辺津比咩神社。
通称・穴水大宮。穴水町大町に鎮座。
式内社 辺津比咩神社の論社。
境内
社頭
鳥居
扁額
穴水大宮の社号標
邊津比咩神社の社号標
手水舎
脇参道の鳥居
狛犬
当宮司家の系図は石川県立図書館に保管され本物の証しです。
景行天皇の皇子(國乳別命)を遠祖として、水沼君(物部氏)の流れを汲み、加賀藩主も認める所の神(阿太賀田須命)を元祖とする苗裔(びょうえい)です。
失礼を顧みず強いて言えば、県内でも殆どの神職・僧職は山伏からの転身、若しくは、分家であります。
史実をひもとくと、神階最高の正一位を奉授することから江戸時代まで笏を持つことと、大宮司として衣冠をつけることが許されていたことを踏まえると、当時としては権威面でも大きな意味を持っていたと考えられます。
明治初期まで大宮司が「だいごんじさま」へと尊称して訛言化していた為に屋号がない所以であります。
また分家には関の氏を与えませんでした。
加賀藩主前田家とは対等の資格で常に面談可能な別格の社家でありました。
社殿
拝殿
扁額
本殿覆屋
境内社等
境内社2社
西行法師の歌碑
「立ちかえり 辺津の入江に舟とめて いくたびも見む 能登の島山」
奉納された大砲
装甲巡洋艦 春日に装備されていたものだそうです。
40口径15糎アームストロング社製
戦艦「春日」に装備していた
国民ニ道徳心ヲ涵養スル意向ニテ奉納ス
犬の像
神社公式サイトによると霊犬「ひめ鏡」。
犬は神代から子宝成就・安産祈願(戌の日)・初宮詣の象徴として或いは七五三詣・子孫繁栄・夫婦円満・良縁成就・縁結びに神の使い走りをすると尊ばれてきました
緊張を強め「まこと」を以って先ず手を合わせ祈念します
次に子宝成就の場合は犬と夫婦の干支を撫で安産祈願は犬と妊婦そして生まれてくる子供の干支を撫で初宮詣は犬と母子の干支を撫で七五三詣は幼児の手で犬と干支を撫で子孫繁栄それぞれは犬と自分そして相好の干支を語りかけ撫でると願いが叶うと言い伝えられています
そこで念願成就した暁には喜びの内に感謝の心を持ってお礼参りすることが神と人との大切な道義なのです
由緒
祭神
田心姫命・湍津姫命・市杵島姫命・正一位稲荷大明神
大山咋命・加具頭知命・宇加魂命・少名彦命
神事
四月二十八日~二十九日 郷社祭 獅子舞を従え御神輿渡御
六月三十日 大祓式(=悪魔祓)として奇祭あり
九月は奉燈祭としてキリコ、曳山の供奉あり
一月は千古より伝承の厄除祈祷あり
由緒
延喜式内社の辺津比咩神社と知られ、穴水大宮として尊敬され、あまねく親しまれてきた名社で初詣や七五三等の参拝は能登有数である。
本殿正殿の地中に大概六尺四方の神秘な石棺あり神代の宝器・旧記等が納められているという。
中略
桜谷と称する洞穴より出ずる清泉を真名井と言い穴水とも同意なり。
元禄度より享保度まで徳川家の御領に相成り代官在住支配の節も当社は郡中の総社と定められ尊敬の御社にして、即ち、寄附の金燈籠など今なお現存す。
又、北陸最古の絵馬(帆掛船)あり。
永治度西行法師当社へ参拝の折、奉納詠歌などもある。
いにしえ、神前までさざ波が打ち寄せ、辺津の入江といい、舟を繋ぎ止めていた。
正一位とは、神の最高位の称号をいう。
創建時期は不詳。
社伝に下記の記述があるようです。
孝徳天皇の御宇(645~654)、神祇官祈年の奉幣あり。
宝亀元年(770)、神祇官員外少史正七位中臣葛野連飯萬侶、同国氣田神社に奉幣し併せて郡内諸社に頒幣ありて当社も亦これに与る。
仁寿年中(851~854)、正六位上に叙せられる。
文化4年(1807)、正一位に叙せられる。…等々。
本殿地下に石棺があり、神代の宝器・旧記が納められているとも。
