中山神社(津山市一宮)

中山神社。

津山市一宮に鎮座。

式内名神大社 中山神社に比定される神社で、美作国一宮とされる神社。

戦前は国幣中社、現在は神社本庁の別表神社。

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境内

社頭の中山鳥居

中山鳥居の名は当社に由来するもので、貫が貫通していないのが特徴。

 

扁額

 

社号標

 

参道

 

 

狛犬

 

狛犬

猿だと紹介しているサイトが複数あるのですが、ソース不明。当社の猿神伝承を鑑みれば猿だとしても不思議はありません。なんにせよ顔が怖すぎる(特に吽形)。

 

手水舎

 

神門

 

神門前の御手洗川

 

中門

社殿

拝殿

すぐ手前に中門があるため正面からの撮影はできず。

 

本殿

永禄2年(1559)、尼子晴久による造営。中山造(入母屋造妻入で、正面に唐破風の向拝が付く)を代表する建造物。

境内社等

惣神殿

 

国司社

 

国司社脇の鉾立石

国難の際には、本殿に移し祈念されたといいます。

そばにあった石碑を撮ってはみたものの、草で隠れてよく読めず。文字に起こしているサイトがありましたので、引用させていただきます。

石碑(紙老虎の歴史漫歩さんより引用)

社伝に曰く。世に叛臣あれば本社その誅伏を祈る。これを御鉾祭という。その式は御鉾を祭場の中央に立てる。天慶中の平将門の関東に叛くや、これを社前に祈り、嘉承中の源義親の出雲を乱すや、小原雫の森の離宮にこれを行う。弘安中の元人の西海に寇するや、北条時宗は城太郎左衛門尉を使として神佑を仰うしむ。みな神異あり。嘉承の鉾石は小原雫の森に存す。弘安の鉾立石は則ちこれなり。年所の旧さ往々にして訛伝の憾があり、 いま石に録して事実の湮滅を塞ぐと爾云。

 

また、『美作一宮 郷土の遺産』という本に以下の記述があるようです(文章は『津山瓦版』より引用)。

美作一宮 郷土の遺産(津山瓦版より引用)

中山神社は西国壱の軍神(厳島・吉備津と並んでその筆頭)であり、天下の大変・大乱に際しては朝廷より全国7社の一つとして特別の護国祈願を仰せつかる。例えば天慶2年(939年)平将門の乱、弘安4年(1281年)の元寇など。その祭事は格別の秘儀で、現小原地区内大築公園あたり、昔は鬱蒼たる「雫が森」その中に中山の離宮たる大築神社があった。

秘祭「鉾立て」に神事は大築の境内で行われた。中央に大鉾、四方に小鉾を立て、大鉾前に祭壇を設けて荘厳神秘の深夜の祭典であったという。鉾立石はそれらの鉾を立てた基石で、上面中央に凹みがある。

現在中山神社境内本殿南(国司神社)の段に、有志による由来記の碑とともに、その一石が置かれている。また祭事の行われた雫が森の跡あたりにもその一つが置かれ、地元の有志による説明板が立っている。中山境内の石と小原のそれとは鉾立の凹みの形状が異なる点も興味を引くところである。

 

これらからすると、かつて御鉾祭(鉾立祭)という祭事があり、国難の時に行われたようです。

「中央に大鉾、四方に小鉾を立て」とありますが、境内の鉾立石は1つしかありません。元は5つあったのでしょうか。

また、上記にこの祭事が行われたと記述がある「雫の森(雫が森)」ですが、津山瓦版に記事があり、その写真から判断するに下記の位置のようです(詳しい場所や地図の記載がなく、写真とGoogleストリートビューから判断)。

 

位置

ここにかつては中山神社の離宮、大築神社があったようで(現在は中山神社に合祀)、鉾立石が1つ残されているとのこと。

 

 

この祭祀が中山神社本殿で行われたのか、大築神社で行われたのかがよくわかりませんが、両方で行われたのでしょうか。

 

御先社

中山の神の祖神を祀る神社。

『津山瓦版』では、『美作一宮 郷土の遺産』の記述として、「御先→祖神→贄賂梧狼神(しろごろうのかみ)」が祭神であるとの説を載せています。贄賄㹳狼神については由緒項で少し触れます。

 

神厩舎

 

猿神社鳥居

 

猿神社参道

 

猿神社

崖面に建っています。この岩塊は磐座であるようです。

『今昔物語集』巻26第7話『美作国神依猟師謀止生贄語』にて中山神社の猿神の話が語られていますが、当社はその猿神の霊を祀るとされます(現在の祭神は猿田彦神)。

『美作国神依猟師謀止生贄語』は「当地に毎年娘を生贄に要求する猿神がいたが、ある時東から来た猟師が話を聞き、娘の代わりに犬2匹と一緒に櫃に入って生贄に出される。猿神とその仲間の猿が櫃を開けようとした時、男は犬をけしかけて猿神をねじ伏せさせ、刀を突きつける。猿神は命乞いをするが男は聞かず、犬は仲間の猿を次々殺していく。猿神は一人の宮司に憑いて、もう生贄は取らないから助けてといい、誓言を立てたので逃がした。男は生贄にされそうだった娘と夫婦となり幸せにくらし、祟りも起きなかった」といった話です。

