古四王神社(秋田市寺内児桜)

古四王神社。

秋田城跡の南、寺内児桜に鎮座。

日本書紀 斉明天皇4年夏4月条に見える齶田浦神の比定社、また日本三代実録 貞観7年2月27日己卯条に見える高泉神の論社。

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境内

鳥居

 

社号標

 

狛犬

 

菅江真澄の歌碑

 

石碑裏側

ひろ前の雪のしらゆふそのまゝに手酬るこしのおほきみのみや

この歌碑は、菅江真澄翁の百七十年祭にあたりその功績をたたえ、建立したものである。

歌は、文政五年(一八二二)一月十八日、真澄翁六十九歳のおり、古四王神社に参拝し、詠んだもので、日記「筆の山口」の中に誌されている。

 

手水舎

 

石段下の狛犬

 

石段

 

石段上の狛犬

社殿

拝殿

 

扁額

 

龍の彫刻

 

本殿

境内社

田村神社

 

扁額

 

田村神社横の古四王神社碑

 

社殿に掛けられている甲羅

 

古四王神社社殿のある階段上広場の北西隅に、わかりづらいですが階段があります

ここを下ると境内社があります。

 

岩戸神社と神明社?

 

2社は並んでいます

 

横に古四王神社碑

 

表参道の石段の中ほどからも入っていく道がありますが、普通は気づかないですよね…

 

参道入口をでて北西すぐ、角にある社(?)

境内社かどうか、そもそも社なのかお堂なのかも不明。

高清水霊泉と菅江真澄墓

参道前の道路を渡ると、菅江真澄墓の案内が立っています

 

案内の方向に100m強進むと、高清水霊泉入口と書かれた標柱と、高清水の石柱が左手に現れます

ここを左手に下ります。

 

高清水霊泉

阿倍比羅夫が秋田の浦に下向の際、越の主(大毘古命)を高清水岡に祀ったときに亀とともに湧き出たと伝えられる清水。周囲の清流には山椒魚も生息しているとか。日本酒・高清水の名前はここに由来します。

 

横に観音像

5円玉の詰まれ方がすごい。

 

案内板

この水は飲むことができません。

この高清水霊泉の水は古くから、人々に飲み水、御手洗水として使用され親しまれてきましたが、現在は衛生上、飲むことができません。

ちょっと切ない…

 

高清水霊泉入口からさらに西へ行くと橋があります

 

橋を渡ると菅江真澄墓入口の標柱

階段上は墓地。

 

菅江真澄墓

墓地の奥の方にありますが、横に大きな案内板が立っているのですぐわかります。

 

案内板

菅江真澄墓

菅江真澄翁(本名 白井英二)は、宝暦四年(一七五四)に三河の国(愛知県東部)で生まれた。天明三年(一七八三)に旅に出た時から白井秀雄と名乗り、文化七年(一八一〇)から菅江真澄と称した。文政十二年(一八二九)七月十九日に仙北の地で亡くなったが、墓碑には七十六、七とあるので、当時の秋田の友人も正確な年齢はわかっていなかったようである。

人生の大半を旅に生きた翁は、百種二百冊におよぶ著作を残した。著書には詳細な図絵が挿入され、読む人に感動を与えている。日記・地誌・随筆・図絵集などの体裁をとっているが、その内容は民俗・歴史・地理・国学・詩歌・考古・本草などの分野に及んでいる。人々はこれを「菅江真澄遊覧記」と総称している。

翁は旅を好み、故郷を出る前にも、富士山に登り、伊吹山で薬草をかり、姥捨山の月をみ、大峰山では修験道を学んでいる。旅に出てからは、長野・新潟・山形を通って、天明四年は柳田(湯沢市)越年した。翌年、秋田を訪れた後、青森・岩手・宮城で遊んだあと、北海道に渡り、青森をへて、享和元年(一八〇一)に再び秋田に入った。この時翁は四十八歳であった。これより没するまでの二十八年間、翁は秋田を離れることなく、藩主佐竹義和や多くの藩士・百姓・手工業者・遊芸人などと交際した。藩の許可を得て、秋田六郷の地誌、雪・月・花の「出羽路」の編纂に精魂をかたむけた。翁の著書は、きびしい自然の中に生きた雪国の常民の喜びや悲しみを客観的に記述したものとして、民族研究の貴重な資料となっている。

秋田を歩き、秋田を誌し、秋田を愛した翁は、取材途中梅沢(旧田沢湖町)で病に倒れ、角館に運ばれて没したとも、梅沢で亡くなったとも伝えられている。翁の遺骸は友人鎌田正家(古四王神社の摂社田村堂の神官)の墓域に葬られ、天保三年(一八三二)の三回忌をもって墓碑が建立された。墓碑銘は翁の弟子鳥屋長秋が書き、長文の挽歌が刻まれた。

