塩湯彦神社。
横手市山内大松川にある、御嶽山の山頂に鎮座。
式内社 鹽湯彦神社に比定される神社。
参道
式内塩湯彦神社参道碑
いよいよ山道に入るあたり、最後の民家の手前(位置)にあります。
碑の脇を進んでいくと鳥居
妙見大菩薩 大山祇命 馬頭観世音(?)
神仏習合時代の碑でしょうか。位置的に遥拝所のような意味合い?
横には御神木らしき木
この参道は戦後登山する人もなく木が生い茂るなど密林のようになって荒れ放題でした
この忘れられた郷土の山御嶽山をなんとかして自分達若者の手で市民の憩いの場にしようと昭和48年9月御嶽山開発委員会を組織し約250名の市民のご協力により完成した登山道です
ここで言っている登山道はおそらく林道(車道)ではなくここ(碑や看板があるところ)から歩いて登る登山道だと思います(この案内文は昭和52年、萱峠線の開通は昭和58年)。ここに今でも登山道があったかどうか、もう覚えていないのですが、仮にここから登るとすると直線でも5km。かなりきつい道なのでは…
ちなみに最後の方に「水飲場、神社復活等を計画しております」とありますが、上述の通りこれは昭和52年に書かれた文章。この時点では社殿倒壊していたのでこう書かれているんですね。実際5年後の昭和57年に社殿は再建されています。社殿下の水場もその時造られたのかもしれません。
林道を走っていくと右手に「追分の一本杉」の標柱(位置)
追分の一本杉
かなり大きいです。股下を潜れそう。
御嶽山(御岳山 北緯39° 22′ 02″ 東経140° 38′ 07″)
御嶽山は、標高751m(三角点は頂上の400m南 標高744m)で、奥羽山脈西側の真昼山地南端に位置する。手軽なハイキングコースとして親しまれる一方、横手地域のほとんどの場所から望むことができるためか、古代から住民の尊崇の対象となっている。
山頂付近の穏やかな斜面は、ヒメアオキやブナで覆われる。西側斜面には、原生林に近いブナ林やヤチダモの大木に囲まれた小池(平坦湿潤地)がある。中腹にはブナ伐採後に形成されたコナラやミズナラの林、植林された杉林、屏風岩付近ではケヤキの林が見られる。
初夏には、おなじみのカッコウやホトトギスなどの声が響き、林道からクマタカやイヌワシなどの猛禽類がゆったりと飛翔する姿が観察されることもある。
山頂には、延喜式神名帳(927年)に記載されている塩湯彦神社が鎮座する。東側山腹には7世紀頃に開かれたと伝えられる白滝観音があり、秋田六郡三十三観音の第一番札所とされた。
以前は、いくつもの登山道があったが、多くは途絶えてしまった。
昭和58年に林道萱峠線が開通し、ここ「追分の一本杉」を経由して白滝観音口と一の坂口を結んでいる。
一本杉の北側(道路挟んで向かい)の一帯だけ木が伐採されていました
なぜかここだけ。何か作るのでしょうか。
一本杉から600mほど進むとアクセスの項で述べた登山口に着きます。ここから北に登っていきます。ダートですが車も通行可。御嶽山作業道と言うようです。
道はこんな感じ
ほとんどないとは思いますが対向車が来ると怖いです。軽トラとすれ違いましたがひやひやしました。
2kmほど行くと階段下に
車はここまで。
階段下広場に立つ案内板
平安時代後期、前九年合戦(一〇五一~六二年)で奥羽の覇者となり、後三年合戦(一〇八三~八七年)に敗れた滅びた清原氏は、当地域にもいくつかの痕跡を残している。主に城栅・落武者等の伝説だが、神仏や産金地をめぐる史談もある。まず、この地に鎮座する塩湯彦神社(一二〇〇年ほど前に創建された式内社)は、清原氏がその上祖を祀った氏神である。
また、清原氏出自の敬虔な僧・保昌房は、仏師・定朝に観音像三三体を制作させ、教円阿闍梨に託して開眼供養を行い、それを県内の各霊地に奉納し、秋田で初めて三十三番札所を定めたといわれる。その第一番札所は、塩湯彦神社の奥の院(湯の峯)である白滝観音だった。史実とすれば、財力なくしては到底果たし得ない、壮大な宗教事業だったと言えよう。
ちなみに、保昌房は横手の本堂(般若寺)のほか、山内大松川の奉書巻(保昌畑)、と山内平野沢の保章山(保昌山)に、別院を造営していたといわれる。こうした保昌房の旧跡は、金堀沢・大台・武道沢・五枚沢など、砂金採取地や古金山にごく近い。保昌房はもともと(出家前)満徳長者と呼ばれ、諸金山の山主だったという伝説も語られてきた。
水場
奥の石段を200mほど登ると社殿前へ
社殿
社殿
参拝は11月。雪囲いがされていました。
雪囲いの隙間から
御嶽山は七百四十四米の高山でその昔役の行者の開山と伝えられ一千年の歴史を持つ由緒ある霊山である
その塩湯彦神社の社殿が昭和三十八年の豪雪で倒壊し山は荒廃の一途を辿った
この現状を見かねた横手市杉沢地区の青年有志三十名が昭和四十八年九月自発的に御嶽山開発委員会を組織し御嶽山のあすを開くひたむきな活動を続けてきた
その中で社殿再建の提唱が持ちあがりこれを実現させようと横手市山内村の同志が寄り合い、昭和五十五年八月四日当再建奉賛会を結成した
以来住民への協賛呼びかけと神社再建工事が進捗し昭和五十七年七月二十日五百余名の参拝者を得て塩湯彦神社の竣工式を荘厳に挙行
青年の抱いていた再建の夢が見事ここに実現されたのである
よってその功を碑に刻み永く記念するものである
社殿の後ろには石祠のような物
中は見ませんでしたが、玄松子の記憶さんによると蝋燭立などがあるそうです。社殿倒壊後に祀られていたという石祠がこれなのかもしれません。秋田県神社庁の当社ページにも境内神社として旧石祠が記載されていますし。
手水鉢
灯籠
祭祀に使われるもの?
