元熊野堂跡。
横手いこいの森の一角に残る、明永町の熊野神社の元鎮座地。
元熊野堂鳥居跡
鳥居跡は、元熊野堂参道から社地跡を過ぎた先にあります(位置)。なぜ参道途中にないのかは不明。
横手古図によれば、鳴見沢の奥に熊野堂があったとき、ここに明永野からの参道があり、鳥居があったとされている。
鳥居跡の祠
鳥居跡のようにも見えるけれど違いそうな…
元熊野堂跡
ゴルフ場側から歩いた場合ですが、鳥居跡から少し歩くと、遊具のある広場に出ます。
広場
広場の手前に下り階段があるので、ここを降りていきます
広場の手前にはこんな案内も立っていますが、
これはウソです。この矢印の方向に元熊野堂参道はありません。この方向に歩いても無人の山荘があるだけです。
元熊野堂参道があると思って歩くと徒労に終わりますので無視してください。
※私がこの案内に騙されて無駄足踏んでかなり腹が立ったので強調しました(一応山荘前からは横手市街が展望できますが…)。
元熊野堂跡全景
古びた標柱
注連縄が巻かれているので、何かいわれのある石なのでしょうか
横の板には「古書本殿七間四面 拝殿十二間」とあります。立派な社殿が建っていたようです。
横手公園スキー場
ゴルフ場から歩いた場合、途中の分岐(位置)を左手に登ってしばらく行くと元熊野堂鳥居跡に至るのですが、分岐から右手前の階段を上ると横手公園スキー場のリフト上に出ます。
リフト上部
なお2017年夏にゲレンデが崩落し、横手公園スキー場は廃止となってしまったため、リフトはもうないかもしれません(訪問は2017年5月)。
ここは非常に眺めがよく、南西に鳥海山を臨むことができます
5月末でしたが、鳥海山はまだ雪に覆われていました。
由緒
熊野神社元宮
神社由来によれば開創は白鳳元年(六七二)といわれる。
本宮七間四面、拝殿十二間で三十六の僧房があり修験者の修行の場であったが、天文年間(一五五〇頃)の合戦で神社僧房悉く焼失した。
延宝八年(一六八〇)明永に移転再建したが、寛政十二年(一八〇〇)には再びこの地へ移転、天保十一年(一八四〇)には、また明永に移り現在に及んでいる。
近くに鳥居跡がある。
元熊野堂跡
この元宮は、白雉元年(六五〇)、役小角の創建といわれ広大な社で、近くに三十六坊を構えてあったが、弘治元年(一五五五)の戦禍で全焼した。その後、明永の地と交互に移転を繰り返した。
創建は白鳳元年(672)あるいは白雉元年(650)。役小角による創建といわれます。
かつては36坊を有する修験の修行場だったようですが、天文21年(1552)あるいは弘治元年(1555)に戦禍で焼失。
その後は明永(現在の熊野神社鎮座地)と交互に移転し、最終的に明永の方に落ち着いています。
明永町への移転以前は、こちらが塩湯彦神社の里宮として機能していたのだと思われます。
御朱印
御朱印の有無は不明ですが、おそらくないでしょう。
だって跡地ですから。
アクセス
横手駅東口から東に向かい、突き当り(位置)からみずほの里ロードを北上。
2.2kmほど先(位置)で東側の脇道に入ります。
ゴルフ練習場の案内があるのでそれにしたがって坂を上っていくと、練習場の前を過ぎたあたりで車止めがあります。
車止め
車止めの手前が駐車スペースになっています(上の写真を撮っている場所のちょっと後方)。
ただ、元熊野堂参道を通るのであれば、いこいの森の南にある砂防ダム(横手南小学校のあたりから東に行った場所)の横の駐車スペース(およその位置)に停めて歩いたほうがいいかも知れません。
いこいの森の地図は下記リンクから確認できます→横手市観光協会のサイトから削除されました。
神社概要
社名 | 元熊野堂跡(もとくまのどうあと) |
---|---|
通称 | – |
旧称 | 明永山神宮寺遍照院 |
住所 | 秋田県横手市睦成字城付 |
祭神 | – |
社格等 | 式内社 出羽国平鹿郡 鹽湯彦神社(里宮) |
札所等 | – |
御朱印 | 不明(おそらくなし) |
御朱印帳 | – |
駐車場 | あり |
公式Webサイト | – |
備考 | 現社地:明永山熊野神社 |
参考文献
- 「熊野神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)