友たち あまたして

石碑立る時によみてかきつけける

三河ノ渥美小国ゆ

雲はなれ こゝに来をりて

夕星の かゆきかくゆき

年まねく あそへるはしに

かしこきや 殿命の

仰言 いただき持て

石上 古き名所

まきあるき かけるふみをら

鏡なす 明徳館に

ことゝに さゝけをさめて

剣太刀 名をもいさをも

万代に きこえあけつる

はしきやし 菅江のをちか

おくつき処

由緒

旧國幣社古四王神社由緒

御祭神は、武甕槌命と大毘古命である。

由緒の古伝では、崇神天皇の御代に四道将軍の一人として北陸道に派遣された大彦命が、葦原中國平定に功のあった神代の武神武甕槌命を奉齋創祀し、齶田浦神と称されていたが、斉明天皇の4年阿部比羅夫が秋田地方を遠征した際に、祖先でもある大彦命を合祀して古四王神社と称し奉るようになったといわれている。

歴史学的には秋田地方に大彦命の遠征が到達していたという明徴はないが、北陸東北の各地に古四王、巨四王、越王などと記される多くの神社が奉祀されているから、極めて古い時代から北陸とそれに續く東北の日本海側に亘って広く「こしおう」の神は崇敬されていたのであらう。だから城の國守として北陸に勢のあった比羅夫が、この神を尊崇したことも当然だったであらう。

奈良朝以後は、蝦夷平定の拠点秋田城が神域の高清水岡に營まれることとなったので、城鎮護の武神として尊ばれることになり、ひき續いて中世には安東・秋田氏に、近世には佐竹氏に武神としての崇敬を受けたのである。

近くの住民や遠くの信者からは、單に武神としてのみではなく、産土神として豊作や眼病平癒についても広く崇拝されたのである。

明治以後県内ただ1社の國幣社に列せられたのも、その歴史的な神徳の高貴さによるものであった。境内には田村神社(住吉神社・今木神社合祀)岩戸神社・神明社の攝社・末社も鎮座している。

創建は不詳。

社伝によれば、崇神天皇の御代、蝦夷平定の為四道将軍の一人として北陸道に派遣された大彦命が、北門の鎮護として武甕槌命を齶田浦神(あぎたのうらのかみ)として祀ったのがはじまりとされます。

ただ、齶田浦神を武甕槌命とするのは後世にできた説で、本来は秋田浦の地主神であったと考えられているようです。

 

日本書記 斉明天皇4年4月条に「不爲官軍故持弓矢、但奴等性食肉故持。若爲官軍以儲弓矢、齶田浦神知矣。將淸白心仕官朝矣。」と見え、この齶田浦神を当社に比定する説があります。

社伝に、斉明天皇4年(658)阿部比羅夫が下向の折、祖先である大彦命を合祀、古四王と称したとあるのはこの時のことを指すかと思われます。

齶田を秋田の古名とする説や、齶田浦神を蝦夷の信仰対象であった在地の神とする説もあります。

 

天平5年(733)出羽柵が高清水岡(当地付近)に移されました。

のちに出羽柵は秋田城となり、北方防備の拠点となりますが、当社はその鎮守神とされました。

はじめ四王堂、中世には古四王大権現と呼ばれました。同じく秋田城の鎮護であった四天王寺と習合が進んでいたようです。

 

三代実録 貞観7年(865)2月27日条に「出羽国正六位上…高泉神…従五位下」の記述が見え、高泉神を当社に比定する説があります。

 

明治になり、郷社、県社を経て、明治15年(1882)に国幣小社に昇格。

県内で最も社格の高い神社となりました。

 

新潟県北部から秋田県にかけての日本海岸や河岸を中心に、東北・北陸地方に同名の神社が数十社分布しています(表記は巨四王、高志王、腰王、小四王、小姓、越王など様々)。

古四王神社の社殿は総じて北面もしくは西面しているのだそうです(当社は西向き)。

『日本の神々』では、少数派である北向き社殿について、交渉の方向として北方を目指している人々の信仰心のあり方が示されているのではないか、北方の神が渡来してきた方向を望むという信仰の在り方が維持されているという視点も必要ではないか、としています(西向きについては、西の日本海から来た越王を祀ることから一応説明できるとする)。

他にWeb上では、妙見信仰と結びつける意見も見かけました。

この件に関して述べている資料をほとんど見つけられていないので、もう少し調べてみる必要がありそうです。

御朱印

御朱印はあります。

社務所で拝受可。

アクセス

秋田駅の西から県道26号を西へ進み、臨海十字路交差点(位置)から国道7号に入って北へ。

1.5kmほど先、港大橋前交差点(位置)を東(右手)へ。

突き当りを左に曲がり、500mほど行くと右手に駐車場(位置)。

神社概要

社名古四王神社(こしおうじんじゃ)
通称
旧称古四王大権現
住所秋田県秋田市寺内児桜1-55-5
祭神

武甕槌命

大彦命

社格等

日本書紀 斉明天皇四年四月 齶田浦神

日本三代実録 貞観七年二月廿七日己卯 高泉神 従五位下

旧国幣小社

別表神社

札所等
御朱印あり
御朱印帳
駐車場あり
公式Webサイト
備考

参考文献

  • 「古四王神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
  • 「古四王神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
  • 谷川健一編『日本の神々 神社と聖地 第十二巻 東北・北海道』白水社, 1984