社殿左右にある道
今も使われているのでしょうか…
白滝観音
作業道の途中(水場より500m程手前)に当社奥の院とされる白滝観音への分岐があります(位置)。
案内板があるのでわかりやすいと思います。
今なお深山幽谷の趣きがある御嶽山は、古来神仏の座す霊山とされていた。特に平安時代には塩湯彦神と白滝観音が鎮まる聖地として、奥州藤原氏の先に奥羽の覇者となった清原氏に尊崇された。塩湯彦神社は清原氏一族の氏神(式内社)であり、湯ノ峰白滝も同氏ゆかりの霊場だったからである。その境内にたたずめば清原氏の槿花一朝の夢を思わずにはいられない。
さて、塩湯彦神社へ参るにはこの道を直進し、白滝観音参詣はこの分岐点で右折する。ただ、この通路は新たに通した短絡路であって、昔の人々が物詣でした本来の参道ではない。古来の表参道は、石町-八少女屋敷-久保野目-古瀬渡-大鶏居山-丸山-平等道-明沢野-鳴見沢-古真木長根-綱取-滝山-地獄谷-滑ヶ沢-行者第-境内、という道筋だった。
右の順路は『雪の出羽路』に記されている。著者の菅江真澄は山内側(裏参道)から、大山祇神社-針森-綱捕-比良槻-湯の岬峠-九折-境内と登り、塩湯彦神社に参拝して胸に迫る思いをした。そして、神前で詠んだ和歌を書中に添えた。
しら雲か なみかあらぬか 遠方を 四方にみたけの いや高くして
この案内板の右手に入って行きます。ただし夏期は草ぼうぼうになるかもしれません。例祭付近(7月下旬)なら刈り払われているかも。
道に石仏が祀られています
途中に案内標識あり
三本杉
この辺りから道は下りになります。落ち葉が多い時期だったので踏み跡が不明瞭なところもありました。奥の院なのに本社より低いところにあるのは珍しいですね。
下っていくと沢があります
これを渡ります。
史跡(平安時代後期における観音信仰の霊場)湯ノ峰白滝
御嶽山はかつて温泉(塩泉)が湧いていたといいますが、湯ノ峰というからにはこの辺りに温泉が湧いていたのでしょうか。
白沢薬師?
石仏
南無白滝龍神堂
沢の上流側
下流側
この先は滝。滝壺の岸壁に観音像が埋め込まれているそうなのですが、場所が場所だけに見ることができません。水の枯れている時に滝壺に入りこむとか、滝の上から命綱をつけて下りれば見られるかもしれませんが…
写真が横手の情報サイトに掲載されていましたので、ご参考まで。
由緒
御嶽山
人皇㐧六十代御醍醐天皇の延喜年間撰上せられた神社で全国三,一三二坐の一坐として、延喜式神明帳に所載の古社廷喜式内である。
出羽の国九社の一社である。
秋田藩主 佐竹義格公は江戸前期の正徳年間中世を通じて廃絶していた領内の二社(御嶽山、高岳山)の式内社を復活し以前からの一社(保呂羽山)を加え国内三社として再編成した。
保呂羽山は断絶する事なく、現在に及んでいるが、他の二社は古代国家の変質内至平安仏教の浸透以降、式内社としての性格形式を失い、社家も又定着することなく廃絶し、又藩の勢力の媒介によって復活したものである。
塩湯彦神社として復興された御獄山は奥羽山脈の西麓に近く後三年の役(十一世紀)で清原家衡がたてこもり敗れた金沢柵の東方五kの地点にある霊山で、北側は平鹿、仙北両郡の境界になっており、南麓の塩湯彦神社里宮、鶴ヶ池神社から東に進めば白木峰を越に北上盆地に達することができる要衝の地を占めている。
他の一社副川神社は仙北郡神宮寺嶽にあったが、秋田城の北門を鎮護する名目で、今の山本郡と南秋田郡との境にある、高岳山まで北上して復活したのである。
正徳三年に大友大隅守永貞、同治部少輔福命の父子が御嶽山、高岳山の二社の再興を命ぜられ復活してから佐竹三山と称して代々三国社として尊敬せられ現在に及んでいる。
社伝によれば、白鳳12年(672)役行者により開基。
ただしこれは神仏習合の影響による伝承で、御嶽山に湧出していた塩泉の神を祀ったのが始まりと思われます。
延喜式神名帳にみえる「出羽国平鹿郡 鹽湯彦神社」は当社に比定されています。
「塩湯彦」という社名(神名)の由来ともなった塩泉は、『雪の出羽路』によれば山崩れで埋没してしまったようです。
その後、弘安年中(1278~88)一遍上人が再建。再建というのはその時点で既に一度衰退していたのか、単に社殿を建て直したのか。