 

猿神社下のぬいぐるみが多数供えられた祠

 

忠魂碑

 

祝木のケヤキ

大鳥居手前にあります。

 

ケヤキ根元の祠

 

名木百選

中山神社祝木のケヤキ

ケヤキ(ニレ科)

津山市一宮

推定樹齢 八〇〇年

目通り周囲 八・五m 樹高 一〇m

中山神社は、美作国の一の宮で天武天皇の慶雲四年の創建と伝えられる。

社殿は天文二年に尼子経久の兵火で焼失したが、永禄二年(一五五九年)に再建された。

本殿は国指定の重要文化財である。

本樹は、尼子の兵火以前のもので、神社と歴史を共にした記念木である。正面の小祀には「大国主命」が祀つられている。

 

ムクノキ。鳥居横。

 

名木百選

中山神社のムクノキ

ムクノキ(ニレ科)

津山市一宮

推定樹齢 五〇〇年

本樹は、「祝木のけやき」等と共に中山神社の社叢を代表する木で、目通り周囲五・三m、樹高は二十三mである。

 

創置美作國一千二百年碑

 

神楽殿

 

井戸?

由緒

中山神社の指定文化財

中山神社は、慶雲四年(七〇七)の創建と伝えられる美作国の一宮です。『延喜式』にも載せられた式内社で、『今昔物語』には「今昔、美作国ニ中参(中山)・高野ト申神在マス。」と記され、『一遍上人絵伝』にも弘安九年(一二八六)の春に一遍上人が美作一宮(中山神社)に詣でた様子が描かれるなど、古来より広くその名を知られていました。

  • 中山神社本殿(国指定重要文化財、大正三年四月一七日指定)は、『作陽誌』等によると戦国時代に兵火に遭ったものを永禄二年(一五五九)に戦国大名の尼子晴久が再建したものと伝えられています。入母屋造、妻入で向唐破風の向拝を有するこの本殿は、「中山造」と呼ばれる美作地方独特の神社建築様式であり、中山神社本殿を最古の例としています。
  • 中山神社神門(市指定重要文化財、昭和五〇年一一月一五日指定)は、もと津山城二ノ丸の四脚門で、廃城後の明治七年(一八七四)に中山神社に移築されたものです。本柱二本と控柱二本からなる薬医門形式で、屋根は切妻造、檜皮葺です。柱や梁には太いケヤキを用いており、あまり装飾を加えず、軒を高くしているところなど、いかにも城門らしい建物です。
  • 中山神社祝木のケヤキ(市指定天然記念物、昭和四八年一〇月二〇日指定)は、鳥居前の参道上にある推定樹齢八〇〇年のケヤキの大木で、胸高周囲九メートル、根廻り一〇・五メートルで地上五メートル付近から枝が分かれ、内部は空洞となっています。道路に面して祝木社の祠がありますが、この神は元はこの地にいて中山神に国譲りをした先住神とされています。
  • 中山神社戦国武将文書(市指定重要文化財、昭和五〇年一一月一五日指定)は、美作を支配した戦国武将が戦勝祈願や奉納などのために中山神社にあてた文書です。尼子晴久判物、毛利元就判物、吉川元春外三名連署書状、毛利元就書状、浦上宗景判物の五通からなり、元禄三年(一六九〇)に津山森藩家老の長尾隼人勝明によって一巻に成巻されました。

このように、中山神社では数多くの貴重な文化財が現在に至るまで大切に受け継がれています。

社伝によれば創建は慶雲4年(707)4月3日。

ただし、和銅6年(713)に美作国が備前国から分立したことが続日本紀にあり、ここから和銅6年を創建とする説も。

 

吉備の中山(備前備中の境にある山)からの勧請であるために中山神社の名が付いたとみられています。

現在は「なかやま」ですが、古くは「ちゅうざん」と読まれていた様子。

 

三代実録 貞観2年(860)正月27日戊寅条に「美作国正五位下中山神従四位下」と見えるのが正史の初見。

貞観6年(864)8月14日戊辰条に「美作国従四位下仲山大神…列官社」と官社に列せられたことが見え、同7年(865)7月26日乙巳条に「進美作国従四位下仲山神階加従三位」同17年4月5日丁巳条に「授美作国従三位中山神正三位」と見えます。

この神階の急昇は、美作国と清和天皇・藤原良房の間に特別な関係があったからではないかと『式内社調査報告』では推測しています。

さらに延喜式神名帳では「美作国苫東郡 中山神社 名神大」として名神大社に列し、平安末期までに正一位に昇叙。

 

