宮内神社。
西条市宮之内に鎮座。
式内社 周敷神社の論社。
境内
鳥居
扁額
社号標
神門
狛犬
手水舎
境内
社殿
拝殿
本殿
境内社等
愛媛県神社庁のページによると、境内社は以下の通り。
- 生田社(稲田女命宮社(仁徳天皇)
- 荒神社(須佐之男命)
- 庚神社(猿田彦命)
- 天神社(菅原道真公)
- 水神社(水波之女神)
- 蛭子社(事代主神)
- 白山社(大山咋命)
- 祖霊社(神主家祖霊)
- 狸神
左から庚申社、天神社、社名不明社、水神社
生田社
左:蛭子社、右:白山社
若宮社
荒神社
社名不明社(祖霊社のような気がする)
石祠(狸神かな)
絵馬殿
神具庫?
神苑
…といっても遊具が少しある他は空き地。
社叢
平成二年十一月十九日指定
宮内神社の社叢は、周囲約三百メートル、面積約八千平方メートルで、境内には、三百本以上のツバキが群生し、最大級のものは樹高二十メートル、樹齢二百年以上と推定される。
すべてヤブツバキで、これらの中には筆芯で色の鮮やかなもの、雄しべが平行で筒状をした純白のもの、絞りのものなど、大変珍しい種類のものがある。
由緒
創建時期は不詳。
伝承によると舒明天皇行宮の古跡であり、舒明天皇11年(639)、伊予国司に勅して大三島明神を勧請し、三島新宮と称したといいます。また、行宮を津ノ宮と号し、これが郷名となって津宮郷となったとも。
また、斉明天皇崩御の際には奉幣勅願があり、貞観13年(871)に全国の名社に祈雨祭を行わせた際、伊予国桑村郡津ノ宮大明神として当社が含まれていたとも。
寿永年間(1182~84)源平合戦の際に社殿焼失、文治2年(1186)河野通俊が再建。
南北朝時代に兵火に罹り、宝器等焼失。
延元2年(1337)満良親王の御願があり、太刀を添え奉幣の式が行われたとされます。
延文4年(1359)旱魃の際、周布・桑村両郡の雨乞祈祷を命じられたとの記録があるとのこと。
文安6年(1449)社殿造営(棟札が残るという)。
天正13年(1585)にまたも戦火に罹り炎上、神宝など悉く焼失。
寛文年間(1661~72)に宮内神社と改称。
延喜式神名帳にみえる「伊予国桑村郡 周敷神社」に当社をあてる説があります。
享保5年(1720)、当社神主が上京し、当社に周敷神社の棟札があると吉田家に訴えたことが始まり。
周敷神社であると主張する他の神社と争論になるものの、松山藩によって周布村の周敷神社(現・西条市周布の周敷神社)が式内社と決定されました。
その後、件の棟札を巡り当社と国安の周敷神社(現・周敷神社藤原神社合殿)間で論争が再燃。
松山藩により両者処罰され、以後論争は落ち着いたようです。
現祭神は大山祇神、高龗神、雷神。
『伊予温故録』では天御中主尊、上津姫命、下津姫命、国常立尊、大山積命、素盞嗚命としています。
これらの祭神がどのような経緯で定められたかは不明。
なお『明治神社誌料』は上記全ての神を祭神として列記しています。
御朱印
御朱印の有無は不明。
アクセス
今治小松自動車道の東予丹原ICを降り、左折。
600mほど先の突き当り(位置)を左折、700mほど先の十字路(位置)を右折して周越農道を北上。
約3.2km先、宮内橋北詰交差点の一つ北(位置)を右手に入ります。
300mほど先、左手に鳥居、右手に神苑。
神苑がおそらく駐車場(愛媛県神社庁のページに駐車場50台とあり、広さからして他に考えられない)。
神社概要
社名 | 宮内神社 | |
---|---|---|
通称 | – | |
旧称 | 周敷宮内大明神 津宮周敷大明神 三島新宮 宮内大明神 | |
住所 | 愛媛県西条市宮之内47,48 | |
祭神 | 大山祇神 高龗神 雷神 | 現祭神 |
天御中主尊 上津姫命 下津姫命 国常立尊 大山積命 素盞嗚命 | 『伊予温故録』 | |
社格等 | 式内社 伊予国桑村郡 周敷神社 旧郷社 | |
札所等 | – | |
御朱印 | 不明 | |
御朱印帳 | – | |
駐車場 | あり | |
公式Webサイト | – | |
備考 | – |
参考文献
- 「宮内神社」, 『日本歴史地名大系』(データベース「JapanKnowledge」)
- 「宮内神社」, 神社本庁教学研究所研究室編『平成「祭」データ(CD-ROM)』全国神社祭祀祭礼総合調査本庁委員会, 1995
- 式内社研究会編『式内社調査報告 第二十三巻 南海道』皇學館大学出版部, 1987
- 明治神社誌料編纂所編『府県郷社明治神社誌料 下巻』明治神社誌料編纂所, 1912(国会図書館デジタルコレクション 350-351コマ)