中世期は熊野系修験の影響で熊野堂、御嶽権現と称していたといいます。
しかしその後荒廃。
正徳年間(1711~15)佐竹義格が領内の式内社を復興を指示。
奉行茂木頼母と波宇志別神社社家大友永貞・福命父子の調査で御嶽山山頂を旧跡に比定、正徳5年(1715)社殿が完成し、大友福命を神主とし、享保ごろに30石の社領が寄進されました。
波宇志別神社、副川神社とともに三国社として崇敬され、領内の水旱・疫病などがあるたび参拝奉幣が行われる等崇敬されました。
明治4年(1871)廃藩により社領返上。
同年火災により焼失、再建するも仮拝殿建立にとどまります。
明治6年(1873)郷社列格。
大正8年(1919)社殿改築するも風雪により破損、昭和38年(1963)大雪でついに倒壊。
再建はなされず石祠を祀るのみとなっていました。
その後御嶽山開発委員会や再建奉賛会が組織され、昭和56年(1981)社殿再建、翌57年に遷座祭斎行。
昭和58年(1983)には林道萱峠線が開通し、より参拝しやすくなりました。
現在の祭神は速玉尊、大山祇命。
速玉尊は熊野系修験の影響、大山祇神は山岳信仰によるもののようです。
『神道大辞典』には「祭神は明記を闕く」とあります。
『雪の出羽路』は「恐くも此おほむ山は、平鹿郡に二柱たゝせ給ふ式内のおほむ神鹽湯彦命とまをし奉る也。鹽湯比古は気化の御神にして鹽土翁を斎奉るといへり。また御嶽は三嵩にして三の峯あり、其一峯には天八衢大神、一峯には大汝貴命、一峯には少彦名命ませり」と、塩土老翁、または三つの峯に天八衢大神・大汝貴命・少彦名命をそれぞれ祀るとします。
本来の祭神は、御嶽山に湧出していた塩泉の神だとみられています。
御朱印
御朱印はありません。
本務社の横手八幡神社さんに確認済み。
アクセス
—2022年追記—
令和3年時点で横手地域の萱峠林道は路体崩落により全面通行止めとなっています(復旧時期未定)。
よって下記のルートは使用できません(もしかすると山内から273号経由で林道の西側からアクセスすれば通れるかもしれませんが…)。
ちょっと時間はかかりますが、北にある黒森山を経由して御嶽山に至ることが可能です。
県道12号に黒森峠登山口(位置)があるのでそちらから(駐車スペースあり)。
人にもよると思いますが、山行記録参照すると黒森峠から御嶽山までは片道1時間ちょっとくらいの模様。
—追記終わり—
県道272号を横手高校の横(位置)から東に入ります。
しばらく道なりに進みます(700mほど進んだところで広域基幹林道萱峠線に入ります。そのまま直進)。
7.5kmほど走ると左手に作業道の入口が現れます(位置)。「菅江真澄の道」の標柱が立っています。
駐車スペースがあるのでここに車を停めて歩いて登れます(1時間もかからないはず)。
未舗装ですがそこからさらに車で登ることもでき、社殿から200mほどのところまで行けます。
そこにも駐車スペースあり。
ダート道ですが、二輪駆動の軽でも行けました。ただ、雨天時や雨天後はきついかもしれません。積雪のある時期は言わずもがな。
神社概要
社名 | 塩湯彦神社(しおゆひこじんじゃ) |
---|---|
通称 | みたけさん |
旧称 | 熊野堂 熊野権現 |
住所 | 秋田県横手市山内大松川字御嶽山3 |
祭神 | 速玉尊 大山祇命 |
社格等 | 式内社 出羽国平鹿郡 鹽湯彦神社 旧郷社 |
札所等 | 秋田六郡三十三観音霊場 第一番札所(白滝観音) |
御朱印 | なし |
御朱印帳 | – |
駐車場 | あり |
公式Webサイト | – |
備考 | 里宮は塩湯彦鶴ヶ池神社 |
参考文献
- 「御嶽山塩湯彦神社」「湯の峯白滝観音」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 「塩湯彦神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
- 式内社研究会編『式内社調査報告 第十四巻 東山道3』皇學館大学出版部, 1987
- 谷川健一編『日本の神々 神社と聖地 第十二巻 東北・北海道』白水社, 1984
- 明治神社誌料編纂所編『府県郷社明治神社誌料 中巻』明治神社誌料編纂所, 1912(国会図書館デジタルコレクション 656コマ)