古、海水面が低下していた時期は舳倉島、七ツ島と能登半島は陸続きであったそうです。

 

船上から見た島々

大島・狩又島・竜島・荒三子島・烏帽子島・赤島・御厨島の七島があります。通常は上陸禁止(そもそも航路もありませんが)。

 

一番大きなこの島は大島

最高部に灯台が建っています。

今昔物語集巻31第21話「能登国鬼寝屋島語」の鬼寝屋島はこの島を指すようです(wikipediaによる。『日本歴史地名大系』『角川日本地名大辞典』は鬼寝屋島=七ツ島としており、大島をピンポイントで指す根拠は不明)。

宗像大社と対比して考えた場合、この島が中津宮に相当するとされますが、果たしてかつてこちらに神社が存在していたのかは不明。

御朱印

御朱印の有無は不明。

アクセス

毎日1往復の定期船が唯一の交通手段。

へぐら航路の受付(位置)でチケットを購入します。乗り場もその近く。

 

 

輪島港の出港時間は通年午前9時。約1時間半で舳倉島に着きます。

舳倉島の出発時間は夏期は午後3時、冬期は午後2時。

車は持っていくことができず、島内での交通手段は徒歩のみですが、小さな島なので健脚でなくとも十分に周りきれるはず。

当日朝7時半にならないと出航・欠航がわかりません。欠航率は高めらしいので、予報で好天かつ弱風の日を狙うのがいいと思います。

日帰りなら復路だけ欠航ということはよほどのことがない限りないと思いますが(そういう時はそもそも往路も欠航するはず)、泊まりだとしばらく帰れなくなることもあるとか…

運賃は片道2,300円。

神社概要

社名奥津比咩神社(おきつひめじんじゃ)
通称
旧称

舳倉権現

西ノ宮

弁才天

伊津久志姫社

住所石川県輪島市海士町所属舳倉島高見2
祭神田心姫命現祭神

奥津媛命

『能登国式内等旧社記』

市杵嶋姫命

『大日本史』

文政7年・明治元年の書上

社格等

式内社 能登国鳳至郡 奥津比咩神社

旧村社

札所等
御朱印不明
御朱印帳
駐車場なし
公式Webサイト
備考旧地は島の東部、現在伊勢神社の鎮座する地

参考文献

  • 「奥津比咩神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
  • 「奥津比咩神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
  • 式内社研究会編『式内社調査報告 第十六巻 北陸道2』皇學館大学出版部, 1985
  • 谷川健一編『日本の神々 神社と聖地 第八巻 北陸』白水社, 1985
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