どうやら当社地は古墳だったようで、石棺も古墳に納められていたもののようです。
ただ、周辺道路の造成で墳丘は原型を留めていないのだそう(近世までは残っていたのでしょうか)。
当社を延喜式神名帳にみえる「能登国鳳至郡 辺津比咩神社」にあてる説があります。
『神社覈録』『大日本神祇志』がこの説を採ります。
『神社覈録』は中居南村(現在の穴水町中居南)の奥津比咩神社(明治41年同地の日吉神社に合祀、式内社奥津比咩神社の論社ではない)に、『大日本神祇志』は舳倉島の奥津比咩神社に、それぞれ対応する辺津比咩神社としています。
『式内社調査報告』は辺津比咩神社論社考証項において次のように述べています(前提として、舳倉島の奥津比咩神社、輪島沖の七ツ島の大島、重蔵神社がほぼ一直線に並んでいること。また宗像大社との対比において能登国に中津宮の存在が想定されていたか否か、重蔵神社が中津宮に比定されていたことがあったか否かという2つの疑問)。
「いま地図を凝視して舳倉島の奥津比咩神社と穴水の辺津比咩神社を結ぶとき、これまた、ほぼ一直線上に大島と重蔵神社が存在するという事実をみる。これを一体どう解釈すべきか。加えて穴水の辺津比咩神社は本殿の向き(東南向)と拝殿の向き(東向)が相違する。何故に相違するのか。立地条件からみてもその理由が見当らない」
奥津比咩神社を沖津宮、重蔵神社を中津宮、当社を辺津宮…という仮定を匂わせています。
当社の本殿・拝殿の向きの相違については何かを示唆したいのか、純粋な疑問であるのか不明。確かに航空写真で見るとごくごく僅かですが向きが違います。
明治12年郷社列格。
一時(明治初期頃?)は穴水大町神社と称しており、明治13年辺津比咩神社に復称。
明治23年に市宮神社を、同41年に火宮神社、稲荷神社、日枝神社、如意天神社を合祀。
御朱印
御朱印はあります。
社務所で拝受可。
アクセス
穴水駅のすぐ東にあります。徒歩2分くらい。
車の場合、のと里山海道を穴水市街方面(右手)に降りて、その先の金比羅交差点(位置)を道なりというか、右斜め前方というか、そんな感じで進み国道249号へ。
700mほど先の役場口交差点(位置)を右折。350m先の大町交差点(位置)を左折。
60mほど先、表参道鳥居(境内東側)のすぐ南に車入り口があります(位置)。境内駐車可。
神社概要
社名 | 辺津比咩神社(へつひめじんじゃ) |
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通称 | 穴水大宮 |
旧称 | 穴水大町神社 |
住所 | 石川県鳳珠郡穴水町大町ニ116(あるいは大町ホ1?) |
祭神 | 田心姫命 湍津姫命 市杵島姫命 大山咋命 加具頭知命 宇迦魂命 少名彦命 |
社格等 | 式内社 能登国鳳至郡 辺津比咩神社 旧郷社 |
札所等 | – |
御朱印 | あり |
御朱印帳 | – |
駐車場 | あり |
公式Webサイト | http://oomiya.main.jp/ |
備考 | – |
参考文献
- 「辺津比咩神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 「辺津比咩神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
- 式内社研究会編『式内社調査報告 第十六巻 北陸道2』皇學館大学出版部, 1985
- 明治神社誌料編纂所編『府県郷社明治神社誌料 中巻』明治神社誌料編纂所, 1912(国会図書館デジタルコレクション 794-795コマ)