平将門の乱や元寇に際しての祈願のことが社伝に見えることから、中世期は軍神として崇敬されていたようです。

弘安9年(1286)春に一遍上人が当社に参詣。

その後戦国時代に至り、天文2年(1533)に尼子晴久の兵火により社殿焼失。

永禄2年(1559)尼子晴久が社殿再建(現本殿)。

明治4年6月国幣中社に列格。

 

なお、『津山瓦版』に次のような記述があります。『中山神社縁由』による説のようです。

中山神社祝木のケヤキ 市指定天然記念物 – 津山瓦版

慶雲3年(706)中山神は美作国を鎮護するため英多郡楢原に天下った。次に水無瀬河奥の泉水池(現津山市一宮)に現れ、さらに田辺の霧山に移った。そこで麓の川に鵜の羽を浮かべたところ、その羽が長良嶽の麓にとどまった。その地はすでに先住神の大巳貴命が鎮座していたが、命から国譲りをうけ、慶雲5年(708)現在地に社殿を建てて永くこの地に鎮座することになった。そして大巳貴命は祝木のもとに移住して鎮座したが、のち数10m南の地に宮地を求めて国司神社となったとする。

 

同サイトには羽留石の写真を記載したページもあり、現存する模様。また、当社北西の西田辺の鵜羽川上流には霧山遺跡という遺跡も存在するようです。この遺跡が当社の元々の鎮座地、あるいは祭祀の場であったのかもしれません。

遺跡ウォーカーというサイトによれば、その場所は35.133111, 133.975028あたりのようですが…

 

また、上記で触れられている大己貴命の国譲りに関連する伝承で次のような話があります。

中山大神が当地に鎮座後、それ以前から大己貴神を奉斎していた伽多野部乙丸という豪族が中山大神の神威に嫉妬したため、中山大神の眷属神の贄賄㹳狼神が怒り、伽多野部一族を滅ぼそうとします。伽多野部乙丸は過ちを悔い、毎年鹿2頭を献じることを誓って久米郡弓削郷に移住。その後贄賄㹳狼神を勧請した志呂神社が弓削郷に創建、そこへ鹿を供えることとなったと。

志呂神社はおそらく岡山市北区にある志呂神社を指すと思われます。

この伽多野部乙丸は肩野物部氏と関連する人物という見方がされているようですが、私は詳しくないので触れないでおきます。

 

当社の祭神に関して説が多数あります。

現在は中山神社縁由にもとづき主祭神:鏡作神、相殿神:石凝姥神・天糠戸神。

他の説については神社概要項に記載しましたが、それ以外の説もあるようです。

御朱印

御朱印はあります。

社務所で拝受可。

アクセス

津山IC、院庄ICから、途中までは総社と同じルートを辿ります。

 

 

総社に入るところで曲がらず、そのまま県道68号を北上。

そこから2kmほど先(位置)、宮川にかかる北の街橋の手前で左手の道へ入ります(中山神社の案内あり、ここから道狭い)。

あとは道なりに1kmほどで神社前。

鳥居左手に数台分の駐車場があり、その奥の道を登ると広い駐車場があります。

神社概要

社名中山神社(なかやまじんじゃ)
通称
旧称

仲山大明神

南宮

住所岡山県津山市一宮695
祭神

鏡作神

現祭神

(『中山神社縁由』等)

吉備武彦命

『作陽誌』

吉備津彦命

『大日本史』

『神祇志料』

石凝姥命

天糠戸命

江村氏が社記に因り唱えた一説

大己貴命

『延喜式頭注』等

石凝姥命

天鏡命

天糠戸命

京都の儒家松岡如庵の説

金山彦命

平田篤胤の説

猿神

『今昔物語集』

『宇治拾遺物語』

相殿

石凝姥神

天糠戸神

(※大己貴神、瓊々杵尊とする説もあり)

社格等

式内社 美作国苫東郡 中山神社 名神大

日本三代実録 貞観二年正月廿七日戊寅 中山神 従四位下

日本三代実録 貞観六年八月十四日戊辰 仲山大神 列官社 

日本三代実録 貞観七年七月廿六日乙巳 仲山神 従三位

日本三代実録 貞観十七年四月五日丁巳 中山神 正三位

旧国幣中社

美作国一宮

別表神社

札所等
御朱印あり
御朱印帳
駐車場あり
公式Webサイト
備考西田辺霧山にある霧山遺跡が旧地、あるいは関連祭祀遺跡?

参考文献

  • 「中山神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
  • 「中山神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
  • 岡山県神社庁編『岡山県神社誌』岡山県神社庁, 1981
  • 式内社研究会編『式内社調査報告 第二十二巻 山陽道』皇學館大学出版部, 1980
  • 谷川健一編『日本の神々 神社と聖地 第二巻 山陽・四国』白水社, 1984